(三・十)五月、Bridge Over Troubled Water

文字数 3,760文字

 星砂が田古の部屋に来て十ヶ月目、日本列島はゴールデンウィーク、巷はのんびりと休息の日々である。田古の昼間のバイトもお休みで、その間はゆっくりと遅めの朝。星砂も付き合って朝寝坊、遅い朝食を取るふたりである。いい陽気、窓から差し込む五月の日差しも柔らか。台所のコップには、そこいら辺の道端から引っこ抜いて来たのか、春紫苑。開け放った窓から吹いて来る風に、にこにこ笑うように揺れている。
 夢の丘公園には色鮮やかな皐月が群れなし咲いている。ゴールデンウィークでも関係なくバイトの星砂は、昼前にはサンファミへ。田古も星砂の様子を見守る為、夢の丘公園のベンチに腰掛ける。すっかり花の散った葉桜の葉と葉の隙間から差し込む木漏れ陽が、そんな田古をきらきらと見守っている。
 星砂もバイトを終えると、公園のベンチでしばし休息。夕映えの空の下、黒猫の雪雄を間に挟んで、星砂と田古とが順番に雪雄の頭を撫でる。転げ回って尻尾の付け根やお腹も撫でてくれと催促する雪雄は、もうふたりには無防備、すっかり懐いて家族のようである。近頃ではふたりが公園を去る時、後を付いて来ようとするから、それを振り切るのが堪らなく切ない。雪雄とだって会えるのはもう後三ヶ月、そう思うと矢張り胸が詰まりそうになる。このままわたし、本当に島に帰っちゃうのかな、ちゃんと帰れるだろうか、まだまだ心定まらぬ星砂である。
 島に電話すると、母美砂とのやり取りは八月の帰郷のことばかり。
「あんたちゃんと帰って来んでしょうね」
「はいはい、大丈夫です」
「ならいいけど。そうそう、那覇の観光ホテルでフロントの仕事があるそうよ。どう、あんた」
「どうって、やだ、まだ勝手に決めないでよ、ねえ」
「分かってる、分かってる。でもちゃんと考えといてよ、滅多にないチャンスなんだから」
「はいはい、じゃね」
 ガチャン。今日もまた、電話の後の星砂はご機嫌斜め。
「なんだかね、やっぱり、そろそろネオン街に行かないかい」
「うん」
 雪雄がどっか行った隙に夢の丘公園を後にして、黄昏のネオン街へと向かうふたり。新宿駅前に差し掛かったところで、田古が、
「ちょっと寄り道しませんか」
「えっ、いいけど、寄り道って」
「なんだかね、やっぱり、海の音が聴こえる場所っていうよ」
 にこにこ顔の田古。
「はあ、またーっ」
 ほらまた始まったと、ため息混じりの星砂。行き先は、JR新宿駅の地下道である。絶え間なく続く改札前の人通り、その足音が海の音に聴こえるのだと力説する田古。
「なんだかね、やっぱり、聴こえるとかじゃなくて、実際、海の音そのものなんだよ」
「はいはい、分かった分かった」と苦笑いの星砂。
 絶えることを知らない人波が押し寄せては引いてゆく、そんな地下道の通りの端に突っ立って、目を瞑る田古と隣りで見守る星砂。聴こえる訳ないでしょ、でもわたしも久し振りにちょっと瞑ってみようかな。恐る恐る目を閉じる星砂、すると、どきどき、どきどきっ……、ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。えっ、嘘っ。でも確かに今、なんか波の音が聴こえた気がした。でもやっぱり、空耳、空耳だよ。ただ足音がちょっとそんなふうに聴こえただけ、詰まり錯覚。あんまりたこさんが言うもんだから、つい先入観念で……。ところがその時星砂の脳裏に、五月の陽にきらきらと煌めく夢国島の海の景色が鮮やかに浮かんで来る……。
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。えっ、でもやっぱり、海の音がしてる。この東京の人波の中で、確かにたこさんの言った通り。でも、どうして……、今迄ちっとも聴こえなかったのに。はっとして目を開けると、隣りにいる田古の目に涙がきらり。どきどき、どきどきっ……。
 たこさん、わたしにも聴こえたよ、今確かに海の音、波音、潮騒が。わたしも海を感じたよ、東京の海を、ねえ、たこさん。良かった東京に来て、本当に良かった、たこさんと一緒にいられて。有難う、たこさん……。星砂は無言で田古に微笑み掛ける。すると涙を滲ませながら、田古も嬉しそうに笑い返す。今たこさんと気持ちがひとつになっている、たくさんの人のいる東京の片隅で、今たこさんと心がひとつに……、そんな気がしてならない星砂。たこさん、分かったよ、たこさんの言ってたことが、今少しだけ分かった気がするよ、心の中でそう呟いている星砂である。
「なんだかね、やっぱり、そろそろ行かないかい。やすおさんがネオン街で待ってるよ」
「うん、行こう」
 手を握り、ノイズの中を歩き出すふたり。どきどき、どきどきっ……、お互いの鼓動と体温が伝わって来るようである。地下道から階段で表に出ると、ふたりの耳に響いていた海の音も、潮が引くように途絶える。すーっと魔法が解けるように、消えてゆく。
 ネオン街はもう夜。田古は看板持ちをやすおと交替し、耳にはラジオのイヤホン。ラジオのニュースは秋葉原で通り魔殺人が起こったと伝えている。通り掛りの人々を次々に刃物で刺したのだという。擦れ違う人々の足音を鼓動を、ナイフでずたずたに……。ふう、如何なる理由か分からねど命を奪うということは、ひとつの波を消すことと同じなのだと、なんだかね、やっぱり、ため息を吐く。
 星砂を見ると、やすおと着ぐるみマンのパフォーマンスに拍手を送っている。あの子も人前で唄いたいだろうにと、星砂の心中を思いやる田古。なぜなら真夜中青葉荘で、星砂が夢にうなされ悲鳴を上げることはなくなったけれど、代わりに時より寝言で唄っている星砂の声を耳にするから、何とも切なくてならない。そんな時星砂が口にしているのは決まって、Memory……。
「ねえ、なぜ唄うの、何の為に」
 星砂はやすおに問う。
「また、その質問かよ」
 頭掻きながら、やすおが答える。
「そうさな、歌は俺の夢だからさ。なーんて言うと当たり前過ぎて詰まんねえけんどよ」
 しばしネオン街を行き交う人波に目を向けるやすお、星砂も一緒に見詰めている。
「でもそれ以前に、東京自体がひとつの夢なんだ、ここに集まって来るひとりひとりが、ひとつの夢みたいなもんなんじゃねえかなって思んだよな」
「うん」
「俺はさ、東京が大好きな訳、このごみごみした都会、雑踏がね。何ていうか、落ち着くんだ、まったく赤の他人しかいないってえのに、この中に身を置いてっと不思議に心がやさしくなれんだよ。天涯孤独な俺には一番安らぐ、いつも寂しさを癒してくれる場所なんだなあ」
「うん」
 頷く星砂。でも天涯孤独、天涯孤独かあ。ふと田古を見る星砂である。
「だから俺も、この街の誰かの為に唄いたいんだ、今ここを通り過ぎる誰かの為に。だって歌ってのは、そういうもんだろ。誰かの為に、誰かと共に、誰かに向かって、その誰かはたったひとりでいいんだよ。唄って上げたい誰かがいるから、歌っていうのは唄うもんなんだから」
 喋り終わると、再び唄い出すやすお。曲は、Bridge Over Troubled Water。隣りでは着ぐるみマンが踊り出す。星砂にウインクしながら、颯爽と、くるくると夢見るように踊っている。
 いつしか星砂の隣りには、雪。
「元気、なんか蒸し暑いね」
 雑踏の熱気も手伝ってネオン街のメインストリートは、夏を思わせる陽気である。ネオンライト瞬く夜気の中に、雪の吸うハイライトの白い煙が上昇し消えてゆく。
「こっち来て、しばらくは真面目に働いてたんだけど」
 上京後のことを、星砂に話す雪。
「っていっても未成年だし、大した仕事じゃないけど。二十歳位までは何とかね」
「うん」
「でもたまたま新宿遊びに来た時、声掛けられちゃって、モデルやりませんかって」
「モデル」
 吃驚する星砂、何だか自分の経験に似てる気が……。
「付いてっちゃったの、わたし。ばかでしょ」
 答えに困り、かぶりを振る星砂。
「そんなことないですよ」
「でもね、モデルなんて嘘だったの」
「嘘」悪い予感。
「AV」
「AV」
「そ、AV女優のスカウトだったの。結局、何だかんだで無理矢理……」
「ひどーい」
 頬をふくらませ怒る星砂。
「ひどいじゃないですか、それって」
「でも、わたしも間抜けだったから」
「いえ、絶対許せません、そういうの」
「有難う」
 星砂をなだめ、笑う雪。
「それから後は、水商売。初めはホステスとかやったんだけど、口下手でしょ、わたし、お酒も強くないし。だから続かなくて……、うん、後はずっと風俗、かな」
 俯きがちに、ハイライトの煙を苦そうに吐き出す雪。
「辞めたいって、思ったことありませんか」
 思い切って聞いてみる星砂。けれど雪はハイライトを揉み消しながら、かぶりを振って苦笑い。
「そりゃね、でも今更……、今更何にも出来ないし、わたし。だから……」
 ちらりと腕時計を見る雪。
「あ、御免。もう店戻んなきゃ、じゃね」
 逃げるように去ってゆく雪。
 助けてあげたい、雪さんのこと。切実にそう願う星砂。だって、わたしとおんなじなんだもん。黙って雪の背中を見送っていると、星砂の背後にいつしか田古。星砂の肩をぽんと叩いて、
「なんだかね、やっぱり、そろそろ帰ろうか」
うんと頷く星砂。ねえ、たこさん、雪さんを助けたいの。田古にそう告げたかったけれど上手く口に出来ず、ただ泣きそうな顔で田古の背中に付いてゆく星砂である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み