(三・一)八月、You Are So Beautiful

文字数 8,362文字

 八月七日、朝である。眩しい日差しにはっと目を覚ます星砂。目の前には、やすおと田古。星砂の目覚めに気付いてほっと一安心、目と目を合わせ無言で頷き合うふたり。
「腹減ったろ、それとも風呂にするかい」
 第一声はやすお。
 けれど、ここは何処、と不思議そうに部屋を見回す星砂。無理もない、目覚めればパンドラの悪夢がまた始まるとばかり思っていたから。なぜパンドラじゃないの、烏賊川たちは何処、わたし、恐い……。
「あ、い、つ、ら、は」
 恐る恐る口にする星砂。
「あいつらなんか、もういねえよ。ここはおっちゃんの部屋なんだから」
 安心させようとやすおの声は唄い掛けるようにやさしい。
「おっちゃんの」
 呟く星砂に向かって、黙って頷く田古。
「でもどうしてわたし、ここに」
「ああ、もう何にも心配いらねって。おっちゃんがな、昨夜びしーっと話付けてくれたんだから」
 おっちゃんが、話付けて……。でもとても信じられない星砂、行き成り烏賊川たちが襲って来るんじゃないかとびくびくしている。
「ほら、荷物だってちゃんとここにあるし」
 やすおの指差すそこには、確かに星砂のスーツケースが。あっ、その頬に俄かにぽっと赤みが差して、じっとスーツケースを見詰める星砂。止め処なく込み上げる涙を抑え切れない。
「な。さ遠慮しねえで、体べとべとして気持ちわりいだろ。シャワー浴びて来な」
 うん、と頷き起き上がる星砂、やすおに案内され風呂場へ。安アパートの狭っ苦しいユニットバスではあるけれど、シャワー完備。さーっと体を洗い流す。
 風呂から上がると、朝食が用意されている。質素ではあるけれど、空腹の星砂にはこれ以上ない御馳走。しかも子供の玩具のような小さな折り畳み式のテーブル、そこにはサンリオのマイメロディがプリントされていて、その上に炊き立ての御飯と味噌汁、漬物、お箸、お茶が三人分ぎっしりと並べられている。以前NGOの三上さんが揃えてくれたけどずっと使わず、台所の奥にしまっておいた炊飯器、調理道具類を使い、田古が料理したのである。
「なんだかね、やっぱり、頂きます」と田古。
「俺、こんな食事久し振り」とやすお。
 星砂も頂きますと言いたかったけど上手く言えず、そのまま黙ってぱくつく。後は黙々と三人で食する。扇風機の音、窓は閉め切っている。それでも聴こえる蝉の声、近所や通り掛かる人々の話し声、足音、ノイズ……。
「なんだかね、やっぱり、御馳走様」と田古。
「ふーっ、美味かった」とやすおが言えば、今度は星砂も「御馳走様」と蚊の鳴く声ではあるけれど。その声ににこっと微笑んで、
「はい、御馳走様。いいからいいから」
 後は手伝おうとする星砂を制し、ひとりで後片付けする田古。そんな田古の背中をぼんやりと見詰める星砂。
「何ならしばらく、ここいなよ。いいからいいから、な、おっちゃん」
 すると台所から振り向いて、田古がにこっと指でOKサインかつウィンク。思わず吹き出しそうになる星砂。
「じゃ俺、また夜来っから。頼んだぜ、おっちゃん」
 やすおがいなくなると、部屋にはふたりきり。しーんと沈黙が落ちる。星砂は冷静になって自分の置かれた状況を改めて考える。こんな見ず知らずのわたしに、どうしてこの人たちこんなに親切にしてくれるんだろう、赤の他人なのに。こんな大都会、東京のどまん中、新宿で……。夢でも見ている気がしてならない、まだ眠りの中を彷徨っているような。
 田古はまだ背中向け、もたもたと後片付けの最中。たこのおっちゃん、この人一体どんな人なんだろう。ちょうど片付けを終え振り向いた田古と目が合って、にこっと笑って田古が話し掛ける。
「なんだかね、やっぱり、眠るといいよ」
「えっ」
「嫌な事は忘れるのが一番、忘れるなら寝るのが一番なのさ。実際、寝る子は育つっていうよ」
「あ、はい」
 素直に頷く星砂。
 田古に言われるまでもなく、今の星砂は兎に角眠りたい。死んだように眠り、すべてを忘れたい。パンドラでの半年間は正に悪夢だった、そして八月六日あのパンドラの夜のトラウマ。
「それじゃ、も少し寝ます」
 すると「OK」
「えっ」
 再びOKサインでにこっとウィンクする田古、でももう星砂は驚かない。
 田古の勧める布団を断り、ゴロンと畳の上に横になる星砂。真夏だからこれで充分、暑さも忘れ直ぐに眠りに落ちてゆく。その隣りでどしっと畳に腰を下ろし、田古は何するでもなくぼけっと柱に凭れている。いつもならラジオを聴くところ今は眠る星砂に遠慮して、その星砂の寝顔を眺めていると、それだけで充分楽しくていつまで見てても飽きないから不思議。
 改めて我が部屋を見渡せば、余りにも殺風景。自分ひとりならこれで構わぬが、いつまでかは定かでないなれど仮にも若い娘が暮らすとなれば、もっと華が欲しい。何かないかとため息の田古。うーん、そうだ、華だから花にしよう。台所の奥から大きな透明のコップを取り出し、水を注ぐ。これで花瓶の準備はOK、さて何が良いか。
 窓を開け隣近所を見回せば、有る有るお隣りさんの庭に向日葵の花。八月の太陽の下、風にそよそよ揺れているではないか。ごくり、生唾を呑み込んで武者震い。何で武者震い、そりゃあなた、勿論泥棒猫の花泥棒とござい。こそこそ忍び足、お隣りさんの庭に忍び込み、賑やかに咲いている中から一本、いやちと寂しいからせめて二、三本拝借というかパクリ。しめしめ成功、良い子は決して真似しちゃいけません悪しからず。とっとと部屋に戻ると、コップに挿してお見事、向日葵の三輪挿しの出来上がり、じゃーん。しばしひとりでうっとりと見入っている田古である。
 昼である。陽が強く射し込み、扇風機だけではとても追っ付かない。加えて窓は磨りガラス故、不要とばかりにカーテンはなし。はあ、室温はどんどん上昇、遂に、あっちーーっと汗だらだらで目を覚ます星砂。
 ぼーっとした頭で見回すと、例のマイメロディのテーブルの上に素麺、ふたり分。但し洒落た透明なガラス容器もなく、氷もなし。っていうかそもそも部屋には冷蔵庫がない、ま、いいか。だから入れ物として朝食時の茶碗と丼が兼用され、お汁はペットボトルに入った使い切りタイプ。
「なんだかね、やっぱり、食べないかい」
 誘う田古に、うんと頷く星砂。食欲のない星砂には有難いメニュー。
 ずるずるずるっと、ふたりの素麺をすする音が部屋に響く。他には扇風機の唸る音、朝から頑張ってくれている、いやもしかすると昨夜からずっとかも。扇風機の風力は弱、中、強の三段階。朝には弱だったのが、現在既に強のレベル。しかし音がうるさくなっただけで、暑さが和らがないのは気のせいか。他には蝉の声、近所、通行人のお喋り、足音、ノイズも朝方と変わらない。チリンチリンと自転車の音がすれば、自動車のクラクション、それから急ブレーキ。青葉荘の前にしゃがんで休憩でもしているのか、さっきからふたりの老婆の会話が止まないでいる。お暑いですねえ。ええ、もう毎日大変。うちのおとっちゃんなんかパンツ一丁、恥ずかしったらありゃしない。うちもおんなじ、男はそれでいいから羨ましいこと、おほほほほ。
 そう言えば星砂に遠慮してか、田古は律儀にTシャツとバミューダパンツ。ふと星砂、窓を開け外の景色を見てみたいと願う。出来たら今自分がいるこの場所の風景、どんな町なのか、どんな人がいるのかを確かめ、この空間の空気を思い切り吸い込みたい、思いっ切り……。だけどやっぱりまだ駄目、八月六日あのパンドラの夜が甦り、星砂の心は貝のように閉じてゆく。だって、まだ恐い、まだわたし、人が、東京が、この世界のすべてが……。星砂の箸が止まる。
 驚いて顔を上げる田古。ぶるぶる今にも泣き出しそうな星砂にけれど何もして上げられないと分かっているから、ただじっと唇を噛み締める。
「なんだかね、やっぱり……」
 固まったまま、思い詰めたように畳を見下ろす星砂。
「ぼくなんか来月検査行くから、一緒に行かないかい」
「検査」
 はっとする星砂、検査って……妊娠と病気、そうだった。恐る恐る微笑み掛ける田古。でも、ちゃんとしとかなきゃね、こればっかりはやっぱり……。うんと頷く星砂、その瞬間堪えていた涙が溢れて来て、ぽたっと素麺の汁の上に落ちる、ぽたりと落ちる。
「You Are So Beautiful……」
 唄い出す田古に、えっと顔を上げ田古を見詰める星砂。短い歌がやがて終わると、
「なんだかね、やっぱり、食べたらまた、おやすみ。寝る子は育つって」
 うんと頷く星砂。
「歌は好きかい」
「えっ」
 でも星砂、直ぐにううんとかぶりを振り、悲しげに俯く。本当は好き、大好きなのに、本当はわたしも唄いたいのに、大好きなあの歌、Memory……。けれどただ星砂は唇を噛み締めるだけ。
 再び横になる星砂。暑くて寝付けないけど、目を閉じているだけでも有難い。それに田古がさっき唄ったあの歌のことが、気になって仕方がない。どうしてたこさん、あの歌を知っているんだろう、そしてどうしてわたしに唄ってくれたのだろう。部屋の中ではただ扇風機が、田古と星砂の間を行ったり来たりしている。
 夕方。蝉の声を掻き消して、夕立が首都圏を襲う。激しい雨音が窓ガラスを叩く。いつしか午睡を漂っていた星砂がはっと目を覚ますと、部屋の中は薄暗い。見ると、柱に寄り掛かって田古もよだれ垂らしながら眠っている。頼りないボディガードさん……、この時とばかり、じっと田古の寝顔を観察する。ついつい笑っちゃう、その姿は丸で大きな図体の子供である。
 無邪気なガキ大将を思わせる風貌、日焼けした彫りの深い顔、太い二本の眉毛は鼻の上の部分までも何故か毛深くて今にも一本につながってしまいそうだし、まっ直ぐに伸びた一重瞼は水平線を思わせ、鼻は小高い丘のようであり、絶えず五月の風に吹かれているような爽やかさ。あれっ、でも何となく見覚えがあるようなないような。ってどきっ、確かに似てる。誰に、わ、た、し、に。まさか、でも、どういうこと。どきどき、どきどきっ……。
 むにゃむにゃむにゃ、そこへがばっと目を覚ます田古。同時に空から、どどどどどーんと雷が鳴る。加えてぴかーっと稲光。きゃーーーっ、夢中で田古に飛び付く星砂。ところが田古は、はっはっはっはっはーっと豪快に笑い出す。
「なんだかね、やっぱり、平気、平気。雷さんは良い子には落ちないってよ」
 良い子、また子供扱い。でも確かに親子程年が違う訳だし、仕方ないか。親子程、親子……。
 はっはっはっはっはーっ、ぽんぽんぽんと星砂の肩を叩いて大喜びの田古。たこさんって、やっぱりちょっと変わった人。喋り方とか口癖とか変な感じだし、でもその癖わたしのことお見通しみたいなところあるし。でも、どきどき、どきどきっ……、このままたこさんの胸にしがみ付いていたい気もする。なぜだろう、妙にあったかい、いつまでもこのままで……。
 夕立が嘘のように止み、いつしか夜の帳が新宿の街に降りる、東京は夜を迎える。星砂は田古の胸から離れ、田古は部屋の灯りを点ける。
「なんだかね、やっぱり、晩御飯はまだ大丈夫かい」
 うん、と頷く星砂。すると、
「やすおさんが持って来てくれるんだよ」
 へえ、そうなんだ、そう言えばすっかりやすおのことを忘れていたことに気付く星砂。
 夜である。とんとんとん、突如青葉荘のドアを叩く音がして、見る見る星砂の顔が青ざめ、恐怖におののく。たこさん、わたし、恐い……、息を呑み、縋り付くようにじっと田古を見詰める星砂。田古は、うんと頷きドアの前に立つ。念の為ドアスコープから覗き相手を確かめ、良しと頷いてドアを開ける。するとそこには、ピエロの着ぐるみを身にまとったひとりの人物が立っている、男か女かも定かでない。この人物こそ誰あろう、我らが着ぐるみマン、その人である。
 ええっ、何この人。吃驚の星砂を尻目に、着ぐるみマンを招き入れる田古。履いてるブーツをよいこらしょと脱ぎ、部屋に上がると星砂の前に。
「なんだかね、やっぱり、こちら着ぐるみマンさん」
 田古が星砂に紹介。着ぐるみマン、何それ。でも愛想良く星砂。
「あっ、初めまして」と挨拶。
 なのに相手は無言、黙って頷くだけ。これが星砂と着ぐるみマンの出会いである。
「じゃ、なんだかね、やっぱり、ぼく、バイト行くんだ」と田古。
 ええっ、そんな。ずっと一緒にいてくれるものとばかり思っていた星砂は、急に込み上げて来る寂しさを幼子のように抑え難い。でも田古はさっさと部屋を出てゆき、後には着ぐるみマンとふたり切り。
 戸惑いの星砂にはお構いなし、部屋の隅にぺたっと座り込む着ぐるみマン。マンと言うからには男には違いない。それにしても暑くないのか、失礼とは思いながらもついじろじろと着ぐるみマンから目が離せない星砂。それでは流石の着ぐるみマンも落ち着かない。
 そこで着ぐるみマン、お腹のポケットから何やら取り出すと、それはメモ帳とボールペン。さらさらさらっと何か書き込み、それを星砂に見せる。何々、そこには、
『おいらは着ぐるみマン、よろしくだな』
 とは丸で女子高生の丸文字である。あっそうか、もしかして口が利けないのかも、この人じゃない着ぐるみマンさん。そう思う星砂に、その気持ちを察したかの如く大きくかぶりを振ると、着ぐるみマンまた一筆。
『この方が何かと、都合がいいんだな』
 成る程、都合の都の文字の大きさが他の倍あるのが笑える。そこで星砂、渡されたメモ帳に、
『こちらこそ、よろしくお願いします』
 と丁寧に返事、その文字はけれど悲しい程に細く筆者の神経質さが窺われてならない。
 気付いたら着ぐるみマンは居眠り、大きな頭がこっくりこっくり揺れている。だから釣られて星砂もうとうと、うとうと……。部屋の中はやっぱり扇風機の音だけ。それから蝉の声、隣近所のノイズが、現実と夢の間で切れ切れに木霊するばかり。
 とんとんとんと再び部屋のドアをノックする音がして、はっとして目を覚ます星砂と着ぐるみマン。やっぱり怯える星砂、けれど着ぐるみマンの方はぴくっと体を揺らし、呑気に大欠伸。どっこらしょ、のろのろと体を起こすのに時間を費やしていると、ドアの向こうからせっかちな声で「俺、俺」とは、聴き覚えのあるやすおの声である。
 着ぐるみマンが内鍵を開け、やすおを入れる。
「ん、じゃ交替な。ご苦労さん」
 やすおに言われ、星砂に手を振り、さようなら、また明日と、そそくさと部屋を出てゆく着ぐるみマン。あれえ、もう行っちゃうの。またまた寂しさの塊りと化す星砂、でも気を取り直し手を振り返して、さようなら、有難う。
 でも交替って、そうか、と星砂ははっとする。もしかしてみんな、たこさんとやすおさんと着ぐるみマンさんの三人が交代番子で自分をボディガードしてくれているのかも知れない、それだけでまた目がうるうるの星砂。如何にも百均で買いました的な柱時計を見ると、午後九時。もうそんな時刻なのか、とまたため息。
「腹減ってっだろ。晩飯買って来たから、食お食お」
 何かと思えば、スーパーのレジ袋から取り出したるは唐揚げ弁当と焼き魚弁当。
「どっちがいい」
 にこにこ顔で問うやすお。弁当をマイメロディのテーブルに並べ、
「じゃお茶入れます」と星砂。でも「勝手に使って大丈夫かな」と疑問符。
「平気、平気。そんなん、おっちゃん、ちっとも気にしねから」
 やすおの返事に「うん」そうだねと頷き、お湯を沸かす星砂。今夜はやすおが焼き魚弁当で、星砂が唐揚げ弁当にあり付く。
 むしゃむしゃ、むしゃっと美味そうにぱくつくやすおが羨ましくてならない。その隣りでもぐもぐもぐっと大人しく頬張る星砂。冷えた御飯でも美味、こんなことだけでもまた涙が溢れ出しそう。食後の爪楊枝を使いながら、やすお。
「明日は何がいい。リクエストあったら言ってよ、遠慮いらねし」
「はい」
「おっちゃん十二時まで帰んねえから」
「そんなに遅くまで」
「ああ、先寝ててもいいから」
 はいと頷きながら星砂。
「たこさん、何やられてるんですか、バイト」
「ああ、昼間は工事現場だけど、今は俺と交替で看板持ち」
「看板持ち」
 あ、やっべえと口ごもるやすお、そりゃそうだ、エデンの東はパンドラと同業者、そんな店の看板持ちなんて話ししたら、この子また嫌なこと思い出しちまうじゃねえか、ほんとあほな俺。
 でも意外に星砂はあっけらかんと、
「なんか面白そう」
「そうか」
 今新宿ネオン街の人通りのまん中で、黙々とひとり看板持って突っ立っている田古の姿を思い浮かべる星砂。思いは、やすおと出会ったあの夜へと帰ってゆく。新宿ネオン町三丁目の通りで、ギター爪弾き唄っていたやすお、しかも大好きなMemory……。
「やすおさん、いつも、あそこで唄ってるんですか」
「あ、ああ、そうとも。それが俺のライフワークだかんな」
 ライフワーク、唄うことが……、やすおが神々しくてならない。
「歌は好きかい」
 行き成り問うやすお。えっ、また、たこさんと同じ質問。思い切って今夜はうんと頷こうとしたけれど、やっぱり駄目。星砂の目には涙すら滲んでいる。
「あっ、御免。気にすんなよ、な」
 沈黙が落ちる。
「ラジオでも聴きますか」と星砂。
 ところが「おっちゃん持ってってるから、ラジオ」
 あっ、そうなんだ。また新宿ネオン街の人通りの中、看板持った田古の姿が浮かんで来る。
「寝れば」とやすお。うん、そうすると頷き、星砂は畳の上にごろんと横になる。目を閉じれば、やっぱり聴こえて来る隣近所のノイズ。新宿、大都会、東京の、星砂が憧れた東京のノイズが絶えることなく……。
 とんとんとんとドアが叩かれるより先に、田古の気配に気付いたやすおが、そっとドアを開ける。既に星砂は眠りの中、部屋は電気も消えてまっ暗。やすおの言った通り、柱時計の針はもう既に午前零時を回っている。流石にもう隣近所もしーんと静寂、時折り聴こえるのは足音か、酔っ払いの声。部屋の中は扇風機の唸り声、でも余りに常態化し過ぎて最早空気の一部である。実はドアの音で目が覚めた星砂、田古に挨拶すべきか迷ったけれど結局そのまま狸寝入り。いつしか再び寝入って、やすおがいつ部屋を出て行ったかさえ定かでない。
 帰宅した田古は手に大きなレジ袋。何かと思えば、やすおと看板持ちを交替する前スーパーに寄って購入しておいた生活必需品、消耗品、それから薬局の女店員に選んでもらった生理用品などである。レジ袋を台所の隅にそっと置くと下着一丁になり、水道の蛇口を捻って音も立てず顔を洗う田古。後は星砂の寝顔を覗き込むでもなく、ただ何事もなかったように畳に寝転がる。やがてその呼吸も寝息へと変わり、このまま何事もなく無事朝まで扇風機だけが唸り続けると思いきや……。
 真夏の夜の悪夢が、無情にも星砂に襲い掛かる、あの八月六日パンドラの夜の記憶が夢の中で星砂に立ちはだかる。どっしりと黒い男の影が、横たわる星砂の体に乗り石のように動かない。幾らもがけどもがけど押さえ付けられたまま、逃げられず金縛り。どいて、誰か助けて、たこさーーん。
 はっと飛び起きる星砂、体中汗びっしょり。時刻はまだ真夜中、丑三つ時。星砂の悲鳴で田古も目を覚ます。田古だけならまだしも、安アパート故悲鳴は筒抜け。うっせーぞ、何時だと思ってやがんだ、こんにゃろと隣りの部屋の住人がばしばしっとスリッパで壁を叩けば、上階からもどんどんどんと床を叩く音が響く。
 しかしそんなクレームも長くは続かない。青葉荘はやがてまた都会の真夜中の静寂へと沈没し、しーん。じっとこの時を待っていた田古は起き上がり、灯りは消したまま星砂の隣りへ。ごつごつした田古の指が星砂の頬の涙を拭う、なんだかね、やっぱりと囁きながら。それから星砂の耳元に、そっと唄い掛ける。
「You Are So Beautiful……」
 暗闇の中でしゃくり上げながら、田古を見詰める星砂。唄いながら頷き、微笑み掛ける田古。お休み、寝る子は育つっていうよ。うん……。
 目を瞑る星砂、眠るように、夢見るように。田古の歌の向こうに、海の音が聴こえる。夢国島の夜の海辺の景色が広がり、星砂はまだ生まれたばかりの赤ん坊。赤ん坊の星砂をひとりの男が抱き締めている、それはそれは大事そうに。男は星砂に唄い掛ける、You Are So Beautiful……。おとうさん、わたしのおとうさん……。
 恐る恐る目を開くと、そこには田古。磨りガラスの窓から差し込む街灯の僅かな光の中で、その時星砂が目にしたものは、星砂にも負けない位目に一杯の涙を浮かべた、田古の泣き顔である。
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