(三・十二)七月、夜を抱きしめて

文字数 6,918文字

 いよいよ田古と星砂の不思議な共同生活も十二ヶ月目に突入。梅雨も早々に明け、蒸し暑い毎日がでーんと暮らしの中心に居座る。だから我らが扇風機に汗だくになって、せっせと頑張ってもらうしかない。
 本当は、扇風機もう一台欲しいね、なんて田古に頼みたいところだけれど、口ごもる星砂。だってわたし後ひと月でいなくなる身だし……、ていうか、そのことまだ、たこさんに言ってない、どうしようと頭を抱える星砂である。
 しかし蒸し暑い朝の朝飯は格別、汗だくで味噌汁を啜り、時より素麺も忘れない。見ると台所のコップに花はなし、何だ、殺風景で寂しいじゃん。でも暑さで直ぐに萎れてしまうから花が可哀想、申し訳ないという発想からしばらく飾らないことにした田古。その代わり夏の風物詩、元気な蝉時雨があちこちから聴こえて来て、星砂と田古に元気をくれる。
 夜のネオン街も蒸し暑い。加えて今宵も集う群衆の熱気で更にむんむん、むさ苦しい。立っているだけでも、じっわーっと汗が滴り落ちて来る。そんなじめじめを忘れさせ、星砂と田古の耳にやすおの歌が聴こえて来る。曲はMemory。隣りでは、暑かろうに着ぐるみマンが踊っている。その姿は、ブロードウェイのミュージカルを彷彿とさせるファンタジーでありメルヘンであり、星砂の胸に熱い思い、即ち夢を甦らせる。と同時に去年八月六日の夜のことを思い出さずにいられない星砂、やすおとここでめぐり会ったあの夜を。
 あれからもう直ぐ一年かあ、早いなあ。振り返れば、あっという間。もう直ぐ一年、そしてもう直ぐ東京に出て来てから三年。いよいよタイムリミットがそこまで迫って来ているのである、詰まり美砂との約束の時が刻一刻と……。
 星砂は改めて自らに問う。なぜわたしは唄いたいのか、踊りたいのか、何の為に。その為にわたしはここ東京に出て来た筈ではなかったのかと。けれどその答えはもう既に星砂の中にある、やすおと着ぐるみマンが教えてくれた答えが。だからわたしはこれからも生きてゆける、たとえ何処へ行っても、この東京を離れ遥か遠い夢国島に帰っても。それでもわたしは生きてゆけるんだ。だから、なんだかね、やっぱり、たこさん。人々が暮らすこの街がこれからも生き続けてゆくように、夢のようなこの東京が……。ネオンの人波の中に田古の姿を捜すと、いつものように看板持った田古は、何も知らず修行僧のように沈思黙考している。
 汗びっしょり唄い終わったやすおへと、歩み寄る星砂。
「ねえ、教えてよ、今の曲」
「ああ、いいとも。だってこの歌は、この歌が、きみと俺とを結んでくれた運命の歌なんだからな」
「うん」
 やすおのきらきらと光る額の汗が眩しくてならない星砂である。もうやすおさんの汗のにおいを嗅ぐこともない、そしてもうやすおさんの歌を聴くことも、後ひと月で……。
 翌日星砂はサンファミで、今月一杯でアルバイトを辞める旨を店主に告げる。ええっ、まじで。残念だなあ、でもまだ若いからもっといい仕事見付かるよ、と激励してくれる店主。もっといい仕事って、ここが一番楽しかったのに、俯く星砂。いざ辞めるとなると、単調な作業もそのひとつひとつがいとおしくてならない。レジ操作も、客とのやりとりも、商品整理、ファーストフードの調理、床清掃、ごみ箱の片付け……。そしてバイトの間、ずっと夢の丘公園から見守ってくれた田古、やすお、着ぐるみマン。
 バイトを終え、今夕はしんみり気分で夢の丘公園のベンチに腰掛ける星砂、隣りには黒猫の雪雄。サンファミ店主に続いて、雪雄にも告げねばならない、サンファミを辞めること、帰郷すること。
「あのね……」
 星砂の気持ちが分かるのか、「みゃーお」の鳴き声も心なし悲しげな雪雄である。
 沈んだ星砂と雪雄の鼻に、くんくん、くんんくん、何処からか良い匂い。何だ、と辺りを見回す星砂に、雪雄が教える。あれだ「にゃーっ」と雪雄が目をやる先には、白いくちなしの花。なーるほどと頷く星砂、甘くやさしい花の香りも、今日の星砂には何処かほろ苦く切ない。思い切り雪雄を抱き締め、しばし東京の夕焼けに見入る星砂である。
 とんとん、そんな星砂の肩を誰かが叩く、着ぐるみマンかと思いきや、振り返ると田古。
「なんだかね、やっぱり、バイト早めに終わったからさ」
「着ぐるみマンさんは」
「もう、ネオン街に行っちゃったよ」
 そうだ、たこさんにも言わなきゃ、バイトのこと、そして帰郷のこと。でもそう思うと急に、どきどき、どきどきっ、鼓動が高鳴る。どうしよう、でも、もうたこさんにも伝えなきゃ、だって雪雄にも言ったし、時間だって後もう残り僅かだし。
 けれどなかなか決心がつかない。どんな顔するかな、たこさん。がっかりされたら死ぬ程嫌だなあ。どうしよう、どうしよう、どきどき、どきどきっ、迷う星砂。でも……、でもやっぱり、今ここで言っちゃおう。だって少しでも早い方がいい、遅くなればなる程辛いし。それに青葉荘で言うより、ここの方が言い易い、雪雄もいるし……、ねえ雪雄。「みゃーお」と後押しの雪雄。
「たーこさん、実はね」
 深刻そうな星砂の表情に、田古も珍しく緊張。
「なんだかね、やっぱり、どうかしたのかい」
「うん、わたしね、今月一杯でサンファミ辞めることにしたの」
 えっ、流石の田古も一瞬唖然、でも直ぐに気を取り直して、
「なんだかね、やっぱり、いいんじゃない、それも」
 訳も聞かず、得意技のOKサインとウィンク。
 意表を突かれた星砂は、帰郷の件まで告げられずに口ごもる。そこへ田古。
「なんだかね、やっぱり、ネオン街に行く前に、ちょっと寄り道しないかい」
「寄り道」
「うん、やすおさんも少しの遅刻なら、許してくれるんだよ」
 うん、じゃと頷く星砂。良し、決まりと歩き出す田古。
 雪雄を残し夢の丘公園を後にして、田古が向かった先はビル街、その中の東京摩天楼ビルである。新宿の街はもうすっかり陽が沈み、夏の宵。ビルに入り、エレベータに乗り込む。エレベータはどんどん上昇し、最上階の三十階に到達する、そこはやすおの知り合いが勤める結婚相談所シクラメン。こんな場所に一体何の用があるのかと思えば、シクラメンには足を向けず、田古は人影のない待合いロビーの窓辺に佇むばかり。きょとんとしている星砂に、
「ほら、なんだかね、やっぱり」
 と窓に映る外の景色を指差す。えっと釣られて星砂が目をやると、そこには……。
「うわーっ、きれい」
 思わず息を呑む、夜の街一面に広がる大都会新宿の夜景であり、さながらそれは地上に映る銀河の瞬き。
 にこにこ笑い掛ける星砂と、星砂の反応に満足する田古。ふたりはそのまましばらく黙って、夜の新宿に酔い痴れる。ネオン街に煌めくネオンライト、駅の灯り、通過する電車の灯り、摩天楼の光の連なり、何処までも何処までも続く住宅街の灯り……。その光の波また波の、その下で暮らす人々の鼓動、息遣いすら感じられる程。凄ーい、これが新宿なのね、わたしたちが暮らす。眩しげに田古の顔を見詰める星砂に、なんだかね、やっぱり、無言で頷く田古。この中に、青葉荘もあるんだね、わたしたちの青葉荘。わたしたちが東京の夜の中で暮らす時、青葉荘のわたしたちの灯りも、この夜景の中のひとつの光として点っているんだね。なんだかね、やっぱり、その通り、そうそう、そういうことさ。
 やっぱりわたし、この街が好き、ねえ、たこさん。いろんな人がいて、悪い人もたくさんいたけど、それでも新宿が、東京が、わたし大好き。たこさん……、わたしもこの街で生きたい、青葉荘で、夢の丘公園で、たこさんと雪雄とやすおさんと着ぐるみマンさんたちとずっと一緒に……。うん、そうしたけりゃ、そうすればいいんだよ、何も遠慮なんかいらないんだからさ。なんだかね、やっぱり、だってここはきみの街、きみの、東京なんだから。星砂に笑い掛ける田古、けれど星砂の顔から笑みは消え、その瞳から涙が溢れ出す。えっ、息を呑む田古。御免なさい、たこさん。わたしね、本当に御免なさい……。なんだかね、やっぱり、どうして謝るのさ……。
「Memory……」
 涙の中で、星砂の唇から歌が零れ落ちる。ほら、なんだかね、やっぱり、きみだって、ちゃんと唄えるじゃないか。東京摩天楼ビル三十階、結婚相談所シクラメンの窓には、星砂の肩を抱き締めるまーるい田古の背中が映っていた。けれどその時田古はまだ、星砂の涙の訳を知らない。
 新宿の夜景と東京摩天楼ビルを後にして、ふたりはネオン街へと向かう。遅刻を詫び、看板持ちをやすおと交替する田古。星砂にも待ち人がいる、雪である。ハイライト吹かし、星砂に手を振る雪。
「あら、大丈夫、松ちゃん」
 泣いた後だから、まだ星砂の目は充血状態。でも、
「うん、平気平気」
 と健気に微笑んでみせる。
「ほんと」
 苦笑いで念を押す雪。
「なんか悩みあるんだったら、遠慮しないで相談してよ。って言ってもあんまり役に立たないけど」
「有難う、でもほんと平気です」
 ふたりはいつもの立ち話。
「わたしっていつも松ちゃんに、愚痴ばっか零して来たじゃない」
「そうでしたっけ」
「そうよ。でもね、これで楽しいことも、それなりにあんのよ」
「はい」
 雪、「どっしようかなあ」と勿体振る。
「何ですか、にたにたして」
「うん、ここだけの話なんだけど、田古さんには絶対内緒よ」
「勿論ですよ」
「実はね、わたし、以前、田古さんと付き合ってたの」
 厚化粧の顔をまっ赤にして雪が告白する。
「ええーっ」
 これには流石の星砂も吃驚、思わず口を両手で塞ぐ。
「田古さんて、ほんと海が好きよね。会うたんびいつも海のことばっか話してたし」
「へえ」
「ホテルもね」
「ホテル」
「うん、入ったラヴホの名前も、海猫だった」
「うみねこ」
「うん、田古さんがここがいいって」
 はにかむ雪。ええっ、そうだったんだ、雪さんとたこさんがラヴホねえ。でもふたりとも大人なんだから、別にいいじゃない、と平静を装う星砂。
「そんなに海好きなんですっけ、たこさん」
「そりゃ沖縄だし、田舎、田古さんの」
 えっ、沖縄……。たこさんの田舎、沖縄なんだ、ちっとも知らなかった。今更ながら田古について何も知らない自分に、愕然とする星砂である。でも沖縄の何処なんだろ。
「何て島だっけ」と続ける雪。
「島なんですか、たこさんの田舎」
「何、知らないの、松ちゃん。親戚なんでしょ」
「あっ……ですね」
 星砂、苦笑い。
「ですねじゃないわよ、ちょっと」
 釣られて雪も笑い出す。
 そこへやすおが、ふたりに割り込んで星砂に、
「わりい、おっちゃんから急用」
「えっ」
「沖縄に記録的な台風が上陸してるって、ラジオで」
「記録的な台風」
「うん。夢国島も危ないから、電話しろって、おっちゃんが」
「電話……」
 戸惑う星砂。その横で雪が、
「そうそう、その夢国島よ、田古さんの田舎」
「えっ」
 じっと雪を見詰める星砂。
 どきどき、どきどきっ……、星砂の鼓動が高鳴る。夢国島、まさか、たこさんが夢国島の人だなんて。どうして教えてくれなかったんだろう、わたしに。きょろきょろ、ネオン街の人波の中に田古を捜す、エデンの東の看板を持った田古。もしかしてたこさんて、お母さんかお父さんの知り合いなのかも。だからわたしのことも知ってて、それでわたしに親切にしてくれたとか、でも凄い偶然……。
 どきどき、どきどきっ……、でも、でも違うよ、やっぱり。だってたこさん、わたしに、あの歌を唄ってくれた。あの歌、You Are So Beautifulを、You Are So Beautifulって、唄ってくれたから。あっ……、そうか、そうだ。たこさんって、わたしの、お、と、う、さ、ん……。ああ、だから誕生日も年もおんなじだったんだ。遂に悟る星砂である。
「電話しないの、松ちゃん」
 ぼけっとしている星砂に促すやすお。
「そうよ、早い方がいいよ」と雪も心配する。
「じゃ、松ちゃん、またね」
 ハイライト揉み消し、エデンの東へと帰ってゆく雪。星砂は急いで、通りの端の公衆電話ボックスに飛び込む。
 ツルルルル……。
 記録的な台風かあ、ため息の星砂。受話器の向こうから、荒れ狂う夢国島の海の波音が聴こえて来るようでならない。みんな大丈夫かな、お母さん早く出て……。ツルルルル……。
「はい、もしもし」と美砂の声。
「お母さん、わたし。夜中に御免」
「いいから、心配して掛けて来たんでしょ」
「どうなの、台風」
「ん、こっちは平気、大したことないない」
「良かったあ」
 しかし一安心の星砂に、透かさず美砂が釘を刺す。
「良かったじゃないわよ、あんた。もう来月なのよ、ちゃんと帰って来んでしょうねえ」
「えっ。うん、分かってる」
「ホテルの仕事だって、あるんだからね」
「大丈夫だって、ちゃんと帰りまーす」
「ならいいけど」
 島に帰っても仕事ないのは分かっているから、以前から話に出てた観光ホテルのフロントの仕事を、既に星砂はOKしている。
 電話を切る前に、田古のことが脳裏をよぎる星砂。けれど結局美砂には何も告げずに受話器を、ガッチャン。お母さん、吃驚しないでよ、わたし東京で、おとうさん見付けちゃった。なんて言ったら、お母さんどんな反応するだろう。でもやっぱり、そんなこと言えない。今更言っても仕方ないし、お母さん困らせるだけ。受話器を置いた後も、公衆電話ボックスの中でぼけっーとしている星砂。ふーっとため息で曇らせた窓ガラス越し、何にも知らずに看板持ちの田古が手を振っている。
 ネオン街の通りに戻ると、
「どうだった、台風」
 やすおが問い掛ける。田古は相変わらず、人波に揉まれながら看板持ち。
「島の方は大丈夫だって」
「良かったな、そりゃ」
「うん、でも……」
「でも、何」
 田古のことが気になって仕方のない星砂。でも、
「ううん、何でもない」
「そうだ、新しい曲作ったばっかなんだ、聴いてくんね」
 聴き慣れないメロディを弾き出すやすお。
「うん、聴かせて」
 海外の名曲をカバーするばかりでなく、やすおはちゃんとオリジナル曲も持っている。
「タイトルは、夜を抱きしめて」
「夜を、抱きしめて」
「ん、知り合いの名もない詩人さんが書いた詩に、曲を付けさしてもらったんだ」
 やすおは星砂へと語り掛けるように、唄い出す……。

「気付かなかった、今までちっとも気付かなかったよ、
 水がなきゃ海と呼んじゃいけないと思っていたから、
 なんだかねやっぱり、この夜を抱きしめ、
 ちゃんと目に見えなきゃ涙だと感じちゃいけないと思っていたから、
 だけどもうぼくは愛している、この夜を抱きしめ、
 この弱々しい腕と臆病な心と何度も棒にふった運命とできそこないのぼくの一生をこめて、
 今せいいっぱい抱きしめるよ、このいくせんの人がゆきかう都会の夜の片隅、
 きみには聴こえないかい、きらきらとまたたく街の灯りは、まるでとわに続く夜の潮騒のようさ、
 実際ぼくなんか何度も海と錯覚したことがあるんだ、
 うんと酒に酔っ払った時とか、うんとひとりぼっちの時。

 そして今せいいっぱい抱きしめるよ、誰にも何にもしてあげられないけれど、
 いつも愚痴と泣き言ばかりで何の役にも立たないけれど、
 ぼくには見えるんだ、今この夜の中でたくさんの人が泣いていると、
 だからここは海なんだよやっぱり、たくさんの人の涙でできた、
 だからもうぼくは愛している、
 いくせんの人がゆきかうこの夜を、今はじっと抱きしめて、とわに続く潮騒のように抱きしめて、
 好きだなんて絶対口にしたりしないで、きみの涙をぬぐってあげたりはしないけれど、
 今泣いているきみがいるこの夜を、
 今きみの涙が生きているこの夜を感じながら、ぼくも生きていくよ」

 唄い終わるとやすおは、その詩の書かれたメモ用紙を星砂に渡す。あんまり褒められた文字ではない、むしろ神経質そうに尖がってて読み辛い程。
「良かったらあげるよ、その詩人さんからもらった直筆だぜ」
「いいの、そんな大事なもの」
「いいんだよ、大事に持っててくれりゃ」
「うん、有難う。大事にする」
「ああ」
「名もない詩人さんに宜しく言っといて」
「勿論さ」
 気付いたら、星砂の隣りには田古。
「なんだかね、やっぱり、そろそろ帰らないかい」
 いつのまにか日付けは変わり、ネオン街の通りも今は既に閑散としている。うん、頷く星砂。着ぐるみマンはもうとっくの昔に夢の丘公園に戻って、既にテントの中で熟睡中。まだ唄ってくからと言うやすおに別れを告げると、星砂は田古と共に歩き出す。
 沈黙。真夜中の路地に、ふたりの足音だけが響く。いつもはお喋りの星砂が今夜は無口、ただ田古の横顔ばかりをちらちらと見詰めている。けれど目と目が合うと、はっとして、さっさと目を逸らす。確かめたい、この人が、本当に、本当のおとうさんなのか。それに、帰郷のことだって早く伝えなきゃ。どきどき、どきどきっ……、でも言えない、恐くて何も言い出せない。田古とこうして歩く日々も後もう残り僅かだというのに、気ばかりが焦る星砂。そしてそんな星砂の気も知らず、ただ黙々と歩き続ける田古である。
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