(三・二)九月、ひなぎくのジェーン

文字数 5,883文字

 いつしか真夏の日々は流れて去って、気付けば九月。星砂と田古の微妙な共同生活も二ヶ月目。その後、心配したパンドラからの接触はなく、田古たちの心配は主に星砂の心の有り様へと移行する。
 星砂が寝ている間枕元で、田古とやすおと着ぐるみマンがどうしたもんかとひそひそ話し合う。
「なあ病院連れてった方が良かねえか、おっちゃん」
 けれど田古はかぶりを振って、
「心は薬じゃ治らないっていうよ」
 着ぐるみマンも頷きながら、メモ帳で、
『心は心でなおすしか、ないんだな。だから、心なんだな』
「ん、訳分かんねけど。ま、そうかもな」
 とやすおも頷き、やっぱりこのまま三人でじっと見守ってゆくことに。
 まだひとり切りにするのは不安、よって引き続き田古は昼間のバイトを休んで星砂に寄り添う。その星砂は一日中青葉荘の部屋の中にいて、大半をごろんと横になって過ごしている。恐怖と不安によって今にも心が押し潰されそうで何もする気になれず、体を動かすのも億劫。なれどそれでも生きていねばならず、持て余した心と体を抱え、仕方なしごろんとしているといった具合。
 肉体的な疲れは徐々に取れて、体調は回復傾向にあり、問題は心。田古、やすお、着ぐるみマン三人のやさしさに何とか応えたいと願えど、やっぱり駄目。どうしても恐い。起きている間は聴き慣れない物音、足音、話し声に怯え、静けさに怯え、眠ろうとすると悪夢の予感に怯える。また恐い夢を見るのではないか、そして実際夢の中で八月六日パンドラの夜へと引きずり戻され、真夜中の悲鳴へと至るのである。その度に隣近所のクレームに耐えながら、田古は星砂の汗と涙を拭ってやり、星砂の手をぎゅっと痛い程に握り締めながら、そっと耳元で唄い掛ける。そっと「You Are So Beautiful……」
 一晩中、再び星砂が眠りに就くまで。そんなことの繰り返しだった、ふたりの夜。
 お陰で夜は充分に眠れず、だらしなく昼近くまで寝ているふたり。当然隣近所から良く思われる筈がない。深夜の星砂の悲鳴も、どうせ変態プレイかなんかだろ、それとも拉致監禁か、親子ほど年も違うっぽいし、あの変態おやじこんな貧乏アパートに若い女連れ込んでんじゃねえよ、まったく何考えてんだ、このタコ、となる。けれどそんなことは一切気にしないタコ否、田古である。
 朝、というか目覚めた時には昼だった、そんな毎日の星砂と田古。目覚めればまだ残暑、よって蒸し暑い。扇風機の風を頼りに起き上がり、田古は汗を拭いながら台所で朝食兼昼飯の仕度。マイメロディのテーブルに御飯、味噌汁、漬物、それから素麺。時折り野菜サラダが登場したり、卵かけ御飯だったり。相変わらず質素&ヘルシーメニューである。
「なんだかね、やっぱり、出来たよ、食べないかい」
 星砂を起こす。んと頷く星砂はすっかり痩せて痛々しい。見上げれば、台所の花瓶代わりのコップにはコスモス。お彼岸の頃にはそれが彼岸花へと変わり、いずれも星砂の心を慰める。と言っても夢の丘公園からかっぱらって来たのだが、星砂には勿論内緒。
 ラジオを聴く、お彼岸の午後である。星砂が聴いているかどうかは定かでないが、少なくとも眠りの邪魔にはなっていないらしい。ニュースでは、いじめを苦にした女子中学生が自殺したと告げている。磨りガラスの窓から入る日差しも今は、心なし柔らかい。蝉の声もすっかり途絶え、残暑から抜け出した街はもう秋の気配。
 ニュース、天気予報の後、ラジオから流れて来た曲は、Americaの唄う、ひなぎくのジェーン。秋の憂愁にお似合いのしっとりと切ないラヴソングであり、やすおのレパートリーの一曲でもある。田古も知っているのか口遊み、何となくロンリー気分に浸っている。それが可笑しくて、知らない曲ではあるけれど星砂も釣られて思わずハミング……。かと思ったけれどやっぱり黙り込む、ただ唄う田古の横顔を眩しそうに見詰めながら。目と目が合って、照れ臭そうに笑い掛ける田古。
 曲が終わると、ラジオをOFF。静寂、蝉の声もない。あんなに夏の間鳴いていた蝉たちは一体何処へ行ってしまったのか、不思議な気がしてならない星砂。なのに自分はこうして不完全燃焼のままここにいて、一体何をしているというのだろう、情けなさで一杯になる。
「なんだかね、やっぱり、そうだ明日、ぼくなんか検査行くんだ」
 突然の田古の言葉。検査、びくっとする星砂。
「きみも一緒に行かないかい、暑さ寒さも彼岸までっていうよ」
 そうだった。すっかり忘れていたけど、あれからもうひと月以上経過していたのだ、あの悪夢の八月六日パンドラの夜……。今はまだ外になんか出れない、外の世界が恐い。でも……愚図愚図してらんない、もし取り返しのつかないことになっていたら、そしたらたこさんにも迷惑が掛かる……。緊張が高まり、冷や汗と共に震え出す星砂。その手を握り締め、
「ぼくも一緒に行くから」
 じっと星砂を見詰める田古に、泣きそうな顔でうんと頷く。
 翌朝、ふたりは病院へ。でもまず第一の関門は部屋を出ること。田古が青葉荘の部屋のドアを開けると、そこには果てしない外の世界が広がっている。どきどき、どきどきっ……久しく出てゆくことのなかった世界が、今星砂の目の前に。眩しい秋の日差し、風が誘うように頬を撫でる。ごくん、生唾を呑み込み、思い切って飛び出す星砂。表で待っていた田古が、OKサインとウィンクで迎える。
 田古の手に引かれ歩く星砂。でも折角外に出たというのに終始俯いたまま、周囲に目を向ける余裕もない。このひと月以上の間、ずっと部屋の内側から聴いていたすべての音が、今ストレートに耳に響いて来る。人々の声、会話、笑い声、足音、自転車のチリーンチリーン、車のクラクション、その他ノイズまたノイズ……。
 流石東京新宿、どれ程歩いたか知れぬ間に既に病院の前。見上げると看板に『海亀病院 性病科』の文字。星砂に向かって頷く田古、心細げに頷き返す星砂。あらかじめ用意しておいた青葉荘の住所を記したメモ用紙を星砂に渡すと、病院のドアを開けふたり揃って中に入る。
 数人の客が待っている、みな俯きがち。受付で検査を受けたい旨を田古が伝える。
「なんだかね、やっぱり、そう、この子とぼく」
 順番が来て、田古と星砂と別々の部屋に呼ばれ検査開始、血液を取られ、うーっ、いてえ。結果は一週間後、但しHIV検査だけは性交渉後三ヶ月の経過が必要とのことで、また日を改めてとなる。
 ふたり分の検査費用を払い、海亀病院を出ると、
「なんだかね、やっぱり、疲れたかい。残りはまた明日でもいいんだよ」と田古。
 残りとは妊娠検査、でも星砂はかぶりを振る。折角ここまで来たんだし、嫌なことはとっとと済ませたい、それに結果も早く知りたい。
 それではと、直ぐ目と鼻の先にある『珊瑚病院 産婦人科』の門を叩く。一緒に入ろうとする田古に、
「ひとりでいけるから」と星砂。
 えっと吃驚しつつも田古は黙って頷き、表で待っていることに。田古の財布を受け取ると、星砂はひとりで病院の中へ、どきどき、どきどきっ……。中は女の客ばかり、田古を連れて来なくて良かったと星砂は胸を撫で下ろす。
 いよいよ検査。検査中は辛い場面もあり、泣きたくなるのを必死で堪え星砂は耐える。結果、妊娠しておらず。良かったーーっと心の底から大きなため息、と同時にぽろぽろと安堵の涙が頬を伝う。田古の財布から料金を支払うと、檻から解放された小鳥のように表へ飛び出す。早くたこさんに、結果を教えたい。
 入り口の脇で待っていた田古を見付けるや、星砂は田古を真似してOKサインとウィンク。えっ、またまた吃驚しながらも田古も調子に乗って、ふたり揃ってOKサインとウィンク。ぽんぽんぽんぽん星砂の肩を叩き、歓喜に浸る田古である。
 一週間後の午後、再度ふたり揃って海亀病院を訪ねると、検査結果はふたりとも異常なし。やったーーっ、この時ばかりは星砂も忘れていた笑顔を滲ませ、田古と手に手を取って喜びを噛み締める。
「なんだかね、やっぱり、良かった良かった」
 と青葉荘へ帰る道すがら、田古は星砂に何かご褒美を上げたくて仕方がない。
「折角だから何か好きなものでも買うかい。金は天下の回り物っていうよ」
 お小遣いを渡そうとする田古に、しかしかぶりを振って遠慮する星砂。
 ところがその時、星砂ははっと思い出す、母、美砂のことを。あっ、そうだ……。そう言えば全然電話してなかったよ、それに仕送りも。やっばい、みんな絶対心配してる、愚図愚図してる場合じゃないよ、さっさと電話しなきゃ。そこで星砂は思い直し、ここは田古の好意に甘えることに。
 早速目に付いたコンビニ、サンクスファミリー略してサンファミ『新宿夢の丘公園前店』に飛び込む星砂。名前からして夢の丘公園の目の前にあるその店で、テレカを購入することに。これが星砂にとっては実に久し振りの買い物、緊張したけどレジのおばさんが愛想の良いお人好しふう親切丁寧、お陰で千円のテレカ二枚を無事購入。サンファミを出ると星砂は田古のこともつい忘れ、夢の丘公園内にある公衆電話ボックスへダッシュ。
 受話器を上げ、テレカを挿入、ちゃんと覚えていた夢国島の電話番号をプッシュ、呼び出し音……、ガチャ。慌てて喋る星砂。
「あっ、もしもし、わたし」
 されど相手はしばし沈黙……。その後「星砂」と恐る恐る母美砂の声。
「うん、わたし」
 答える星砂。すると、
「やだ、どうしてたのよ、あんた、もう……」
 感極まって、声を詰まらせる美砂である。そりゃそうだ、何しろ半年以上音沙汰なしだった星砂からの突然の電話。その間、これじゃ父の洌鎌とおんなじだよ、あの子まで行方不明って。まったくふたりして人生まで似てんだから、流石父娘と呆れるやら、心配やらで、どうすりゃいいかと夜も眠れずにいた美砂なのだから。
 一方星砂の方も受話器を握り締め、母に釣られてどっと号泣。心配した田古がボックスの外からじっと覗き込む程。
「御免、お母さん」
「何してたのよ、今迄。ずっと心配してたのよ」
「うん、ちょっと……」
 パンドラのことなんて絶対に言えない、田古の世話になっていることも今はまだ。余計な心配はさせたくない。
「ずっと仕事が忙しくて」
「本当」
「うん。御免ね、仕送りも出来なくて」
「そんなこといいのよ、それよか本当に大丈夫なの、あんた。そんなに大変だったら、ねえ」
「うん」
「こっち、帰って来てもいいのよ」
 帰って……、心揺れ動く星砂。そうだ、このまま島に帰っちゃお、嫌なことみんな忘れて。一旦はそう思い、けれど直ぐに思い直す。だって今のままじゃ絶対帰れない、だって、甦る八月六日パンドラの夜の記憶……。
「ううん、大丈夫。何とかやってるから」
「そーお……ならいいけど」
「そっちは、みんな元気」
「元気よ。こっちのことは何にも心配しなくていいから」
「うん、じゃ良かった……まだちょっとお金なくて」
「だからいいのよ、仕送りなんか気にしなくて」
「うん、ほんと御免ね」
「あんたこそほんとに平気なの」
「平気、平気だって、ほんとに。じゃまた電話するから」
「うん、じゃ。でもほんと良かった無事で」
「うん、じゃね」ガチャン。
 公衆電話ボックスを飛び出すと、今度は公園のベンチで待っていた田古に抱き付く星砂。
「有難う」
「なんだかね、やっぱり」
 星砂の肩をぽんぽんと叩きながら、ま、兎に角良かったと胸を撫で下ろす田古。これが立ち直るいいきっかけになってくれればと思いながら。見上げると空はもう夕映え、空中を泳ぐように赤とんぼがスイスイスイと飛び回る。田古と星砂の回りを飛んでいる。
 夜が訪れ、青葉荘の部屋には例によって着ぐるみマンがやって来る。田古はネオン街の看板持ちのバイトへ。着ぐるみマンとの時間はいつも静か、会話はみんなメモ帳とボールペンだし、そもそもこれといって話すこともない。着ぐるみマンは畳にどかっと座ってぼけっと欠伸しているか、もしくは黙々とメモ帳に向かって夢中で何かを綴っている。そんな様子をただ見ているだけで、心和む星砂。でも田古が出ていった後、直ぐにやすおがやって来るから、着ぐるみマンとの時間は極僅かである。
 そのやすおが青葉荘にやって来たら、夕食の時間。着ぐるみマンはさっさと、じゃあ、まただなと手を振って立ち去る。一緒に食べようよと誘っても、いいからいいからと奥床しい着ぐるみマン。さて夕食、ずっとやすおが買って来る、と言っても代金は田古持ち、スーパーのお弁当だったけど、勿体無いからと御飯だけは星砂が炊くようになった。やすおはおかずを買って来るだけ。
 やすおも実は基本無口な男、唄うことだけが人生のすべてである。本当はギター爪弾き唄いたいけど、夜の青葉荘の部屋の中でやる訳にもいかない。ちょっと小声で鼻唄を口遊む程度。そんなやすおが今夜口遊んだのが、ひなぎくのジェーン。以前聴いたのを思い出し、星砂がぼそっと、
「その曲、この前ラジオで……」
 へえ、歌興味なかったんじゃねえの、ま、いいか。
「いい曲だろ、気に入った」
 すると星砂は俯いたまま「はい」
 なーんだ、やっぱこの子歌好きなんじゃんよ。
「なら、教えたげよか」
 えっ、戸惑う星砂、でもこわごわ、うんと頷く。ほら、ほんとは歌好きな癖に、ったく。可笑しくてならないやすおはくすくす笑いたいのを堪えながら、英語の歌詞をメモ用紙に書いて星砂に渡す。
「いいかい」
 ゆっくりと、唄って聴かせるやすお。
 覚えの良い星砂は直ぐにやすおの声に合わせて唄い出し、気付いたらふたりでデュエット。
「上手いじゃん、やるね」
 とやすおは吃驚。アパートだから大きな声では唄えないけど、それでも星砂は嬉しくてならない。
「まじ、ふたりで組んで唄おうぜ」
「無理ですよ」
 頬をまっ赤にしてかぶりを振りながら、やすおがくれた歌詞のメモを大切にとっておく星砂である。
 田古が看板持ちのバイトから帰って来るのは決まって真夜中。午前零時を回っているから、星砂はいつも眠っているか眠った振りをしている。やすおはそっと部屋を去り、田古はちょこちょこっと水道で顔を洗うと、直ぐに畳の上にごろん。九月も下旬になると充分に涼しく、パジャマは長袖にしたし、毛布も欲しいところ。田古は新しい毛布を星砂に買い与え、自分は古いのに包まって満足げ。
 夜明け前、星砂がパンドラの夢にうなされはっと目を覚ますと、いつも虫の音と田古の寝息が聴こえ、時折り激しく降る雨の音もしていた。
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