(三・五)十二月、On The Radio

文字数 4,851文字

 田古と星砂の共同生活も五ヶ月目。日々の散歩の効果か精神面での回復は著しく、夜中の悪夢を除けば、もう普通に生活出来んじゃないという所までこぎつけた星砂である。それでも油断は禁物と今月も昼間のバイトをお休みして、星砂の暮らしに寄り添う田古。
 東京の街はもうすっかり冬景色。田古は押し入れに仕舞っておいた電気ストーブを星砂に与え、自分はひたすら毛布に包まって過ごす。朝はそのストーブを囲んで朝食、炊き立て御飯と味噌汁の温もりが有難い。台所にはコップに花を飾る代わりに小さな白いシクラメンの鉢植え、清潔なその白さが星砂の心を慰める。
 寒さの中、それでもふたりは散歩の習慣を怠らない。とは言っても夢の丘公園は寒いから、新宿駅前の木馬百貨店に入り浸り。レストラン街で昼食を取り、大型書店で立ち読み。それから星砂としては一歩前進、駅の反対側にも足を延ばし、昼間ならネオン街でも歩けるようになる。
 夢の丘公園では、黒猫の雪雄と遊ぶ。星砂が雪雄と戯れている間、田古は専らラジオ。ところがクリスマス前の或る日、渋谷は道玄坂の雑居ビルが火災で全焼したと、午後のニュースが告げる。そのビルとは、何とパンドラの入っていたビルではないか。詰まり、あの烏賊川たちの店が燃えて灰になっちまったという訳。ええっ、まじかよーっ、吃驚仰天。でもたとえどんな相手だろうと他人の不幸など喜べない田古は、心から胸を痛める。だけど、しまった、星砂に聴かれちゃ不味い。慌てて星砂を見ると、その時星砂は寒かろうに雪雄を抱いてこっくりこっくり、ベンチでお昼寝。ふう、良かった。折角パンドラのことを忘れつつあるのだからと、胸を撫で下ろす田古である。
 そんな田古の気も知らず、星砂はくしゃみと共にお目覚め、ふにゃーと雪雄と欠伸の合唱。それから公衆電話ボックスに入って、夢国島の美砂にひと月に一回の遠距離電話。
「……うん、元気してるから……大丈夫だって。でも寒いかな、こっちはやっぱり……風邪、ううん引いてないよ。周りにあったかい人たち、えっ……そう、周りにいい人たちがいてくれるから、平気……うん、そうそう……分かってる。じゃまた電話するから」
 ガチャン。
 クリスマスイヴの午後、着ぐるみマンに前からずっと誘われていたアンパンマンショーへと、田古と共に出掛ける星砂。場所は木馬百貨店屋上。ショーの直前、ステージの観客席で談笑する三人、勿論着ぐるみマンのメモ帳にて。
『ダンスはおいらの命だな』
 着ぐるみマンがダンスへの熱い思いを、星砂にぶつける。けれど星砂はまだ、ダンスへの情熱を取り戻せない。
 いよいよアンパンマンショーの始まり。歌と踊り、主題歌に乗ってアンパンマンを始めとする着ぐるみたちがステージの上で所狭しと踊りまくる。止まないちびっ子たちの歓声と拍手。でも、と星砂。
「着ぐるみマンさんの姿が見えないよ、どうしたのかな」
 そこで田古はにっこり。
「なんだかね、やっぱり、そりゃそうさ。着ぐるみマンなんてキャラクター、いないんだよ」
「あっ、そーか。ばっかみたいわたし」
 ではどのキャラクターに扮しているのやらと、きょろきょろステージを見回してみる。
「ほら、あそこ、あそこ」
 と田古が指差す先には、じゃーん、バイキンマン。ええっ、バイキンマンなんだ、着ぐるみマンさんがバイキンマンだなんて。なんかショックと、吹き出す星砂。
 さ、着ぐるみたちによる寸劇の始まり始まり、勧善懲悪の王道ストーリーである。意地悪なバイキンマンが後もう一歩で世界征服というところ、それを阻止せんと立ちはだかるのは、傷だらけの我らが正義の味方アンパンマン。ちびっ子たちの声援を背に、宿敵強敵着ぐるみマンじゃないバイキンマンと相対する。
 俄かに形勢逆転、あっれーーっ、哀れバイキンマンは予定通り、アンパンマンにこてんぱんにやっつけられ、アンパンマンの足下にひれ伏すのであった、ちゃんちゃん。どうかどうかお許し下さいませませ、アンパンマンにぺこりぺこりと平謝り。かっちわりーぜ、バイキンマンこと着ぐるみマン。でも、みんな苦労してるんだね、と目頭が熱くなる星砂。『ダンスはおいらの命だな』先程のメモ帳の着ぐるみマンの文字が思い出され、胸が詰まる。
 さてステージが終わるとバイキンマンの恰好のまんま、着ぐるみマンがふたりの前に現れ『メリークリスマス』とメモ帳に記す。それから星砂にクリスマスプレゼント。
「うそーっ」と吃驚の星砂に、いいから、いいからとにこっと頷くバイキンマンの着ぐるみマン。何かと思えば、アンパンマン特製のクリスマスケーキ。
「うわあ、有難う」
 感謝感激の星砂。木馬百貨店の屋上を吹き抜ける木枯らしが、哀愁一杯のバイキンマンの背中の羽根を震わせて、新宿の街はもう夕暮れ時。さあ引き上げようかと田古が星砂の肩を叩き、バイキンマンじゃない着ぐるみマンの着替えを待って、とぼとぼと三人で夢の丘公園へ帰ったとさ。
 翌日はいよいよクリスマス。けれど残念ながら夜になっても、東京の空に雪は舞い落ちて来ない。ただ寒いばかりの夜となり、それでも夢の丘公園の夜空には満天の冬の星座群。ああ、何てきれいなんだろう、夢国島の海辺で見た冬の星空を思い出す星砂。そんな星砂の隣りには、ロマンチックとは程遠い田古と着ぐるみマンというおっさんふたり。
「じゃ、やすおさんと交替して来るから」
 といつものようにネオン街目指し、ひとり歩き出す田古。ところがその背中に、
「待って」
 と呼び止めたのは、星砂の声。
「わたしも行きたい」
 えっ、思わず顔を見合わせる着ぐるみマンと田古。
「なんだかね、やっぱり、でも夜のネオン街だよ」
「分かってる。でも……、なんだかね、やっぱり、クリスマスだし」
 照れ臭そうに答える星砂。ええっ、再び顔を見合わせる田古と着ぐるみマン。星砂が田古の口癖を真似するなんて、これが初めてだな。
「言っちゃった……。御免、でも一度でいいから言ってみたかったの」
「なんだかね、やっぱり、いいんじゃない」
 と頭掻き掻き苦笑い、でも何だか嬉しそうな田古である。
 こうして星砂は、田古、着ぐるみマンと共に新宿駅を抜け、商店街を抜け、いよいよ新宿ネオン町三丁目、夜のネオン街へ。そこは荒れ狂う海のような人波が行き交う、日本最大の歓楽街。どきどき、どきどきっ、ネオンの海が見えて来る。どきどき、どきどきっ、悪戯に高鳴る星砂の鼓動。その時喧騒に混じって、田古のラジオから音楽が流れて来る。曲はDonna SummerのOn The Radio。
 ネオン街の入り口で立ち止まる星砂。
「無理しないでいいんだよ」
 心配そうに振り返る田古と着ぐるみマン。うんと頷きながら、星砂はふたりに追い付く。それから星砂は田古の右手をつかまえ、ぎゅっと握り締める。どきどき、どきどきっ、星砂の緊張が田古にも伝わって来る。武者震い、じゃ、行くよと田古は星砂の顔を見詰めながら、星砂の手をぎゅっと握り返す。うん、田古の背中に付いて歩き出す星砂。着ぐるみマンも後から付いて来る。目指すはネオン街のまん中、嵐のような群衆の中で唯ひとりぼっち、エデンの東の看板を持って突っ立っているやすお。
 やすおはエデンの東の看板持ちをしながら、同時に知り合いの結婚相談所『シクラメン』のパンフレットも配っている。なぜそんなことをしているのか、理由は、独身で寂しい思いをしているネオン街を通過する男女に幸せになってもらいたいという願いから。そのシクラメンは、新宿のビル街の中にある、地上三十階建ての東京摩天楼ビルの最上階に入っている。
 ネオン街のちかちか瞬くネオンの波また波は、遥か宇宙の果てまでも続くかのようである。真冬、クリスマスの夜だというのに渦巻く欲望のエネルギーのせいか、むせる程の熱気。絶え間ない足音、喚声、奇声、ノイズまたノイズ。爆竹、クラクション、救急車或いはパトカーのサイレンも聴こえて来る。見上げれば、立ち並ぶ雑居ビルの看板に、風俗店のネオンサインの文字が酔っ払ったように泳いでいる。その中にパンドラの文字を無意識に捜している星砂、八月六日パンドラの夜のトラウマが今また星砂に襲い来る……どきどき、どきどきっ……。
 やっぱり、恐い。やっぱり、嫌。やっぱり来なきゃ良かった。どうしよう、誰か助けて、引き返したい、目を瞑り、耳を塞ぎ、このまま逃げ出したい。帰りたいよ、青葉荘へ……。その時、聴き覚えのある声が星砂を呼ぶ。
「松ちゃーーーん」
 確かにやすおの声。やすおがエデンの東の看板を左右に振り回しながら、星砂を呼んでいるのである。
「来たんだ、松ちゃん」
 田古から手を離し、星砂はやすおに向かって大きく手を振り返す。
「やすおさーーーん。わたし、来ちゃった」
 星砂の脳裏に、あの夜が鮮やかに甦る。パンドラを逃げ出し、ここまで辿り着いたあの夜、この場所でギター爪弾き唄っていたやすおの姿、あの時聴いたMemory……。星砂の頬に七色のネオンが映り、ネオンライトの中で星砂が笑っている。
 看板持ちを田古と選手交替すると、やすおは路上に転がしといたギター抱え、星砂と着ぐるみマンの前へ。
「休憩しようぜ」
 ふたりを誘い通りの角のコンビニに入ると、晩御飯のお握りとパン及びペットボトルのお茶を購入。裏通りに移動し、三人でしゃがみ込み食事。
「うめえな」と問うやすおに、うんと頷く星砂。
 腹ごしらえを済ませたやすおは再びネオン街に戻り、通りのまん中にでーんと座り込む。流石ストリートミュージシャン、腹が据わっているし、寒さすら気にならないようである。早速ギター爪弾き唄い出す、目の前を通り過ぎる人波に唄い掛けるように。足を止める人、耳を傾ける人、完全しかとの人、反応は千差万別。通りの端からその様子をじっと黙って見ている星砂、近くには看板持ちの田古もいる。
 着ぐるみマンに手を引かれ、やすおの直ぐ目の前まで来る星砂、やすおの歌に合わせ、いつしか口遊んでいる。隣りの着ぐるみマンはといえば体うずうず、もう踊り出したくて仕方がない、そんな様子。でも星砂のボディガードとして、じっと我慢で星砂の隣りに立っている。
 一頻り唄い終わったやすおに、星砂が問い掛ける。
「やすおさん、どうして唄うの」
 澄ました顔で、やすおは答える。
「俺の命だからさ」
 うんうんと着ぐるみマンも頷いているから、ふたりとも何だかばかみたいと唇噛み締めながら、無性に泣き出したい気分の星砂である。
 結局南極クリスマスの晩、田古の看板持ちが終わる二十四時までやすおたちとネオン街にいた星砂。十二月の寒さも何のその、やすおはまだ唄っている。着ぐるみマンも踊りたいふうではあるが、流石にもう眠い。
「なんだかね、やっぱり、もう少しいるかい」
 問う田古に、うんと頷く星砂。やすおが唄っているのは、さっきラジオで流れていたOn The Radio。
 そう言えば看板持ちをしている時も、たこさんってずっとイヤホンでラジオを聴いていたっけ。どうしてそんなにいつもラジオばかり聴いているのだろう、たこさん。思い切って尋ねてみる星砂。すると、
「なんだかね、やっぱり、ぼくなんか実際、昔好きだった人のことを思い出すからなのさ」
 昔、昔っていつ頃のことなんだろう、星砂は知る筈もない田古の過去に思いを馳せる。
 たこさんってどんな恋をしたんだろう、家族はいないのだろうか、どうして独身でいるんだろう。今更ながら田古のことについて、何も知らない自分を思い知らされる星砂。尤も独身なのは、やすおも着ぐるみマンも同じだけれど。
「ラジオを聴いていると、今も、なんだかね、やっぱり、その人とつながっている気がするんだよ」
 そう語る田古の目には、薄っすらと涙。
 あっ、まただ、と星砂は思う。このネオン街の人の海の中で、今たくさんの人の涙が見えているんだろうな、たこさん。その時ふと一瞬、夢国島の海と母美砂のことが浮かんで来た星砂である。
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