(三・十三)八月、Memory

文字数 9,192文字

 月が変わり、遂に八月。星砂に残された時間は、泣いても笑っても後六日。雪雄を除いて、まだ誰にも帰郷のことは教えていない。荷物なら上京時と何ら変わらないトランクひとつの身、だから出発準備に時間はかからない。田古に買ってもらった布団は、青葉荘に残してゆくしかないけれど。そんなことより星砂の頭の中は、田古が実父なのかということと、帰郷すると告げた時みんながどんな顔をするか、その二点で一杯。
 八月一日月曜日、朝、田古はいつものようにさっさとバイトに出掛け、青葉荘にはやすおがやって来る。
「サンファミ、辞めたんだって」
「あっ、はい。すいません、折角紹介してもらったのに」
「いいんだよ、そんなこた」
 コンビニのバイトじゃ詰まんなかったかなとか、これからどうすんのとか、聞かれると思ったけれど、然にあらず。やすおは行き成し、
「田舎でも帰んの」とぽつり。
「えっ」
 何で分かったんだろ、戸惑う星砂。でもこれでこっちから切り出す手間が省けたと、安堵のため息。
「うん、実は……」
 ところがやすおは勘違い。
「ま、しばらく帰んのも悪くないんじゃない、気分転換になって」
「えっ」
 しばらくじゃないよ、ずっとだってば、気分転換な訳ないでしょ……。
 もう仕方ないと、星砂はいよいよやすおに帰郷を告げる。
「わたし、もうずっと向こうなの」
「はっ、どういうこと」
「だから、帰省じゃなくて帰郷」
「帰郷……」
 吃驚仰天のやすお。でも直ぐに、
「そうか。でもま、いつかこういう日が来るこた、みんな覚悟してたから」
 みんな……。
「御免」
 泣きそうな顔で俯く星砂。やすおは星砂を元気付けるように笑みを浮かべ、
「ま、それもひとつの生き方だよな」
「うん」
「でも嫌んなったら、また帰って来りゃいいじゃん」
「えっ」
「だから田舎飽きたらさ、また東京に帰って来なよ」
 東京に帰って来る……。
 星砂の心に八月の光が差し込む、その顔に俄かに笑みが甦る。
「そっか、うん、そうだね。なーんだ、帰って来ればいいんだ」
「そうだよ」
 あったり前だろって顔のやすお。
「ここだっていいし、夢の丘公園だってあらあな、な」
「うん」
「おっちゃんも俺も着ぐるみのおやじもみんな待ってっから」
「分かった」
 微笑みつつも、目には涙一杯の星砂である。
 星砂帰郷の件は、やすおの口から田古、着ぐるみマン、雪へと伝わる。その日の夜ネオン街では、着ぐるみマン、雪から別れを惜しまれ、ついついまた涙に濡れる星砂である。でも田古だけは一向に、そのことに触れて来ない。ただいつも通りやすおと交替し、いつものように眩しいネオンの街の通りで黙々と看板持ちをこなしているだけ。こういう時は意外とクールな人なのかも、たこさんって、と無理に思おうとする星砂。でも何だか無性に悲しくてならない。かと言って自分の方からは言い出せない。看板持ちが終わると、ふたりしていつものように帰路に就く。星砂と肩並べ歩く田古だけれど、やっぱり無言、何も言ってはくれない。
 八月二日火曜日、朝、やっぱり田古は何事もなかったかの如くさっさとバイトに出掛けてしまうから、星砂は拍子抜けのがっかりがっくん。なんだかね、やっぱり、わたしのことなんて、きっと何とも思ってないんだわ。わたしが帰郷しようが、何処にいなくなろうがどうでもいいっていうよ、知ったこっちゃないって訳ですね、はいはい、分かりましたよ、まったく、ばっかみたい。
 でも、だったらやっぱり、たこさんがおとうさんだなんて有り得ない……ってことよね。でも、考えようによっては、その方が別れも辛くなくていいかも、と強引に割り切ろうとする星砂である。
 八月三日水曜日も、八月四日木曜日も、八月五日金曜日も、同じ具合の田古である。
 そして遂に八月六日土曜日の朝が訪れる。それはありふれた、晴れた蒸し暑い、いつもの八月の朝である。土曜日故、田古のバイトはお休み。青葉荘の部屋には、田古と星砂と、そして扇風機。いつのまにか台所のコップには、大きな向日葵の花が飾られている。夢の丘公園のやつなのか、それとも買って来たのかは定かでない。
 朝っぱらから蝉も元気に鳴いている。一年前のちょうどこの日は星砂の為にと閉め切っていた部屋の窓も今朝は見事に開け放ち、僅かながらも涼しさを含んだ風がふたりの頬にやさしい。同様に昨年は閉ざされた窓越しに聴こえて来た隣近所のノイズ、話し声、笑い声、足音もストレートに耳に届く。もう星砂に外界への恐怖はない。あの去年の八月六日パンドラの夜の悪夢もすっかり見なくなって久しい。
 本日八月六日は星砂二十二回目の誕生日であるけれど、星砂は誰にもそのことを教えていない、田古に対してもまた然り。それに今更教える気もない、今日が東京最後の日であるから尚更のこと。誕生日なんかより、みんなと別れることの方が今日の自分には遥かに重要。ま、兎に角たこさんに限っては、わたしのことなどどうでもいい訳だから、あっさりと一言、お世話になりました、とでも言っておけばいいか、などと軽く考えてみる星砂である。
 台所に立ち、朝食をこしらえる。去年は自分の為に、田古が一生懸命不器用な手付きで作ってくれた。今思い起こせば、すべてが懐かしくてならない。あっ、でもそうか、わたしの箸、お茶碗はどうしよう。そんなことを思うだけで、胸がきゅっと詰まって死にそうになる。このままここに残していったら、たこさんどうするんだろう、困りはしないか。ねえ、たこさん、どうしよっか、わたしの食器。荷物になっちゃうから、持ってけないんだけど、捨てちゃっても構わないよ全然。とか田古に笑い掛けたいけど、やっぱり上手く言い出せない。もどかしさだけが込み上げる。
 仕度が出来て、マイメロディのテーブルに並べる。そっか、こいつともお別れなんだ、マイメロディ。でも何でマイメロディなんだろ、もしかしてファンだったりして、たこさん。しまった、今迄一度も気にしたことなかったなあ、ばかなわたし。
 御飯、味噌汁、海苔、生卵、醤油、お茶、献立は至ってシンプル。今朝は田古の好物の卵かけ御飯である。黙って田古と向かい合う。今朝はまだ田古はラジオを点けないでいる。忘れているのか、それとも意識的に……。
「頂きます」と田古。
 答えるように星砂も「頂きます」
「なんだかね、やっぱり、美味しそう」
 とむしゃむしゃ頬張る田古の頬に御飯粒。扇風機、蝉時雨、隣近所のノイズ、何処かで犬の鳴く声。すべての音がいとおしい、今わたしの耳に響いている音のすべてが……。目頭が熱くなる星砂、でも堪えて食事。だってこれが田古との最後の朝御飯。明日は早朝から出発するから。
「ふう、なんだかね、やっぱり、美味しかった」
「うん」
「御馳走様」
「御馳走様」
 後片付け、台所に並んで立つ。でもやっぱり無言のふたり。それが終わると、ぼけーっ。柱に凭れる田古と窓辺に佇む星砂。ラジオが点いていないせいか、落ち着かない。よくまあ、こんな狭い部屋に男女ふたりでいたもんだ、と改めて思う。一年間、よくぞ何事もなく過ごしてこれたなあと。でも一年間なんてあっという間なのね、丸で夢の如しじゃない、夢の、夢……、夢かあ。夢なんて、これじゃ何が夢だか分からないじゃない、と思う星砂。歌手に憧れダンサーになりたくってやって来た東京で、でも上手くいかなくてひどい目にあって。だけどそのお陰でたこさんと会えた、こうしてたこさんと出会えたんだから、そして夢みたいな一年が過ごせたんなら、あの烏賊川たちに騙されたことも今ではそんなに悪いことでもなかったのかも知れない、むしろ感謝してもいい位……な訳ないか、ばかみたい。ひとり、くすくす笑いの星砂。
「なんだかね、やっぱり……」
 そんな星砂の耳に、不意に田古の声。
「なーに」
「もう準備はいいのかい」
 えっ、準備、準備って帰郷の……。田古が星砂の帰郷に関して触れるのは、これが初めてである。緊張する星砂、でも、今が別れの挨拶をするラストチャンスかも……。
「うん、もう大丈夫」
「そりゃ良かった」
「あっ」
「何だい」
「うん、どしよっか、わたしが使ってたもの」
「もの」
「食器とか、後布団。捨てちゃおっか」
「捨てる」
「でも、邪魔でしょ」
「まさか」
「だって」
「みんな、宝物なんだよ、ぼくの」
 えっ、戸惑う星砂。
「宝物……」
「だから、なんだかね、やっぱり、みんなそのまんまでいいのさ」
 笑い掛ける田古に、けれど泣きそうな星砂。でも涙をぐっと堪えて、田古の顔を見詰め返す。しまった、でも、たこさんには見えるんだった、こんな涙でも……。
「出掛けないかい」と誘う田古。
「なんだかね、やっぱり、何処がいい」
 問う田古に、あれこれ考え結局、
「公園」
 青葉荘を出て、夢の丘公園へ。公園に着く頃はもうお昼、ふたりは汗だく。公園は蝉に支配された、蝉時雨の楽園である。星砂は先ずサンファミに別れの挨拶へ、それからふたり分の菓子パンと、パックに入った素麺、ペットボトルのお茶を購入。田古の待つ公園のベンチに戻る。
 最後の昼食は、夢の丘公園のベンチで。
「なんだかね、やっぱり、ラジオ忘れちゃったよ」と笑う田古。
「取って来る」
「暑いから、いいんだよ。それに今日はいらない」
 田古の言うように、公園では何にもなくても確かに平気である。風が吹き、草花が微笑み、虫たちが遊ぶ、「みゃーお」と黒猫の雪雄もやって来る。
「しまった、忘れてた」と星砂、サンファミに雪雄の食事を買いに。
 のんびりとした午後を過ごす、ふたりと一匹。雪雄は星砂の膝の上ですやすや。日が傾き、昼下がり。
「散歩しないかい」
「うん」
 雪雄を起こして、公園を一回りする。改めて歩き回ると、夢の丘公園は実に広い。公園で暮らす人々も暑さを避けて、木陰で昼寝したり、ラジオ聴いたり、ぶつぶつ独り言呟いていたり……。やすおと着ぐるみマンは出掛けているのか、今は留守らしい。
 よせばいいのに、公園を歩き回って汗びっしょり。自販機で冷えたお茶を購入し、ベンチに戻ってまた一服。気付いたら、夕暮れである。雪雄ともいよいよお別れ、気を利かして田古は席というかベンチを外す。思いっ切り雪雄を抱き締め、最後の抱擁と頬擦り。
「じゃーね、短い間だったけど楽しかったよ、有難う」
「みゃーっ」分かっているのかいないのか、ぺろぺろと涙に濡れた星砂の頬を舐める雪雄。
 そこへ夕立。
「うわーっ」
 と木陰に逃げ込む雪雄を抱いた星砂と田古。容赦なく襲い来る大粒の雨また雨に、雪雄も含めみんなびしょ濡れ。笑い合って、
「なんだかね、やっぱり、直ぐに乾くから平気、平気」
 と上機嫌の田古。夕立の後、夢の丘公園の夕映えの空には、小さな虹。
「それじゃ、これでほんとにお別れだね、バイバイ、雪雄」
 と手を振って、きょとんと公園の舗道に佇む雪雄に別れを告げると、星砂は田古と共に夢の丘公園を後にする。雪雄はいつまでも星砂の背中を見送っている。
 ネオン街へ向かうかと思えば、
「こっち、こっち」と向きを変える田古。
 何処へ行くかと思えば、何てことない青葉荘。何でまた、あっラジオを取りに戻るのかと思いつつ、部屋のドアの前に立てば、あれあれっ。何やら中に人影、一体誰、まさか泥棒。でも田古は少しも驚かない。
 ゆっくりとドアを開ける田古、恐る恐る中を覗く星砂。すると、じゃーん、何とそこには着ぐるみマンとやすおが、しかもにっこりと微笑み掛けているではないか。何で、何してんのふたりとも。そっちこそ何ぼけっとしてるだなと着ぐるみマンが星砂の手を引っ張り、部屋の中へ。直ぐにマイメロディのテーブルが目に入る。しかもその上には、小型控えめサイズの白いバースディケーキ。えっ、立ち尽くす星砂。
「松ちゃん、誕生日、おめでとう」とやすお。
 わたし、と目を丸くする星砂に、着ぐるみマンも頷いてみせる。何で、何で知ってるの、誰にも教えてなかったのに。ケーキの上のローソクを数えると、二十二本。どうして、さっと田古を見詰める星砂。固唾を呑んで、ふたりを見守るやすおと着ぐるみマン。注目の中、田古はにこっと笑って、星砂に何やら差し出す。
「なんだかね、やっぱり、はい、これ。誕生日プレゼントっていうよ」
 誕生日プレゼント……。言葉を失くし、無言のまま受け取る星砂、小さな箱である。
「開けてみれば」とやすお。
 うんと頷き蓋箱を開ける、そこにはコルクの栓で中味を密封した小さな透明の瓶が。瓶の中味は、砂。
「何だよ、おっちゃん、ただの砂じゃん」
 星砂の代わりに問うやすお。
「なんだかね、やっぱり、星の砂って言いたいところ、夢の丘公園の砂。だから夢の砂ってところかな」
 頭を掻いて苦笑いの田古。
「夢の砂、そりゃいいわ」
 笑うやすおに、手を叩く着ぐるみマン。でも星砂は直立不動、じっと田古を見詰めたままである。
 星の砂……、やっぱり間違いない。
「おとうさん」
 田古の胸に飛び込む星砂、じっと抱き締める田古。ふたりを見守るやすおと着ぐるみマン。
 どきどき、どきどきっ……、おとうさん、わたしの、おとうさん……。
 縋り付いた田古の胸は、あったかかった。何処か懐かしい匂いもして、それは確かに夢国島の海の匂い。どきどき、どきどきっ、高鳴る田古の胸の鼓動の中に、確かに夢国島の海の音も聴こえた。星砂はずっと田古の胸に縋り付き、ずっと縋り付いていたかった。なぜなら、やっと見付けた、ここがわたしのふるさとなのだから、ねえ、たこさん。
「ねえ一緒に帰ろう、わたしと島に帰ろうよ、おとうさん」
 田古の胸から離れ、涙声で訴える星砂。けれど田古は黙って目を瞑る。ふるさとの青い海、懐かしい海の匂い、砂浜に打ち寄せる波の音が甦る。さとうきび畑を駆け抜ける風も頬に吹いて来るようである。帰りたい、帰れるものなら……。けれど田古はぎゅっと唇噛み締めると、目を開き、一言こう答える。
「松堂に、わりいから」
 まつどうにわりいから……、まつどうに……。田古の言葉を幾度となく心の内に繰り返す星砂。それではなんにも言い返せない、分かったと頷く星砂である。
 最後の晩餐である。やすおが買って来たお弁当とお茶とバースディケーキで乾杯。着ぐるみマンもすぽっと頭の着ぐるみを取って、素顔で弁当にぱくつく。黙々と食する四人、静かである。ただみんなの食事の音がするばかり、後はいつもの青葉荘と都会のノイズだけ。
 それからいつものように、ネオン街へと繰り出す四人。外はもうすっかり宵、ネオン街はサマーアンドサタディナイトで大フィーバーの熱帯夜。田古は看板持ち、ラジオと耳にはイヤホンも忘れない。やすおと着ぐるみマンはいつものパフォーマンス開始。通りの人波に紛れ、ふたりを眺めている星砂である。
 そこへ、カタカタ、カタカタッとハイヒールの音鳴らし、やって来る雪。田古が自分の実父と分かって、雪と田古の関係も他人事には思えない星砂。おとうさん、どうして雪さんと別れたんだろう。
「ねえ、最後だし、どっかで食事でもしない」
 と誘う雪に連れられ、近くの喫茶店に入る星砂。雪の知る穴場なのか、ネオン街から歩いて直ぐなのに、店内は空いていて静か。
 いつものように雪は早速ハイライト。奢らせてよと聞かない雪に、それじゃとサンドイッチとココアを注文する星砂。この席で初めて星砂は、雪に自分の過去を話して聴かせるのである。
「へえ、そうだったんだ」
 星砂の思い出話を聴いて、雪は吃驚。
「松ちゃんと田古さんが親子だったなんて……」
 しばしため息の雪である。ハイライトの煙にもやりながら、
「御免、わたし自分のことばっか喋って、松ちゃんのこと何にも知らなかった。松ちゃんも大変だったんだね」
 雪に見詰められ、照れ笑いの星砂。
「でも、もう大丈夫だから、わたし」
「それなら良いけど」
 同じ痛みを分かち合い、今は笑みを交し合うふたりである。
「そうかあ、明日帰っちゃうんだね、松ちゃん」
 星砂との別れも然ることながら、雪は田古のことが心配である。あの人寂しいだろうなあ。でもそんなことを星砂に問うてみたところで今更仕方のないことである。だから田古のことには触れず、
「わたしもいい機会だから、一遍田舎に帰ってみようかな」
 それからハイライトを揉み消すと、
「じゃそろそろわたし、お店行かなきゃ」と雪。
「うん」
 星砂も頷き、ふたりは席を立ち茶店を後にする。
 別れ際、照れ臭そうに雪が告げる。
「そうそうわたし、辞めることにしたから、エデンの東」
「えっ」
 驚いて雪を見詰めずにいられない。
「ほんとですか」
「嫌だ、泣かないでよ。こっちまで……」
「でも」
「有難う、わたしも頑張ってみるから。じゃ、元気でね、松ちゃん」
「雪さんも」
 ネオン街の人込みの中、エデンの東へと向かう雪の背中に星砂は小さく囁き掛ける。
「おとうさんのこと、宜しくお願いしまーす」
 聴こえたのか否か、振り返り雪は無言で頷くばかり。
 雪を見送った後、星砂は看板持ちの田古の許へ。
「おとうさん、わたしにもやらせて」
「なんだかね、やっぱり、重たいからさ」
「平気、平気」
 それじゃ仕方ないと、星砂にエデンの東の看板を渡す田古。
「ラジオとイヤホンも貸して」
「はいはい、なんだかね、やっぱり」
 田古を真似して看板を持ち上げる星砂。
「う、本当重たい」
 田古の見守る中、ネオン街の通りのまん中に立ち、イヤホンのラジオに耳を傾ける。星砂に気付くこともなく、目の前を通り過ぎてゆく人波。絶え間なく続く人影、足音、ノイズ、瞬き灯り続くネオンの波また波。唄い踊るやすおと着ぐるみマンの姿が見える、エデンの東の店のネオンライトの文字も見える。
 ラジオから流れ来る曲は、Elaine PaigeのMemory。その瞬間、星砂の中で目の前の景色が一変する。そこはさながら華やかな都会のコンサートホール。どきどき、どきどきっ……、重たい看板を田古に返すと、田古の手を握り締めながら、星砂は唄い出す。目の前を通り過ぎる人波へと今、唄い掛けるように。
「Memory……」
 驚いて、振り返ったり足を止める人、耳を傾ける人、やっぱり無関心に遠ざかる人、人、人……。星砂の歌に気付いて駆け寄るやすおと着ぐるみマン。やすおがギターを弾く、Memoryの伴奏。そして星砂の歌声は緊張で震えているけど、その声は透き通っていてやさしい。星砂の歌に合わせて踊り出す着ぐるみマン、田古から手を離し星砂も踊り出す。くるくる、くるくる、弧を描き、アスファルトの路上で唄い踊る星砂の額に頬に、汗が光る。
 星砂と着ぐるみマンの周りに人だかりが出来る。どきどき、どきどきっ……、注目の的、スポットライト代わり七色のネオンライトが星砂を照らす。群衆の中に混じって、田古の瞳がやさしく星砂を見守っている。心の中で星砂は囁く。
「わたし、唄えたよ、おとうさん」
 その声が確かに届いたように、田古は星砂に頷いている。にこにこ、にこにこ、なんだかね、やっぱりと、星砂に向かって笑い掛けている。あたかも夢国島の海辺に打ち寄せる波のように、笑っている、いつまでも、いつまでも、絶えることなく……。
 八月六日から七日へと日付けが変わる午前零時、東京新宿ネオン町三丁目。やすお、着ぐるみマンと抱擁し、別れの言葉を交わす星砂。
「じゃ、もう行くね」
「ああ、元気でな」
『世話になっただな』
『さようなら、ありがとう』
 それから田古とふたり、青葉荘へと帰路に就く。
 最後の晩、それでも暑さは変わらない。扇風機は全開で、一晩中うんうん唸り続ける。風呂を済ますと、ごろんと畳の上、並んで横になるふたり。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 でもふたりとも眠れない。
「おとうさん」
「なんだかね、やっぱり、どうしたの」
「眠れないの」
「ああ、分かった」
 答えると田古は唄い出す、囁く声で。心臓の鼓動のように、星砂の耳に田古の唄う声が響いて来る、どきどき、どきどきっ……。
「You Are So Beautiful……」
 いつしか星砂は眠りの中へ、幼い子供が夢見るように。だから田古が一晩中唄い続けていたことを、星砂は知らない。

 八月七日、朝のJR新宿駅である。日曜日とあって、まだ人影は少ない。星砂と田古は山手線のホームに佇み、電車を待つ。山手線内回りで浜松町駅まで、そこから羽田空港へ向かう星砂。なぜ星砂が飛行機で帰ることにしたかというと、東京からさっさと離れたかったから。というと冷たいように聞こえるが、新幹線だと途中下車して引き返してしまいたくなる、そんな気がしたからである。
 ホームに山手線の汽笛が響く。
「じゃ、もう行くね」
「なんだかね、やっぱり、体に気を付けて」
「おとうさんも」
 黙って頷く田古。停車した山手線に重いトランクと共に乗り込む星砂、発車のベル。
「おとうさん」
「何だい」
 にこっと微笑み、田古に星砂。
「なんだかね、やっぱり、夜を抱きしめて」
「あっ」
 戸惑う田古。
「おとうさんの詩でしょ、あの詩」
 えっと頭掻き掻き、田古は「なんだかね、やっぱり……」と頷いてみせる。
 閉じるドア、
「おとうさーん……」
 風のように去ってゆく星砂。
「せいさーっ」
 直立不動で手を振り続ける田古。ぼくには見えるんだ、この夜の中で今たくさんの人が泣いていると、だからここは海なんだよやっぱり、たくさんの人の涙でできた、だからもうぼくは愛している、いくせんの人がゆきかうこの夜を、今はじっと抱きしめて、とわに続く潮騒のように抱きしめて、好きだなんて絶対口にしたりしないで、きみの涙をぬぐってあげたりはしないけれど、今泣いているきみがいるこの夜を、今きみの涙が生きているこの夜を感じながら、ぼくも生きていくよ……。
 山手線が走り去った後、ホームには田古ひとり。そこへカタカタ、カタカタッとハイヒールの音を響かせ近付く人影。振り返ると、そこには雪。見詰め合うふたり、恐る恐る雪が笑い掛ける。すると田古、行き成り雪に駆け寄ったかと思うと、そのままがばーっと雪を抱き締めた。吃驚した雪、けれど田古のするがままに任せる、なぜなら田古は泣いていたから。
 雪の肩に顔を埋めすすり泣く田古へと、雪が唄い掛ける。囁くように、子守唄のように。
「You Are So Beautiful……」
 あなたは、世界で一番美しい……。
 涙を拭いながら顔を上げる田古、その時人知れず流す涙、心の中でだけ流す涙が見えない自分に気付いてはっとする。なぜなら今、それ迄確かに見えていた、笑顔に隠された雪の涙が見えないから。その代わり雪の中に海の匂いがしている、少しハイライト臭いけれど。なんだかね、やっぱり、それにしても煙草臭い海なんて、ちょっとなあ……と、心の中でぺろっと舌を出す田古であった。
(了)
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