(三・三)十月、Jesse

文字数 5,358文字

 少しずつ秋も深まり十月、夏の間あんなにお世話になった扇風機も、いつのまにか押し入れの隅で今は大人しくしている。田古との暮らしも三ヶ月目、肉体的にはもう疲労は取れ、心配していた妊娠、性病の不安もなくなったことから精神的にも落ち着いて来る星砂。とは言ってもまだあの八月六日パンドラの夜の傷は残っており、外に出たり、人と接するのはまだまだ恐い。特に強面の男や、意地悪そうなおばさん、関西弁も駄目。直ぐに烏賊川たちを思い出し、拒絶反応と共に恐怖の為全身が震え出してしまう。頻度こそ低くなったものの、まだ悪夢にもうなされる。
 従って引き続きまだ日中のバイトをお休みして星砂を見守る田古。星砂にとって田古はまったくの赤の他人、と星砂は信じている、であり、しかもおっさん。ずっと部屋にふたり切りでいれば、息苦しさやもしかしたら襲われるんじゃないかなんて恐怖感も覚えそうなものであるが、至って平気。丸で空気のように一緒にいて違和感がないし、硬くなったり緊張したりもない。それどころかほんわかとやさしくて、更には切なさを覚えたり胸が痛んだり。あれーっ、まさかこんなおっさんに恋するなんて有り得ない筈だけど……と、ちょっと心配な位の星砂である。
 それでも流石に三ヶ月目ともなれば、疑問も禁じ得ない。やすお、着ぐるみマン、そして部屋を提供し金銭面でも無償にて援助してくれる田古。なぜ彼らはそんなに自分なんかの為に親身になってくれるのか。確かに大都会東京に出て来た田舎娘、近くに身寄りなどないし、烏賊川たちに騙され有り金全部むしり取られて無一文ともなれば、誰しも多少は同情してくれるもの。でも赤の他人なのだから、そんな善意も精々一ヶ月位が限度ではないか。普通なら体調を取り戻した時点で、もういいんじゃない、とっとと出てってよ、となる筈。なのに何も言わずただ当たり前のように援助を続けてくれる田古、その見返りに星砂の体を求めて来ることもないし、女中代わりにこき使うこともない。役人でもなければボランティアでもないのに、なぜだろう。でも幾ら考えても分からない。ただ純粋にいい人たちだからと思う以外には……。
 朝、そんな星砂の気持ちを知ってか知らずでか、田古は陽気に笑って、
「なんだかね、やっぱり、どう、調子良さそうかい。もし宛てが有るんなら、遠慮せず出ていってもいいんじゃない、こんなとこ。かわいい子には旅をさせろっていうよ」
 それを聴いて吃驚、えっと田古を見詰める星砂。
 台所にはコップに挿した可憐なデンファレが。流石に夢の丘公園にもご近所の庭にもない、珍しく花屋さんで買って来た花である。マイメロディのテーブルには相変わらず質素に御飯と味噌汁。ラジオからはニュース、幼い頃星砂も憧れた元アイドル歌手が覚醒剤を使ったとか使わなかったとかで逮捕されたと伝えている。
 味噌汁の中の具は豆腐と葱。田古の適当な切り方のせいで、豆腐の大きさはばらばら、葱だってばーらばら。思わず吹き出す星砂、でも味は煮干しの出汁で最高。啜っているうち涙が出そうになる。わたし宛てなんか何処にもない、島に帰るにしたって旅費ないし、どうしよう。今にも泣き出しそうな星砂に、
「なんだかね、やっぱり、冗談、冗談。こんなとこで良けりゃ、好きなだけいていいのさ」
 と笑う田古。
 ニュースが終わるとラジオからは音楽が流れて来る。Janis IanのJesse。スローバラードに朝食の箸を止め、うっとりと耳を傾ける田古、ついでに唄い出す。この曲もまたやすおのレパートリーである。
 午後、久し振りに部屋から飛び出し、夢の丘公園まで歩くふたり。街はもうすっかり秋の彩り、そこいら中落葉、枯れ葉が舞っている。星砂は公園内の公衆電話ボックスに入って、島の美砂に電話を掛ける。
「もしもし、わたし……うん、元気してるよ、だから大丈夫……」
 電話の向こうからは、幽かに海の音が聴こえる気がしてならない。今はもうすっかり秋、人影のない午後の海辺にただ波だけが打ち寄せる。ただ波音だけが、絶えることなくいつまでも、いつまでも……。ふと星砂は思う、たこさんにもこの海を聴かせて上げたいと。電話ボックスの外、秋風に吹かれながらベンチに腰掛ける田古を呼び込み、受話器を渡して。お母さん、今この人の世話になってるから、大丈夫なんだよって、田古のことを美砂に紹介してしまいたい程の星砂である。そんなこと、出来る筈もないと分かっているけれど。
「じゃ、また……うん、電話するから」
 ガチャン。受話器を置いて電話ボックスを出ると、田古が手を振っている。落葉と枯れ葉と西日の中で、笑っている田古。
 夜、着ぐるみマンがやって来る、田古はバイトへ。毎晩顔を合わせて三ヶ月目ともなれば、メモ帳でのやり取りとはいえ、着ぐるみマンのこともそれなりに分かって来る。
『生まれは青森だな。青森の雪別離という寂れた港町なんだな。訳あって逃げるように、こっちに流れきてもう十一年。今は夢の丘公園で細々と暮らしているだな』
 えっ、夢の丘公園で暮らしている、どきっ。そうだったんだ、やっぱり……。ショックではあるけれど、薄々そんな気もしていた星砂である。ではやすおさんも。着ぐるみマンはメモ帳を続ける。
『その方が気楽でいいだな』
 着ぐるみの恰好をしているのにも、それなりの訳はあるようだが、多くは語らない着ぐるみマン。
『新宿駅前の木馬百貨店の屋上で、アンパンマンショーのバイトをやっているだな。毎週日曜日、よかったら見に来るだな』
 あっ、バイト。やっぱりみんな働いているんだ。うん、行くと頷く星砂。
『夢の丘公園で暮らしていると、日常の移り変わりを敏感に肌で感じるだな』
 うん。
『四季の変化、一日の変化、何かがみんな少しずつ微妙に変化していくだな。夢の丘公園もこの地球もやっぱりひとつの命みたいに、みんな生きて、息をしているんだな』
 うん、うん。
『夜明け前、嘘のように静かな公園の地べたで目が覚めると、いつも遠い雪別離の町の海の音が聴こえてくる気がしてならないんだな』
 うん、『そうだね』とメモ帳で答えながら、自分も夢国島の海を思い出し、ちょっと泣きそうな顔の星砂である。みんな同じなんだね、もしかしたら着ぐるみマンさんも今着ぐるみの中で泣きそうな顔しているのかも知れない。
 やすおが青葉荘に来て、着ぐるみマンが出てゆくと、早速やすおにJesseを教えてもらう。歌詞をメモ用紙に書いてもらい一緒に口遊む。青葉荘の中だからやっぱり囁くような声だけど、それでも唄う喜びを噛み締める星砂。
 やすおもまた、東京の人ではない。
「北海道、雪結晶(ゆきむすび)って時化た港町でさ。中学出てしばらく地元で働いてたんだけど、いろいろとあってな。そいでこっち出て来たって訳」
「そうなんだ」
「かれこれもう十三年になるかな。今は夢の丘公園で暮らしてっけど、ま、そのうちな、一花咲かして……」
 と頭掻き掻き苦笑いのやすお。
 そうか、やっぱりやすおさんも夢の丘公園にいるんだ。もしと星砂は思う、もしたこさんのこの部屋がもっと広かったなら、やさしいたこさんのこと、きっとみんなで住めるのに。でも、もしたこさんのこの部屋がなかったら、今頃わたしも夢の丘公園で暮らしているのかな。そんな自分の姿など想像も出来ない、けれど現実に暮らしているやすおと着ぐるみマンを思うと、胸が詰まる。
「どうした」と心配そうにやすお。
「何でもない」
「ならいいけど」
「やすおさんも田舎の海、思い出すことある」
 問う星砂。海、
「ああ」
 と遠くを見詰めるふうのやすお、それから
「まあな」と寂しげに答える。
「ネオン街にいると、いつも思い出しちまうんだ」
「ネオン街」
「ああ、ネオン街」
「どうして」
「何でだろな、夜、ネオン街の人込みの中にいると、無性に海の音が聴きたくなるんだ」
 無性に、ネオン街の人込みの中にいると……。行ってみたいと思う星砂、自分も夜のネオン街に、その中に身を置いて海を思い出したい。
 日曜の夜、その夜は秋雨前線の爆発的活動によって、東京は記録的大雨に襲われる。交通機関は麻痺、エデンの東を始めとする新宿の風俗店も軒並み臨時休業となる。そこで普段は揃わない四人、星砂、田古、やすお、着ぐるみマンが一堂に会し、青葉荘にてささやかなる晩餐会を催すことに。
 狭いおんぼろアパートのこと、普段は騒げないが、今夜は激しい雨音がお喋りの声を掻き消してくれるから、遠慮はいらない。といって全員揃ったからと、大騒ぎするような連中でもない。星砂のこしらえた料理を囲み、黙々と食する四人。それでも星砂はみんながいることが、ただそれだけで嬉しくてならない。
「なんだかね、やっぱり、美味っていうよ」
「まじ、うめーっ」
 着ぐるみマンもメモ帳で『美味いだな』
 星砂も涙堪えて、鼻すすりながら「有難う」
 ここでやすおから星砂に、何気ない一言、
「そいやまだ、名前聞いてなかったけか」
 あっ、そういやそうだねと、一同沈黙し互いに顔を見合わせる。その通りだなと着ぐるみマンが頷けば、星砂も、
「あっ、確かにそうだね」
と不思議がる。なのに田古だけが妙に焦り顔。
「何だかんだで、いろいろとあったからなあ」
 腕組みして、しみじみと零すのはやすお。
 でも都会的っちゃ東京っぽい。だって名も知らぬ者同士が何の因果かめぐり会い、この大都会の片隅でひっそりと肩寄せ合い助け合い、かばい合いながら黙々と生きているのだから。田古、やすお、着ぐるみマンの三人を見ていると、ついそんな感慨に耽ってしまう星砂である。
 で星砂改めてみんなの前で、ごっほん、今更ながらと照れながらの自己紹介。
「挨拶遅れてすいません。わたし、松堂……」
 ところが突然田古が大声を発し、
「あ、なんだかね、やっぱり、松堂、いい名前っていうよ、ん、分かった分かった」
 驚いたやすおが、
「どうした、おっちゃん」と心配すれば、
「あれえ、ノイローゼの発作かな、急に眩暈がして来たんだよ」
 と田古は深刻な表情。
「そりゃ大変だ、寝た方がいいんじゃね」
「うん、そうする。じゃ松ちゃん、お先に失礼するよ」
「たこさん、大丈夫」
 心配する星砂ににこっと微笑み、田古はさっさと畳の上にごろん。
「じゃ、おっちゃんが言った、まっちゃんでいいか。な、まっちゃん」
「うん」
 やすおの言葉に頷く星砂。着ぐるみマンも頷いて、早速メモ帳に『まっちゃん』と記す。それを見た星砂、
『松ちゃん、松堂の松』とメモ帳に書いて訂正。それを見たやすおと着ぐるみマン、ああ成る程そういう字ねと、頷き合う。
 田古が目を瞑り狸寝入りしている間に、星砂の自己紹介の続き。
「田舎は沖縄の夢国島っていう島で……」
 ところが今度は、やすおが話の腰を折る。
「お、それってどっかで聴いた覚えが。なあ、夢国島って」
 同意を求めて着ぐるみマンに目をやるやすお。着ぐるみマンは首を傾げるばかり。
「本当ですか」と星砂。思い出したやすおが、
「ああ何だ、おっちゃんの田舎じゃん」
 ところが寝ていた筈の田古、がばっと起き上がったかと思うと血相を変え、
「何言ってんの、やすおさん、違うよ、勘違いしないでよ」
 と言下に否定。
「何だ起きてたの。でも、そうだったっけ、わりい、わりい」
 とやすおが頭掻き掻き謝れど、それには無返答で、珍しく不機嫌そうにさっさと狸寝入りに戻る田古である。
 晩餐も終焉を告げ、降り続く雨の中、相合傘で夢の丘公園へと帰るやすおと着ぐるみマン。道すがら、普段と違う今夜の田古の態度に話が及ぶふたり。
「おっちゃん、何であんな向きになったんだ、さっき」
 問うやすおに、考え込み、それからメモ帳で答える着ぐるみマン。
『松ちゃんに、同郷だと知られたくなかったんだな』
「何で、田舎の話とか出来んじゃん。親近感湧くし」
『いろいろと、触れられたくないこともあるんだな』
「ああ、そうか。成る程ね、確かにそうかもな」
 納得するやすお。これにて、以降田古の前では夢国島の話はタブーとするふたりである。
 やすおと着ぐるみマンが去った後、青葉荘の部屋はいつものように田古と星砂のふたり切りに戻る。晩餐の後片付けとシャワーを済ませ、星砂もさっさと就寝。いつ止むともなく降り続く雨の中、田古は寝付けそうにない。星砂の寝息を聴きながら、ぼんやりと天井を見詰めるばかり。やっぱりそうか、そうだったか、何かの間違いであればと……、星砂が我が娘であることの確信に至る田古。しかも松堂って。直ぐにあの幼馴染みの松堂勝を思い出さずにいられない、まさか、あいつと……。そうか、兎に角やっぱり美砂、あいつ再婚してたんだ。でも無理もない、あいつを責める訳にはいかないんだから。わりいのはこっち、なんだかね、やっぱり……。
 と同時に田古は、絶対に自分の正体を星砂に気付かれてはならないと心に誓う。星砂、美砂、そして松堂、遠い夢国島の日々が鮮やかに甦り、田古の胸を締め付ける。ああ、これでもうあの島には帰れなくなってしまった。ああ、人生って何て儚い……、もう何もかもお終いだ。みんなもう昔のことなのか、もうみんな過ぎ去った美しい夢幻に過ぎないのか。身悶えつつ、すべてを諦めようともがく田古である。
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