(三・十一)六月、Mr.Lonely

文字数 4,257文字

 田古と星砂の共同生活は、星砂の、雪を助けたいという思いと、帰郷の時が刻一刻と迫り来る焦りとを除けば、表面上は平穏無事、何事もなく一日一日が過ぎて十一ヶ月目に突入である。
 独り暮らしの変なおっさんの部屋に突如若い娘が同居とあらば、田舎ならちょっとした騒動にもなろうかと思えど、ここは大都会新宿の片隅、貧乏長屋の青葉荘。見知らぬ者同士がお互い干渉し合わず波風立てずに、慎ましく暮らしている。それに当初こそ部屋に閉じこもった切り一向に姿を見せなかった娘も、近頃ではちょくちょく顔も見るようになり会えば挨拶位はするから、どうやら拉致監禁の類ではなさそう。近所のおばさん連中も胸を撫で下ろしている様子である。
 梅雨入りしたせいか雨の日が続き、同時に夏の暑さも押し寄せ、長いこと押し入れに仕舞われていた扇風機が遂に復活。今となっては星砂としては懐かしい、いとしさすら覚えずにいられない扇風機。部屋に来た当初、これなしではとても生きられないと思ったあの勇姿が今また目の前に、という訳である。早速馴染みの唸り声が力強く部屋に響き渡る。
 雨になると、その日田古の日中のバイトはお休み。だから雨音に起こされながら、のんびりと目覚める朝も多く、それに合わせて星砂ものんびり。台所のコップには夢の丘公園の匂いの染み付いた紫陽花が飾られ、ふたりは静かな朝食を取る。
 ラジオを点けるとニュース。何でも地球温暖化が進み、南極の氷が融けて、住む家を失くしたペンギンたちが宛てもなく海を漂流しているとか。哀れペンギンのホームレスまで出現する世の中となった訳である、ってまじかよと呆れ顔の星砂と田古。
 田古と違って星砂は雨の日でも勿論サンファミのバイト。だから田古もビニール傘差し夢の丘公園の大きな木の下で、じっと星砂を見守る。その胸には黒猫の雪雄。バイトが終わり星砂が公園に来ると、雪雄は田古の腕を離れ思いっ切り星砂に甘えて来る。公園には紫陽花の他に、どくだみの白い花も咲いている。ただじっと何も言わず、しっとりと雨に濡れるどくだみの花。
 夕立に遭遇し、ふたりと一匹は雨を逃れて公衆電話の箱の中。ついでという訳でもないけれど、星砂は母美砂へ電話することに。おっと、それじゃぼくたち気を利かしてと、田古が雪雄を抱いて電話ボックスから出ようとする。けれど外はまだ土砂降り、慌てて田古を引き止める星砂。
「外に出たら濡れちゃうよ」
「でも、なんだかね、やっぱり……」
「いいから遠慮しないで、直ぐ終わるから」
 それでも、なんだかね、やっぱりと、田古は頑なに出てゆこうとするけれど、雪雄のやつが「みゃーお」と星砂に甘えるから、田古も渋々思い止まり公衆電話ボックスの中にとどまる。
「なんだかね、やっぱり、大人しくしとくんだよ、雪雄」
 と注意する田古に、分かってるにゃ、というように頷く雪雄。
 ツルルルル……。
「はい、もしもし」
「あ、元気、わたし」
「ああ、星砂。うん、みんな元気してるよ」
 ただでさえ公衆電話ボックスの中、加えてガラスの向こうは激しい雨。だから田古の耳にも受話器の向こうの誰かさんの声が、はっきりくっきり漏れ聴こえ来る。って詰まり、聴き覚えのある、あの懐かしい美砂の声。どきどき、どきどきっ……、ついでに夢国島の海の音さえ、ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……と田古の耳に聴こえ来るようでならない。
 なんだかね、やっぱり、まさか生きて再びその声を耳にするなんて夢にも思わなかった、一体何十年振りのことだろ。ひとり胸が詰まる田古。思わず耳に手をあて、聴か猿にでもなりたい心境。でもその反面ずっと聴いていたいっていう複雑な男心も覗かせる。
「うん、こっちも今雨降ってるよ」
「何言ってんの、こっちは台風なんだから」
「ええっ」
 と言ってから受話器の口を掌で押さえ、
「向こう台風だって」
 と無邪気に田古に告げる星砂。でも答えに困った田古は、ただ星砂に向かってにっこりと無言で微笑み返すばかり。だから、向こうには決して田古の声は伝わらない。ただ受話器の向こうの美砂は、
「何、誰かいるの」とくすぐったそうに笑うだけ。
「ううん、こっちのこと、こっちのこと」
 再び受話器の口から掌を除け、話し出す星砂。
「……じゃ大雨だし、もう切るから。気付けてね」
 ところが美砂。
「ああ、ちょっと」
 慌てて星砂を呼び止め、
「あんた、もうそろそろ準備始めなさいよ。後もう二ヶ月ないで……」
「あーっ、分かってる、分かってる」
 今度は星砂の方が慌てて美砂の声を遮って、
「ん、もう。じゃまた来月掛けるから、バイバイ」
 ガッチャーン。
 有無を言わさず電話を切って、はいお終い。ふーっ、良かった、たこさんに余計なこと聴かれずに済んだよ。星砂は胸を撫で下ろす。
 受話器を置くと、公衆電話の箱の中はシーン、深い深い沈黙に包まれる。ザーザーザーザーとただ激しい雨が降り続き、ふたりの耳にガラス窓を叩く雨音だけが響いて来るばかり。その沈黙を破ったのは「みゃーお」、無邪気な雪雄である。無言で雪雄の頭を交互に撫でる星砂と田古。尚も降り続く六月の雨は、ぺろぺろと雪雄が舐めてもやけにほろ苦い、田古の涙雨であるのかも知れない。
 日曜日、その日は星砂もサンファミを休ませてもらい、田古とふたりで木馬百貨店の屋上へ。久し振りに着ぐるみマン出演のアンパンマンショーを見に出掛けるふたり。梅雨の晴れ間か珍しく朝から快晴でこりゃ午後からさぞ蒸し暑かろうと思いきや、それも束の間いざ開演という段で、残念ながら土砂降り。雨は降り止まず、アンパンマンショー午後の部は急遽中止。集まったちびっ子たちも早々に退散。ビニール傘差し最後まで残っていた田古と星砂も遂に諦め、
「なんだかね、やっぱり、引き上げますかい」
 うんと星砂も頷き、ステージの観客席から立ち去ろうとしたその時、じゃーん、何処からかギターの音色と聴き覚えのある歌声が……。
 もしかして、我らがやすお。足を止め、雨に濡れた屋上を見回す星砂と田古。いたいた、やっぱり、ギター構え屋上の入口に突っ立っているやすお。唄うはBobby VintonのMr.Lonely。ヒューヒューッ、やすおさん、最高。ところがやすおは、
「今日の主役は俺じゃねえよ、あっちだよ」
 とニヒルにステージを指差す。えっ。そこには、いつのまにやら我らが着ぐるみマン。土砂降りのステージの上で、やすおの歌に合わせ踊っているではないか。
 それは嬉しそうに楽しそうに、気持ち良さそうに踊り続ける着ぐるみマン。雨なんかへっちゃら、水飛沫を上げながらくるりくるりと踊るその姿は、ばかでかい水の妖精かも。その姿を見詰めながら、いつしか星砂の目に涙、着ぐるみマンに感動している自分に気付いてはっとする。でも直ぐに星砂と田古もびっしょ濡れ、ビニール傘など何の役にも立たない豪雨である。
 でもそんなことはお構いなし、星砂はステージの上の着ぐるみマンに向かって叫ぶ。
「なぜ、そこまでして踊るの、何のために」
 それに対し、着ぐるみマンもステージの上からメモ帳でなく肉声で絶叫。
「おいら、踊りたいんだなーーーっ」
 えっ、星砂が着ぐるみマンの声を聴くのはこれが初めて。何だか感動に震えながら、続けて星砂。
「だから、どうして」
「だって……、だっておいら、誰かを励ましたいだな」
「誰かって」
「困ってる人、頭抱えてる人、死にたいとずっと思ってる人だな。そんなみんなを、おいらの踊りで腹の底から笑わせたいんだなーーーっ」
 着ぐるみマンの言葉に感極まったか、星砂は行き成りステージに駆け上る。
「着ぐるみマンさーーーん」
 と叫びながら、そのまま着ぐるみマンのびしょ濡れの胸に思いっ切り飛び込んでゆく。はーはーはーはー、白い息吐き吐き、星砂は心の中で叫んでいる。わたしも唄いたい、思い切り、わたしも踊りたいよ……。やがて雨が上がると、夕映えの空には小さな虹が架かっている。
 その夜はまた土砂降りで、ネオンの波も濡れている。それでもネオン街へと訪れる人の波は変わらない、だから今はパラソルの波また波が続いている。その中でやっぱり看板持ちのやすおが、いつものように突っ立っている。一応合羽は着てるけど、合羽も看板もびっしょ濡れなのは言うまでもない。
 そこへ合羽着た田古が登場し、やすおと交替。やっぱりいつも通り何食わぬ顔で突っ立つ田古、ただ黙々と雨に打たれながら。その姿を見ているだけで、涙が込み上げて来る星砂。どうしてみんな、みんなそんなに頑張れるの。そんなに頑張ったって何ひとついいことなんかないじゃない。そんなに頑張ったって何も変わらないのに、なのに、なぜ……。そんな星砂に向かって、ずぶ濡れの合羽の中から無言で田古が微笑み掛ける。
 激しい雨音に混じって、カタカタ、カタカタッとハイヒールの音響かせながら、星砂へと近付いて来るのは雪。
「凄い雨だね、元気」
 先ずはハイライト、風に吹き消されながらやっとの思いでマッチの火を点すと、ハイライトへとすーっと火を吸い込む。それからふーっ、吐き出した煙は雨の中何処へともなく消えてゆく。激しい雨には心許ないビニール傘を支えに、立ち話のふたり。
「こんな夜でも客来るから、凄いよね」
「うん」
「こんな夜だからこそ、いつもより人恋しいのかもね」
 人恋しい……。
「雪さん」
「ん」
「あの、風俗、辞めませんか」
「えっ、どうしたの行き成り」
 とうとう言っちゃったと星砂はどきどき、言われた雪は吃驚。しばしそのまま見詰め合う、ビニール傘に当たる雨音だけが響いている、心の中に響いて来る。
「有難う」
「えっ」
「そんなこと言ってくれたの、松ちゃんが初めてだから」
 うんと黙って頷く星砂。
「実はわたしも以前、すっごい嫌なことあったんですよ。でも今は何とか立ち直って来たし、サンファミのバイトだってやれるようになったし」
「うん」
「だから雪さんも」
「でもねえ」
「コンビニのバイトとかって、覚えちゃえば意外と何とかなりますよ。あっ、給料は安いけど」
「うん、でもわたしには、やっぱり無理よ」
「どうして」
「だって今更、もう若くないし……」
 かぶりを振る雪に、星砂は説得の言葉が見付からない。
「有難う、松ちゃんの気持ち、凄く嬉しかった。じゃ、もう行かなきゃ」
 歩き出す雪の背中を、星砂はただじっと見送るだけ。そんな星砂の肩をぽんと叩くのは田古、泣きそうな星砂にやっぱり黙って微笑み掛けている。ネオン街はまだ、土砂降りのネオンの海である。
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