(三・九)四月、New York State Of Mind

文字数 5,137文字

 夢の丘公園の桜も満開、田古と星砂の共同生活も早九ヶ月目。流石にもう暖かく、冬の間ふたりを守ってくれた電気ストーブも今は押し入れの中で休息。
 バイトを始めて三ヶ月、そろそろ青葉荘を出て自活出来ないものかと考える星砂。しかし相変わらず貯金はないからアパートを借りるのなんて無理、じゃバイトをやれる自信はついたから例によって寮付きのバイトを新たに探すか、でも折角サンファミに慣れて来たのに勿体ない、それに……。考えたら東京にいられるのも後四ヶ月、たったの四ヶ月しかなーい。だったらやっぱり、このままたこさんとこにいさせて欲しい星砂であり、何も言わなければ田古もそうさせてくれる筈である。
 田古の日中のバイトも、星砂のコンビニも順調。朝早く星砂のこしらえた朝食を取り、星砂の作ったお弁当を持っていそいそと出掛ける田古。台所には桜の花が飾られており、夢の丘公園からかっぱらって来たのは明白。
 その夢の丘公園といえば、春の陽気と満開の桜のお陰で連日花見客が絶えず、その影響で星砂のサンファミも普段より忙しい。しかも昼間っから酔っ払い客が押し寄せるから、星砂はびくびく緊張気味。でもそんな時も公園のベンチからやすおか着ぐるみマンが交替で見守っていてくれるから、ほっと安心、星砂も何とか頑張れる。
 サンファミのバイトが終われば、夕暮れの夢の丘公園で一休み。桜にばかり目がいくけれど、地には一面たんぽぽが咲いており、蝶々も忙しなく飛び交う。黒猫の雪雄の鼻息で大地を飛び立ったたんぽぽの種が春風に乗り、ふわりふんわり何処までも飛んでゆく。その危うさ儚さが何処か自分の姿とダブって心許なく、星砂は夢国島の海の音が聴きたくて、母美砂へと電話を掛ける。
「もしもし、わたし……すっかりあったかくなったね……そうか、そっちはもう充分暖かかったね……みんな元気、うん……そう、良かった……ううん、何でもないよ、平気、平気だってば……ちょっとお母さんの声が聴きたくなっただけ……うん、楽しいよ、こっちも。毎日楽しいこと一杯あるから……そりゃ嫌なこともあるけど……」
 受話器の向こうからは幽かに波の音が聴こえて来そうな、来なそうな。
「えっ……ああ、またその話。分かってる、分かってるってば。後四ヶ月でしょ、うん……大丈夫、ちゃんと帰るから……はいはい、じゃ、もう切るからね」
 ガチャン。
 放り投げるように公衆電話の受話器を置く星砂。あんた、ちゃんと帰ってくんでしょうね、などと美砂から釘を刺されたから、不機嫌でならない。
 受話器を置いた後も公衆電話ボックスの中で、ぼけーっと物思いに耽る星砂。あーあ、たったの四ヶ月かあ……。美砂との約束の三年間、二十二歳の誕生日まではもうほんと後残り僅かと迫っている。星砂が帰郷しても仕事に困らないように、今から知り合いに声掛けて探してもらうからねと美砂。もう、余計なことしなくていいのに……。ため息混じりの星砂の脳裏に浮かんで来るのは田古、と思いきや脳裏でなく、実際公衆電話ボックスの窓ガラスの向こうに田古がいる。あれっ、いつのまに、たこさん……。
 夢の丘公園はもう日没前、田古はその胸に黒猫の雪雄を抱いて、星砂に向かって心配そうに小さく手を振っている。星砂が急いで外に出ると、
「なんだかね、やっぱり、どうかしたのかい、そんな浮かない顔しちゃって」と田古。
だから慌てて星砂、
「ううん、何でもない」
 と笑い返す。雪雄は田古から星砂に移動、星砂は気を紛らすように雪雄の頭を思いっ切り撫で撫で。それから雪雄をベンチに残し、星砂は田古と肩並べネオン街へと歩く。
 後もう四ヶ月でたこさんとの暮らしが終わってしまうなんて、そう思うと胸が張り裂けそうでならない。それは八月六日パンドラの夜のトラウマさえ何処かへ吹っ飛んでしまう程の辛さ、切なさ、いとしさで星砂の胸に迫り来る。それ程までに、今や星砂にとって田古との暮らしは掛け替えのないものとなっているのである。しかし同時に、なぜだろうとも思う星砂、なぜ、たこさんとの別れがこんなにも辛く悲しいのだろう……。けれど今はまだその訳が上手く理解出来ない。まだ会って一年足らずだし、恋人でも何でもない、ただの変なおっさんなのに。親子程も年が違うたこさんとわたし、親子程も……。
 休日、その日は雲ひとつない晴天で澄み渡った空の青さに誘われ、ふたりは朝からある場所へと出掛けてゆく。星砂の達ての希望から、そこは東京駅。新宿駅から中央線で一直線には向かわず、わざわざ山手線でちんたらと代々木、原宿、渋谷……遠回り。東京駅に着いて、プラットホームに佇み、初めて東京に足を下ろした日のことを思い出す星砂。わくわくどきどき、緊張と不安と期待と興奮の中、それでも確かに夢に憧れていたあの日、あの時。
 あの日と変わらない人波、ノイズが今も目の前に溢れている。華やかで騒々しくて、それでいて孤独。何も変わらない東京の姿が今も確かにここに。ただ自分だけが変わってしまったのだと感じる星砂、自分の夢だけが潰えてしまったのだと。けれどそう決め付けるにはわたしまだ若過ぎるかも、とも思えて来る。だってみんな、やすおさんも着ぐるみマンさんも、そしてたこさんだって、みんな生き生きとしてて輝いているんだもん。少なくとも星砂にはそう思えてならない。
 だからわたしだって、まだ。ねえ、そうでしょ、たこさん、ねえ……。新幹線をじっと眺めている後姿の田古に向かって、無言で問い掛ける。すると星砂の思いが届いたのか、突然振り返り目を輝かせながら無言のうちに微笑み返す田古。その肩に何処から飛んで来たのか、遥々地方の桜の名所から新幹線の屋根に乗っかって揺られて来たのか、桜の花びらがきらきらと舞っている。たこさん、そう言えば、人の涙が見えるんだった。わたしにも見えればいいのに、この東京で暮らすたくさんの人の涙が。そしたらわたしも、少しは東京が好きになれるかも知れない……。胸が詰まり、泣き出しそうな星砂の顔。そんな星砂の肩をぽんと叩いて、田古。
「なんだかね、やっぱり、そろそろ、お昼の時間っていうよ」
「あ、そうだ」
 道理で星砂のお腹もぐーっ。ふたりは駅弁を購入し、駅のベンチに腰掛けて昼食。その間もたくさんの人々が、ふたりの前をあわただしく通り過ぎる。
 夜が訪れ、やすおと着ぐるみマンの待つネオン街へ。看板持ちをやすおと交替した田古の耳には、いつものようにラジオのイヤホン。ラジオから流れ来るニュースでは、消費税増税をするとかしないとか騒ぎ立てている。何でも先の総選挙で消費税アップ反対を公約に掲げて庶民の支持を集め大勝利した筈の現政府与党が、選挙が終わった途端手のひら返して国民をころっと裏切り、社会福祉の為消費税増税の必要性を訴えているという。なんだかね、やっぱり、と田古でなくとも呆れて、まじアホらしとため息も出ない。見渡せば、毎日毎日安い給料でこき使われ、せめてもの楽しみにとここ新宿ネオン町の盛り場、風俗街へと足を運ぶ庶民たちばかり。その背中が何とも侘しげで、哀切を禁じ得ない。みんな都会に迷った孤独な狩人なんだな、とため息の田古である。
 田古のいる通りの向かい側で、やすおが唄い出す。その隣りに着ぐるみマンと星砂。曲はBilly JoelのNew York State Of Mind。歌と共に、待ってましたと着ぐるみマンが踊り出す。星砂はやっぱり突っ立って、やすおと着ぐるみマンを見ているだけ。曲の後、やすおが星砂に問い掛ける。
「今日はどっか行って来たの、おっちゃんと」
「東京駅」
 星砂の答えに「へえ、懐かしいな、東京駅」とここでやすおの思い出語り。
「もう何年いや十何年前になるかな、俺が東京出て来たの。北海道からさ、東京行きの夜行列車に飛び乗って」
「へえっ」
 とやすおを見詰める星砂。
「じゃ、やすおさんも東京駅だったんですか、初めての東京」
「うん、そりゃそうさ。くーっ、俺もまだ若かったあ」
 しみじみと語るやすお。そうか、みんなそれぞれ東京駅に思い出があるんだなと、感慨に耽る星砂。
「まだ若いですよ、やすおさん」
 隣りでは着ぐるみマンが、星砂に頷きくすくすっと笑っている。
『もう着ぐるみマンさんのいなかの海も、春ですね』
 星砂の問いに『そだな、海猫も元気に鳴いているんだな』
 海猫かあ。着ぐるみマンの脳裏には、きらきらと夕陽煌めく波の上で小舟のように揺れている海猫の姿が浮かび、哀愁たっぷりの海猫の鳴き声も聴こえて来るようで、切なさ一杯、大きな着ぐるみの瞳も涙に濡れる。
「ああ、俺んとこの海も、もう春だよ。寂れた港にゃ野良猫どもがうじゃうじゃいやがったけど、あいつらみんな元気してっかなあ」
 今度は野良猫。うんうん、夢国島の小さな港にもいたなあと、星砂も思い出す。
「な訳ねえか、みんなもう死んでるよな。そりゃそうだ、やつら猫なんだから」
 自嘲気味に笑うやすお。星砂も寂しげ。
「やすおさん、さっきの歌教えて」
「あ、そうだった、そうだった。じゃ先ず飯食おうぜ」
 看板持ちの田古だけをネオン街のメインストリートに残して、三人は裏通りへ。お握り、弁当、ペットボトルのお茶で晩御飯の後は、やすお先生によるNew York State Of Mindの練習。
「難しいけど、しっかり覚えろよ」
「うん」
「この歌唄えたら、何処行ったって東京のこと思い出せるから」
「えっ……」
 思わずギターの指を止め、やすおの顔を見詰める星砂、でもやすおはただ笑ってるだけ。だから、
「うん、なんか泣けて来る歌詞だね」
と星砂も笑い返すだけ。
 表通りに戻ると、エデンの東の雪が待っている。
「松ちゃん、久し振り。元気してた」
「はい、元気だけが取り柄なもんで」
 と答えつつ、数ヶ月前だったら考えられない今の自分に、我ながら驚く星砂である。唄い、踊るやすおと着ぐるみマンのパフォーマンスを眺めながら、女同士何やかやとお喋りの絶えない、すっかり仲良しのふたり。星砂には、お姉さん的存在の雪となっている。
「御免、吸わない人のそばじゃ止めた方がいいって分かってんだけど、つい吸っちゃうの」
 珍しく遠慮がちに、ハイライトに火を点ける雪。
「いいんですよ、気にしないで」微笑みながら「桜きれいですね」と星砂。夜のネオン街の通りに舞い落ちて来る桜、雪も顔を上げ、
「うん、そうだね」と頷く。
「田舎いた頃は、東京にもこんなにたくさん桜が咲いてるなんて夢にも思わなかった。植物なんか育たないとこだって思ってたから、東京」
「へえ」
「笑っちゃうよね、すっごい田舎だから、わたしんとこ」
「そんなことないですよ、わたしだって」
「でもね、家の近所が有名な桜の名所だったの」
「そうなんだ、行ってみたい」
 雪が故郷の話をするなんて、これが初めてである。
「貧乏な家でね、父親が早く死んじゃって。母さん内縁で若い男連れて来たんだけど、そいつがひどいやつだったの」
「えっ」
 不意に予感が走る星砂、どきどき、どきどきっ……。悪い予感、暗い過去に引きずり込まれそうで、思わず人込みの中に田古の姿を捜す。すると目と目が合って田古が笑い掛けるから、勇気を出して雪の話に耳を傾ける星砂。
「いつも酒ばっか飲んで……。母さんいない時、そいつね」
 えっ、やっぱり。耳を塞ぎたい、でも逃げちゃ駄目だよね、たこさん。
「わたしに、手出してきたの……」
「いやっ」
 たこさん、やっぱり駄目だった。俯く星砂。
「あっ御免、ほんとばかね、わたし。こんな話しちゃって」
 詫びる雪、でも星砂は下を向いたまま。
「松ちゃんにはつい、何でも話したくなっちゃうから。だってこんな話出来るの、松ちゃんしかいないんだもん。御免ね、ほんと。今の話忘れて」
 ひたすら謝る雪に、申し訳なさを感じる星砂。わたしも辛いけど、雪さんはもっと辛いよね、たこさん。星砂は顔を上げ、
「こっちこそ、すいませんでした。もう、大丈夫ですから、続き聴かせて下さい」
 雪の話によると、義父とのトラブルが原因で雪は家を飛び出し、そのまま上京して来たということである。へえ、そうだったのか、辛い思いをしているのは自分だけではないのだと今更ながら感じる星砂。雪がエデンの東へと去り、しばらくすると田古も看板持ちを終え星砂の隣りへ。日付けが変わりネオン街も今は静か、田古と星砂も帰路に就く。途中通過する夢の丘公園では、散りゆく桜を惜しんでか深夜まで人々が花見に興じている。道々雪から聴いた話を、但し義父とのトラブルのことは避けて、田古に伝えると、
「なんだかね、やっぱり、人に歴史有りっていうよ」
 田古はただ星砂の肩をぽんと叩くのみである。
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