(三・八)三月、Ribbon In The Sky

文字数 4,218文字

 月が変わってもまだまだ寒さ厳しい八ヶ月目の田古と星砂の共同生活である。早くあったかくなるようにと、台所のコップには菜の花from夢の丘公園。
 今月より朝食は早め、なぜなら田古が日中のバイトを再開したからであり、今迄のようにゆっくりと寝坊してられない。星砂が早起きして朝食を作る、そのついでに田古のお昼の弁当までこしらえる。お陰で田古はバイト先の工事現場で、仲間から冷やかされっぱなし。何だ、てめえ、愛妻弁当かよ。しばらく休んでたと思ったら、女こしらえやがって、この助平じじい。しかし田古は、
「なんだかね、やっぱり、愛娘弁当なんだよ」
 とにこにこ笑うばかり。星砂も昼からサンファミのバイトだから、田古と星砂が一緒に過ごす時間はめっきりと減ってしまう。
 自分がバイトの間星砂のことが心配な田古は、やすおと着ぐるみマンに星砂を見守ってもらうことに。ふたりは交替で朝から青葉荘に来たり、昼は夢の丘公園からサンファミの店内を眺めたり。でも星砂の様子は心配なさげ。田古との安定した暮らしの中で、星砂の気持ちも落ち着きを取り戻し、久しく悪夢も見ずに済んでいる。週五日コンビニのレジで多くの人と接していくうち、本来の陽気な星砂に戻って、今は笑顔一杯サンファミのお昼の顔となっている。
 熱さ寒さも彼岸まで。夢の丘公園のベンチで黒猫の雪雄と遊んでいると、日一日と暖かくなってゆくのが分かる。それだけで幸せ気分一杯の星砂、平穏無事っていいなあと雪雄と大欠伸の日々である。母への電話も忘れない。
「もしもし……ん、こっちも元気だよ……えっ、そうか、海人ももう六年生なんだ、はっやいね……うん、東京もだいぶ春らしくなって来たよ……桜、うん、咲いてる咲いてる、近くに夢の丘公園って桜の名所があって、すっごく綺麗だよ、みんなにも見せたい位……うん、じゃ、また電話するね」
 それからガチャンと電話を切るまでの間、受話器の向こうから春の陽にきらきらと光る夢国島の海の音が、光の煌めきすら包み込みながら聴こえて来るようで、胸が熱くなる。あの海辺で、あの波音、潮騒の中で唄いたい。ギター爪弾き、やすおさんから教えてもらった、歌を唄いたい……。
『おいらのいなかの海はまだまだ冬だな、風も冷たく波も荒いだな』
 と着ぐるみマンが丸文字でメモ帳に記せば、やすおは、
「俺んとこの海も、まだまださっみーよ」
 と寒そうにぶるぶるっと震えてみせる。ようやく暖かくなった夢の丘公園のベンチで、そんなふたりと一緒に木漏れ陽に包まれる時、星砂はしみじみと春の有難さを感じずにいられない。何しろ公園暮らしの中で必死に冬を乗り越えたふたりなのだから、その生の重さは自分などとは比較にならない超ヘビー級の重量。
 しかし今年も冬の間に、公園の仲間の幾人かが凍死したらしい。いずれも高齢者で、朝テントを覗いたら既に帰らぬ人となっていたという。着ぐるみマンもやすおもそんな中でこの冬を生きて来たのだと思うと、屋根があり壁がありストーブも毛布も布団もある自分の生活、そしてそんな生活をさせてくれる田古に対し感謝せずにはいられない星砂である。
 日中のバイトを終えると、田古はもうくたくた。青葉荘に帰宅してシャワーを浴びたら、しばし休憩、それからラジオ片手に夜のネオン街へ。サンファミを終えた星砂は先にやすおたちとネオン街に来て、田古を迎える。
「おっちゃん、疲れてんだろ、大丈夫か。ここなら俺がぶっ通しでやったって構わねんだから、無理すんなよ」
 そんなやすおの好意に時には、
「なんだかね、やっぱり、そいじゃ今夜はお言葉に甘えて帰らしてもらうよ」
 と引き上げることもあるけど、田古が看板持ちを休むことは滅多にない。エデンの東の看板に寄り掛かり、うつらうつらしながらでも、ネオン街のまん中に突っ立っている。
 そんな時にも田古の耳には、必ずラジオのイヤホンが。けれどラジオから流れ来るニュースは悲しい出来事ばかりである。例えば今夜などは『今日イラクで、戦争が始まりました』。なんだかね、やっぱり、と田古は思う。なんだかね、やっぱり、なんだかね、やっぱり、なんだかね、やっぱり……、殺されるのは市民ばかりだっていうよ。道理でもう春のお彼岸だってのに、今夜辺り東京の巷にゃやけに涙っぽい粉雪が、ちらほらと灰色の空から落ちて来るって訳さ。恐らくはこれが、名残り雪っていうよ。
 ずっと冬の寒さで萎縮していたやすおと着ぐるみマンも、いよいよネオン街のメインストリートにて乗り乗りのパフォーマンスを展開する。やすおがシャウト、ロックを唄えば、着ぐるみマンも踊り狂う、ダンス、ダンス、レッツ、ダンス。激しいリズムに疲れたら、替わって今度はスローバラード。ムードたっぷり、着ぐるみマンもオルゴール人形宜しくロマンチックに踊り出す。曲はStevie WonderのRibbon In The Sky。
 流石春の陽気、通行人が物珍しげに足を止め眺めてゆく。時に歓声や拍手も起こり、着ぐるみマンと一緒に踊るギャルも出現、女子高生の記念撮影にも快く応じるやすおと着ぐるみマンである。でもま、殆どの人は無視してさっさと行ってしまうけど。
 そんなふたりの様子をそばでじっと見ている星砂は、そわそわと落ち着かない。若い星砂がふたりのパフォーマンスに刺激を受けない訳がなく、自分の中に込み上げる情熱を抑えるのに精一杯。今更人前でなんか唄えないし踊れない、いや踊りたくなどないし、唄いたくもないんだから。そう必死で自分に言い聞かせようとするけれど、駄目。一旦は傷付き灰となった筈の星砂の夢が、今また熱くその胸の奥に甦ろうとしている。
 唄いたい、わたしも。目の前にいるたくさんの人の前で、わたしも踊りたい……。そんな星砂の気持ちを敏感に察知したのは、やすおと着ぐるみマンである。一旦歌が終わると、やすおが星砂を手招き、
「松ちゃん、唄ってみるーーっ」
 えっ、どきどき、どきどきっ、どうしよう。絶え間なく続くネオン街の喧騒が、その時一瞬星砂の中で沈黙する。でも、まだ決心がつかない。
「平気だってば、全然、へ、い、き」
 やすおと着ぐるみマンに促され、渋々やすおの隣りに立つ星砂。やすおからギターを受け取ると、ふっとため息を零す。そんな星砂の姿に気付いた田古が、はっとして息を呑む。どきどき、どきどきっ、高鳴る星砂の鼓動。
「おっ、女の子じゃん」
 物珍しげに通行人が足を止める、冷やかしの拍手が起こる。
 どうしよう、星砂の指は緊張に震える。その様子に、やっぱり行き成しギター演奏は無理かとやすお。
「じゃ、今夜は唄うだけにすっか」
 頷く星砂からギターを受け取り「何がいい」と星砂に問う。その時さっと思い付いた曲は、Memory……。星砂は小さく答える。
「Memory」
 でも喧騒の中、やすおの耳には届かない。
「何」
 問い返すやすおに、じれったい星砂。だから……、でも思うように唇が動かない。
「じゃ、これは」
 気を利かせ、やすおが弾き始めた、それは、You Are So Beautifulのイントロ。まいいか、うんと頷く星砂。そしてイントロから歌へ。ところがいざ唄おうとすると、やっぱり唇が動かない、無理よ、焦る星砂。気を利かせ再びイントロに戻るやすお。でも、やっぱり、駄目……、星砂の脳裏に今また甦る八月六日パンドラの夜の悲しみ、穏やかな夜の海辺に襲い来る嵐のように……。
「どうした」
「何だ、唄わないの」
 さっきから待っていた通行人たちのブーイング。唇を噛み締め、じっと俯いたままの星砂、いつしか涙も込み上げて、
「御免なさい」
「いいんだよ」
 かぶりを振って、星砂の肩に手を置くやすお、着ぐるみマンもやさしく寄り添う。
「何だ、詰まんね」
「行こう、行こう」
 立ち止まっていた人だかりが動き出す。
「本当に、御免なさい」
「いいから、いいから、気にすんなって」
 着ぐるみマンも『ドンマイだな』とメモ帳に書く。田古はというと勿論心配でならないけれど、今はじっと黙って看板持ちに徹している。その時ひとつの影がハイヒールのカタカタ音と共に、星砂の前に近付いて来る。
「久し振り、松ちゃん。元気してた」
 さっきから通行人に紛れ、ずっと星砂を見ていた雪である。
 やすおたちから離れ、星砂は雪と通りの端へ移動。相変わらずハイライトすぽすぽの雪。
「ねえ、聴いてよ、面白い客いて」
「うん」と頷きつつも、星砂としては余り好ましい話題ではない、なぜならパンドラ時代を思い出してしまいそうだから。でも雪に悪いと、無理して耳を傾ける。通りの中ではやすおと着ぐるみマンがパフォーマンスを再開、本当に元気だなあとふたりの姿を見詰める星砂。
「その人、わたしにプロポーズして来んの」
「ええっ」
「普通のサラリーマンみたいなんだけど、ずっと好きだったんです、結婚してくれませんかって。ださいよね」
「でも、本当に真面目だったら」
「そうなのよ。だから、わたしこんな仕事してる女だし、止めといた方がいいよって断ったの。そしたら」
「うん」
「目に涙浮かべちゃって、男泣き」
「ええっ、でもなんか可哀そう」
「これからも出来る限り、お店来ますって」
「本当に雪さんのことが好きなんですね、その人」
 はははっと照れ臭そうに苦笑いの雪。
「でも、過去形になっちゃった」
「過去形」
「うん。昨夜、恋人が出来ましたって挨拶されちゃった」
「あらら」
「大変お世話になりました、これも雪さんのお陰ですだって」
「でも良かったじゃないですか」
「うん、だからもうこんなとこ来ちゃ駄目だよって、忠告しといた」
 こんなとこ……、じっと雪を見詰める星砂。
「ねえ」
「うん」
「さっきは、緊張しちゃったんだ、松ちゃん」
 微笑む雪。
「あっ、はい」
「一杯いたからね、人。でも気にしない、気にしない」
 はいと頷く星砂。
「唄うの、好きなんだ」
 問う雪に、「うん」今は正直に答える。
「いいなあ、夢あって」
 雪がため息混じりに零す。夢、夢かあ……。ハイライト揉み消して、
「じゃ、もう行かなきゃ」
 微笑みとハイライトの匂いを残して、エデンの東へと消えてゆく雪。
 田古の看板持ちが終わると、いつものように田古とふたりで青葉荘に帰る。さっき通りで唄えなかったことについて、田古は星砂に何も聞かない。とぼとぼと真夜中の夢の丘公園を横切れば、桜吹雪がふたりを包む、街はもうすっかり春である。
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