10

文字数 2,429文字

 素直になれよ。頭の片隅で誰かが言った。引き止めるなら今だぞ、後戻りできるのは今だけだぞ、お前はまた全てを失うぞ。
 これでいいんだ。フユトは思う。これで苦しまなくて済む、苛まれなくて済む。娼婦たちに性急すぎると揶揄されながら、余裕がなくて悪かったなと開き直る、あの日々に戻れる。シギとはまた、仕事のみの関係になる。寸分の狂いもない鉄面皮と、計算され尽くした表情の機微に掻き乱される、かつての日々が戻ってくる。
 その喪失感たるや。
 意を決して振り向いた先で、シギがこちらを見ていた。侮蔑を含まない柔らかな微笑が、その口角に浮かんでいる。確信犯め、と思わないでもなかったものの、フユトにはもう、陥落以外の道は残っていない。
 狡い。
「……当分は俺だけにしとけよ」
 長い逡巡を終え、突きつけられてしまった答えに顔を伏せ、フユトは近づく気配にそう言った。シギの噛み殺し損ねた失笑に苛立ちながら、それを上回る羞恥のせいで、食ってかかることはしない。
「わかった」
 シギも余計なことは言わないと決めたのか、フユトの言葉をそのまま受け取り、承諾する。
 そのまま二人でホテルに戻ってから、フユトは一人、バスタブに浸かっていた。
 どんな顔でシギを見ればいいかわからず、あれからずっと外方を向くか俯くかして、目を合わせていない。居心地の悪さから、こうして浴室へ逃げたものの、リビングにはシギがいるのだと思うと、今度はなかなか出られなくなってしまった。
 かつて、どんなにつらい状況に置かれても、こんなことは思わなかったのに、今はひたすら、消えてしまいたいと願っている。
 あんなことを言うつもりなんてなかった。けれども、シギさえも傍らから遠ざかってしまったら、フユトには孤独以外、何も残らない。耐え忍んだ夜に置き去られてしまったら、フユトには進むべき道など、二度と見えなくなってしまう。
 頭まで湯船に沈んでから、フユトはようやく、風呂を出た。用意されていたバスローブに袖を通して、濡れた髪のまま、リビングへ行く。
 執務机に頬杖をつき、旧世界の経営理論の本を読んでいたシギが、気づいたように視線を向けてきて、さっと顔を逸らした。
「長かったな」
 単なる感想の一言さえ、言外の含みをあれこれと考えてしまう。昨日も誘ったくせに今日も誘うのかと呆れられている気もして、ますます目が合わせられない。
「……まだ起きてんのかよ」
 時間はまだ、深夜に向かう頃合いだ。日付を跨ぐまで一時間ばかりだろうか。未成年でもあるまいし、寝入るにはまだ少し早い。フユトでさえそうなのだから、シギだってそうだろう。
 不満げなフユトに、
「浴びたら寝る」
 お前が浴室を占拠していたせいだ、と直接は言わず、シギが椅子から立ち上がる。
 肋骨の下を叩く鼓動が煩い。そんなことを思いながら立ち尽くすフユトの肩を、すれ違いざまに軽く叩いて、
「先に寝てろ」
 シギが告げる声に、びくり、と意図せず身体が震えた。
 事後の倦怠と疲れで意識を失うように眠ったことなら何度もある。泥に沈むように微睡む身体を心地よく受け止めるマットレスは最高級の低反発で、身体に掛かっているだろう重力を感じない。常ならそのまま、傍らに誰がいてもいなくても眠るところだが、今夜は身体も頭も冴えている。キングサイズのゆとりある広さに横臥して、身を縮める現状は、さながら胎児のようでもあった。
 形だけ閉じていた瞼を、近づくシギの気配と共に開ける。程なく、スプリングがシギの体重分、傾いて撓った。しゅるり、と絹のシーツが擦れる。ほんの少しの間隔を開けて、湯上がりの体温だけが背中に伝わる。ますます、眠れる気がしない。
 そんなフユトなどお構いなく、シギはベッドヘッドに凭れて、横になる気はないようだった。真っ暗な寝室では本など読めないから、恐らく携帯端末でも操作しているのだろう。
 ジリジリしながら、フユトは息を飲む。
「期待してるところ悪いが」
 その微かな動きに、シギは平然とした声で告げる。
「今日は何もしない」
 端末の操作を終えたのか、言いながら、シギがフユトの背中に肌を寄せて横になる。事後で朦朧とした中でも、たぶん、こうして抱き寄せられたことは数少ない。情事の最中はともかく、この男はスキンシップというものに関して淡白だと思っていたから、馴染まなくてむず痒い。
「……期待なんか……」
 確かに、身体は慣れに順応するもので、口では否定はするものの、シギが傍らに来た頃から緩く勃ち上がっているのは否めない。これは条件反射だ。この寝室で何もされなかったことがないから。
 寝る体勢とはいえ、背後を取られて本能的に漲る緊張を察してか、シギが項に唇を寄せた。触れるか触れないかでキスされて、羞恥で頬が熱くなる。
 これではまるで恋人だ。首輪とリード付きの隷属や、まして雁字搦めの監禁でもない。用意されたのはシギの腕の檻、たったそれだけ。その気になればくぐり抜けられるのに、それだけだから逃げ出せない、どんな鍵よりも重い束縛。
 好きだとか、愛しているだとか、そういった告白は一切ない。寄り添うだけのシギの体温に、フユトが勝手に思い込んでいる。勘違いも甚だしいと鼻で笑われたとて、フユトが口に出さなければ、どう感じているかなんてきっとわからない。それだけは隠し通したい。
 思い込みでいいから絆されてやることにした。シギが好きにできるのも、シギを好きにできるのも、絶対的な支配者の牙城の箱庭の中だけだ。首を掻き切ることも、掻き切られることも選べる、広くて狭い二人だけの箱庭。かつての最愛と築いたそれは息苦しいほど閉塞的だったけれど、支配されて繋がれるのは、猛毒のように甘くて、溺れる。
 瞼を閉じた。恐らく眠ってはいないだろう、シギの規則的な呼吸と鼓動に流されたことにして。この懲罰的な支配者に身を委ねれば、きっと、孤独な夜でも安らかに眠れる。
 倦怠のない眠りは、麻薬のようだと思った。



【了】
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