(二・三)パンドラ

文字数 5,458文字

 和太郎を辞める前、お正月に渋谷ハチ公前をひとりでぼんやりと歩いていた時、ちょっとすいませんって、やさしそうなサラリーマン風の男性に声掛けられたの。どうせナンパだろうって、しかとして行こうとしたら、あなたは神様を信じますか、だって。何だナンパじゃなくて宗教の勧誘、やっぱり行こうってしたら、今度は、あなたの夢は何ですかって聞いて来るの。
 夢、吃驚して振り向いたわたしの前に駆け寄って来たかと思うとその人続けて、アイドルですか、それとも女優、グラドル、歌手、あなたがなりたいのは何。ってわたしの顔じっと見詰めながら聞くの。えっ、もしかしてこの人芸能プロダクションのスカウトか何かかなって、試しに、歌手になりたいんですって返事してみたの。それに出来たら踊りもやりたいんです、わたしって。
 そしたらその人、ぱっと目を輝かせて、良かった、丁度ぼくもきみみたいな子探してたんだよって。でもこうして街角に立っていても、なかなか才能ある子いなくてね。才能。うん、そしたら今きみがぼくの目の前を通り掛かった。一目見ただけで、びびびっと来たよ。びびびっと。あの子絶対才能あるぞって。わたしに才能。これはもう芸能の神様の思し召しに違いない、そう思ってさっきつい、神様を信じますかなんて、聞いちゃった訳。
 訳って、でも、そうなんだ、なんか凄ーいってわたし舞い上がっちゃった。嘘、わたしに才能、ほんとかな。でも全然嘘吐いてるように見えなかったから、信じ込んじゃったわたし。これってもしかして、チャンス。もしそうなら、わたしも神様信じちゃう。
 ぼく、こういう者です、って渡された名刺には『烏賊川企画プロダクション 取締役 烏賊川志郎』。へえ、やっぱり芸能プロダクションの人、しかも取締役だって凄ーい。ますます興奮のわたし。ねえ、うち来なよ、面倒見るから。面倒。直ぐにメジャーデビューって訳にはいかないけど、レッスン受けてさステップアップしながらオーディション受けて……。メジャーデビュー、レッスン、オーディション、嘘でしょって舞い上がる気持ちを抑えつつ、はい。ね、一緒に輝くスターの星を目指そうよ。スターの星、言葉重複してる気もしないでもないけど、気にしない気にしない。はい、勿論喜んで、こちらこそ宜しくお願いしまーす。
 のこのこ烏賊川さんの後についてって、気付いたら渋谷駅直ぐそば、雑居ビルの中にある事務所の椅子に座っていたわたし。目の前には烏賊川さんの奥さん。押しの強い関西弁のおばさんで、わたしはその人の言いなり。今何処住んでんの。バイト先の寮です。ならマンションうちで世話するから引っ越しといで。えっ、でもそんな行き成り。不安になるわたし。心配せんでええて、それからバイトももう辞め、時間勿体ないし。でも生活費が。そやからうちとこで面倒見る言うてるやない、分からん子やな。はあ、でもなんか不安で。何言うてるの、あんたスターやで。これからスターの星を……。またスターの星だ。うちらと目指すんちゃうの。
 はい、そうですけど。けど、何。いいんですか、本当に。いいんですかて、いいに決まってるやない、そやからさっきから一所懸命話してるんやろ。でも、なんか……。そないうちらのこと信用でけへんの。いえ。そやったら、この話なかったことにするで、それでええの、星ちゃん。
 星ちゃんって。如何にも人懐こそうな烏賊川の奥さん。わたしは激しくかぶりを振って、それは困ります。そやろ、うちらな、ほんま星ちゃんにスターになってもらいたいねん、分かってくれる、な、星ちゃん。ぐっとわたしの手を握り締め、にこっと笑みを浮かべる奥さん。はい、分かりました。完全に信用した訳ではないけど、烏賊川さんだけなら兎も角、女である奥さんがいるし、大丈夫かなあって、早速烏賊川さんの用意してくれた渋谷駅近くのワンルームマンションに引っ越し。同時に和太郎も辞めちゃった。引っ越しって言っても荷物なんか大してないし、もしいざとなったらスーツケースひとつで逃げ出せばいいんだからと、安易に考えていたわたし。
 ところが相手は一枚も二枚も上手だった。引っ越しが一段落して事務所に行くと、行き成りマンションの費用の話。面倒見る言うてもな、悪いけど敷金礼金、月々の家賃は自費で頼むわ。はあ、それ話違うじゃないですかってまっ赤な顔して反論するわたしを制して、烏賊川の奥さん。そんな大きな声出さんと、大した額やなし、こんなもん。な、あんた、これから大スターなるんやろ、みみっちこと言いっこなし。でも、わたし払えませんよ。そやから出世払いでええねん。出世払い。そ、あんたがスターになるまで、うちらで立て替えといたげるさかい。立て替え。ん、そしょそしょ。
 そんなこと言われても、スターになれる保証なんて何処にもないのに。なんかやばいかもと一気に不安に陥るわたしに、更に追い討ちを掛ける烏賊川の奥さん。実はな、レッスン料とかオーディションのエントリー代とか、何かと細々した費用がいんねん。ええっ、そうなんですか。ま、いつもはプロダクション持ちなんやけど、実はな。はい。今うちとこ大きな新人ふたり売り出そうしてて、そっちの方で資金が目一杯なんや。は、はい。済まんけどちょっとの間だけ、立て替えてくれへん、頼むわ。ええっ、そんな無理です。かぶりを振るわたし。
 すると深刻そうな顔して、烏賊川の奥さん。弱ったな、ほなら星ちゃんの話、駄目になってまう、どないしょ。えっ、それも困るんですけど……、幾ら位なんですか。百万。えっ、そんなに、やっぱり無理、じゃわたし潔く諦めます。ちょっと待って、半分でも出せへん。無理無理とかぶりを振るわたし。じゃ三分の一は、としつこい烏賊川の奥さん。三分の一、三分の一かあ……。貯金をはたけば出せない金額ではないけどと迷うわたし。どうしよう、でも折角のチャンスなんだしと一大決心。分かりました、じゃ三十万なら出せます。へ、ほんまか。じっとわたしを見詰める奥さん。おおきに、助かるわ、残りはこっちで何とかするからな。こうして貯金全部を烏賊川企画プロダクションに納めたわたし。
 いよいよレッスン初日。烏賊川さんに連れていかれたのは貸しスタジオみたいな所。ピアノの前にどうやら先生らしき中年の男の人が座っている。でも生徒はわたしひとりだけ。で行き成り先生、じゃあんたの得意な曲唄ってみてって面倒臭そうな口調で。あんたって、なんか感じ悪い人って思いつつ、じゃMemoryを唄います。って言ったら、何、それ、誰の。Elaine Paige、ミュージカルの。知らん、そんなの。はあっ。如何にも不機嫌そうに、伴奏出来んからアカペラな、はい、どうぞ。アカペラ、しかも、はい、どうぞって如何にも投げやり。でも聴いてもらえるだけいいかって思い直して、わたし一生懸命唄ったの。ところが先生、苛々した顔で、駄目駄目、全然駄目じゃんってぶつくさ文句言ってんの。烏賊川さんに、何この子、全然使えないよ、才能有るとか全然嘘じゃん、ないない、欠片もないよって怒ってるし。
 で、それを聴いた烏賊川さん、今迄あんなにやさしかった人が見る見る恐い顔になって、わたしを睨み付けるの。しかも、おい、お前ってわたしをお前呼ばわり。お前が歌上手い、わたし才能ありますって言ったから連れて来てやったのに、どういうことだよって凄い剣幕で怒鳴り出すから、わたしも吃驚して、そんなこと言ってません、歌手になりたいとは言いましたけどって懸命に返事、その時わたしもう涙目。でも烏賊川さん、全然相手にしてくれない。
 それどころか、もうヤクザの脅し。どうすんだよお前、全部パーじゃねかよ。パーって。だから才能なきゃスターになんかなれっこねえだろ、うわーっ参った、参った。どうしたんですか。だから、お前に投資した大金どうしてくれんだよ。そんなこと言われたって……わたし何にも悪いことしてないじゃないですか。訳分かんないけど、兎に角涙ながらに訴えるわたし。してんじゃねえかよ、こうやって。何をですか。もうびびりまくりだったけど、わたしも必死に食い下がったの。
 でも、言い争ってても埒明かないと思ったのか、烏賊川さんじゃない、ヤクザまがいのペテン師烏賊川は、いいから事務所戻って話つけるぞって、わたしの腕をつかまえ無理矢理連れて行こうとする。この時やっとわたし騙されてたって気付いたから、気付くの遅かったけど、嫌ですって必死に抵抗。嫌です、わたしもう辞めます、こんなの嫌、何もなかったことにして下さい、もう嫌、離して、わたし帰りますから。帰るって何処帰んだよ。いいから離してよ、もう警察呼ぶわよ。
 そしたらペテン師烏賊川は、呼べるもんなら呼んでみろって凄む。はっ何でそんなに強気なの。こっちはお前にちゃんと貸しがあんだろ。貸し、はて。だから、立て替えたマンションの費用だよ。あっしまった、やられた。でも三十万払いましたよね。あれはレッスン料だろ。そうだった、がーーん。それもお前が才能ないってんで、今全部パーになったろが。
 じゃどうすればいいんですか。だからマンションの費用返せ。返せって幾ら。百万。百万、そんなの返せません。返せませんじゃ済まねんだよ。だったら今直ぐマンション出ていきます、それでいいでしょ。だーめ。でも、ないものはありませんから。そしたら烏賊川、ドスの利いた声でこう言ったの。だったら、体で返せ。はあーっ、最初っからそれが狙いだったのね……。
 烏賊川夫婦の正体、それは、プロダクションの取締役なんて大嘘、渋谷道玄坂にある風俗店、ファッションヘルス『パンドラ』の経営者だったの。普通の仕事しながら返しますからって言っても駄目。利子たこ付くから、いつまで経っても返せへん。兎に角うちで働き。嫌、それだけは死んでも嫌。
 でも、逃げたら殺すぞって脅かされ、今更住むとこもないから、泣く泣くそのマンションに住み続け、パンドラで働く破目に。それが雪の降り頻る二月、立春の夜。マンションは見張られてるし店の中だって同じ。電話も一切禁止だから、お母さんに電話することも出来なかった。殆ど監禁状態。もし逃げ出そうなんてしたら、つかまえられて殴られる。だから恐くて恐くて死ぬことも考えたけど、お母さんのこと思ったらとても死ねない。仕方なく、パンドラで働いたの。でも客の前で裸になって、ただ人形みたいにじっとしてるだけ。口も利かないし、泣きそうな嫌そうな顔してた。
 東京なんて嫌、もう懲り懲り。人間なんて大嫌い。もうこうなったら、さっさと百万返して島に帰ろうって、それだけが唯一の望みだった。そうやって何とか八月までの半年続けたの。そしてようやく利子も含めて全部返し切ったから、よし、これでもうお終いね。じゃわたし出ていくから、マンションもこんな店も。はい、お世話になりました、さようなら。
 ところが烏賊川の女房、まだあかん。何で。マンションの方は確かに済んだけど、お店の方の借りがまだ残ってるやん。何それ、ぽかーんとするわたし。そやからお店で働く風俗嬢としての登録料やろ、それに個室代。何、個室代って。そやからお客さん接待する時のショバ代やない、あほか、あんた。はあ、何があほよ、こっちは無理矢理働かされてんでしょ、冗談じゃないわよ、何がショバ代。兎に角はろうてもらわな、こっから一歩も出す訳いかん。そんなこと言ってたらわたし、いつまで経ってもこっから抜け出せないじゃない。そらそや、今頃気付いたん、ほんまあほやな、あんた。えーっ、もういい加減にしてよ……。
 駄目だこりゃと遂に気持ちが切れたわたしは、八月五日、店が一番忙しい真夜中、もうどうなってもいいと、発作的に店を飛び出したの。そのままふらーっと夜の街を宛てもなく歩き続けた。
 何処をどう歩いたか、どの位歩き続けたか、誰か追って来る者はいないのか、そんな一切を何も考えず、擦れ違う人に助けを求めることも忘れ、交番も素通り。ただもう夢遊病者のようにひたすら歩き続け、気付いたらわたし、新宿のネオン街まで来ていたの。
 目の前は、凄い人波。真夏の都会の夜のむせ返す程の熱気、痛い程に眩しいネオンライトの波また波、眩暈がして倒れてしまいそうな喧騒の海。その中でぼんやりと突っ立っているわたしの耳に、けれど何かが聴こえて来たの、確かに懐かしい何かが。懐かしい、それは歌だった。歌、わたしの大好きな、わたしの夢、Memory……。
 引き寄せられるようにわたしは、その歌のする方角へと歩き出した。そこは幾千の人が行き交うネオン街の通り。そこには人通りの中にでんと座り込んで、ギター爪弾きながら唄うひとりの男の人の姿が。一歩また一歩わたしはその人のそばに近付いてゆき……、そのまま歌を聴いていたかったけれど、歩き疲れふらふらだったわたしは、とうとうその人の目の前で倒れ込んだ。
 驚いたその人は急いで、唄うのを止めギターを路上に置くと、わたしの体をそっと抱き起こし、わたしに問い掛ける、大丈夫。その人の汗臭いにおいとその人のまっ黒に日焼けした腕に抱かれ、その人の目を見詰めながら、わたしは弱々しくこう答えた、助けて……。周りは絶えることのない新宿ネオン街の人波。うん、そう。これが、やすおさんとの出会いだったの。

 星砂が雪に語った思い出話は、これでお終い。以降、星砂とやすおが出会った後の話へと続くのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み