(一)父

文字数 7,742文字

沖縄のひとりの少女と、或る友人に捧ぐ。

(一)父
 田古八男(たこはちお)四十六歳が親愛なる友人、やすおと着ぐるみマンに語ったところによると、田古の半生は大体以下である。但し何分田古本人が自ら記憶喪失者であり、且つノイローゼであると宣言していることから、その思い出語りの真偽の程は定かでなく、従って充分に注意されたい。

(一・一)夢国島
 なんだかね、やっぱり、沖縄から東の方角へ四百キロメートルばかし泳いでいくとって無理に泳ぐ必要もないんだけれど、海がそりゃもう青いからつい泳ぎたくなるんだ。で何だっけ、そうそう海、泳いで、最初にぽっかり浮かんでいる大陸が、夢国島というんだ。
 夢国島、知ってるかい。知るわきゃないよ、そりゃそうだ。ちっぽけな島だし、貧乏神が取り憑いてるし。なんだかね、やっぱり、ぼくなんか、その国で生まれたんだけれど実際。ところで貧乏神って知ってるかい、疫病神とは違うんだ。どう違うかって、なんか貧乏神ってのは実は大黒様って噂、だから良い神様だけど、疫病神の方は限りなくサターン、サターンってありゃりゃ。だからサターンからの攻撃を免れる為、ぼくなんかわざと貧乏な家のかあちゃんの腹を選んで、そこに宿ったという訳。訳、訳、訳、分かんないって、さあね。人生理屈じゃないっていうよ。
 生まれた時から男で、その癖内気。悪い奴になる度胸もないから、お人好しの振りしている。でもお喋りの訓練が足りなかったせいで口下手、それを気にして未だに無口。はあっ、良く言うよ、それを言うなら人見知り、ってそれだけ喋れば上等かもね、成ーる程成る程。でもなんだかね、やっぱり、ぼく自身は無口、無口、無口。どうしてかい。今お喋りしているのはぼくじゃないんだ。なんか喋らされてる感じっていうか、独りでに唇が動いてしまう。って誰に、だから貧乏神。
 そんな貧乏神にぞっこん惚れられた貧しい家から島に唯一つの学校に通い、中学を出してもらった後は、マグロ船に飛び乗って世界の海を股に掛け、太平洋、大西洋、インド洋と横断、縦断。気付いた時には肌はこんがり日焼けして、元々彫りの深い顔立ちだから黒人と間違われる始末。横須賀辺りを小粋に歩けば日本の娘っ子から英語で声掛けられるも、生憎意味が分からない。えっ同じ日本人なのにって、ああ勿体ない。
 そこでカサブランカでアメリカの船乗りに英語のついでに教えてもらったよ、ギター爪弾き、イングリッシュのラヴソング。ええ例えば、例えばって、うーん思い出せない、なんせ生憎記憶喪失……。あ、そうそう、じゃーん、一気にいくよ、ひなぎくのジェーンてAmericaの、JesseはJanis Ianで、A House Is Not a HomeがDionne Warwickだっけ、On The RadioはDonna Summer様様、Loving You by Minnie Ripertonさ、StillはCommodoresだね、Ribbon In The SkyそりゃStevie Wonderよ、New York State Of MindそうBilly Joelだ、えラヴソングじゃないって、硬いこと抜き抜き、お次がBridge Over Troubled WaterねえSimon And Garfunkelでも、Roberta Flackバージョンも悪くないべえって勝手にな、Mr.LonelyとくりゃBobby Vintonよ、MemoryこれはElaine Paigeさん、ま、こんなとこかな。でもどれもこれも歌詞長いから、唯一覚えられたのが、他でもないないYou Are So Beautiful。勿論何処いらのカバーじゃなくて本家本元 Billy Prestonと来たもんさ、でも上田正樹もわるくないかもよ、いえーい。
 そんなこんなで年中海の上に生存していたから、気付いたら二十三の独身で、父ちゃん、母ちゃんの死に目にもあえずじまい。心配した爺ちゃん、婆ちゃんの紹介で島の娘と結ばれたのが二十四。決め手は十八番のYou Are So Beautiful。夜の海辺で口遊めば、娘はうっとり、ぼくの腕の中。ううっ、いいね、妬けるね、この色男。名を美砂と言い、年は思わず頬も赤らむ二十歳、もうどきどき。
 だからなんだかね、やっぱり、ぼくは船を降りる決意をし、島で生きてゆくことに。だけど島にゃこれって産業もないから、美砂の実家のさとうきび畑を手伝いながら、貧しくとも清らかに細々と暮らしたとさ。
 畑仕事の最中はみんなでラジオ聴きながら、思いっ切り働いて汗びっしょり、そりゃ気持ちいいんだ。浜からの風が吹くとね、さわさわさわーっと、さとうきびの葉と美砂のなっがーい髪が揺れてね。そんな時は決まってラジオからラヴソングが流れていたかな、ううっ、堪んない。
 日が沈み、夜が訪れ、美砂とぼくは海岸に出る。夜毎美砂の耳元でYou Are So Beautifulを口遊めば、美砂の瞳がうるうると潮辛い涙で濡れたのは勿論、島に打ち寄せる波もすすり泣く。そんな潮風の中でぼくたちは激しくも切なく愛し合い、一年が過ぎると美砂のお腹に子宝。命授かり、暑い暑い八月の六日、ぼくが二十五、美砂が二十一の時、目出度く玉のようなって女の子には変だけど、娘が誕生したんだ、嬉し泣き。
 何て名前がいいかい、美砂ちゃん。美砂が言うには、わたしたちこの海辺で愛し合った。ほら見て、この海の砂、きらきらと丸で銀河の星の滴。それにも増して、見てよ、この子のくりくりした目。だから星の砂、星砂(せいさ)ってどうかしら、ねえ、あんた。どうかしらあって、そりゃもういいに決まってんべ、なあ、まったく。さっすがうちのかあちゃん、センスあるねえ、と来たもんだ。お前が美しい砂の美砂で、こいつが星の砂の星砂か、成る程。ぼくは文句の付けようもなくとっとと同意。
 星砂が生まれたその日の晩から、ぼくは美砂に向かって唄うのも忘れ、星砂に子守唄、唄って聴かせたさ。曲は勿論、これしかないよ、You Are So Beautiful。すると星砂はいい子になって、どんなにむずがる時も、どんな嵐の晩、海が荒れる夜も、不思議にぴたっと泣き止んで、にこにこ天使の笑い声、笑い顔して、はい、おやすみなさい、夢ん中。
 とまあ、貧しくはあれどささやかな幸いの中で、細々と営んでいたぼくたちの暮らし。そこへ多国籍バイオ化学メーカーだか何だかいう会社の営業が現れて、こいつあサソリのクローンを入れたさとうきびの苗なんだがね。うん、それで。だからベリベリストロングあるよ、どんな害虫にもどんな台風にだって負けやしないんだから。うん、だから。そ恐い顔しないで、ちょっと試しに使ってみてよ、ただでいいからさって、勝手に置いていきやがった。
 こっちは純情かつ無知なもんだから、へえ、こりゃ便利だねなんて気軽に使ってみたところが、さあ大変。その年のさとうきびは全滅。おまけに畑の土までやられちまって、草も生えやしない。うっそーっ、冗談だろおい、正に悪夢ーっ。困った弱った、このまんまじゃ一家揃って夜逃げか無理心中。どうしよう、どうすりゃいいんだ、父ちゃん、母ちゃん。
 なんだかね、やっぱり、愛する家族の為、仕方ないから泣く泣くぼくは、再びマグロ船に飛び乗ったのさ。いとしい美砂まだ女盛りの二十三歳と、まだ二つ切りの幼過ぎる星砂を陸に残し。それが二十七のこと。
 七つの海を股に掛け、星セントジョンズ、バミューダパンツじゃない海峡、そんなチャールストン、ホノルルるるる、そしてサイパンぱん、じゃジャカルタ、シドニーにに、おおオークランド、刑事コロンボ、ケープタウンち、リスボンぼん、バレンシアじゃ、レイキャビクくくくっ。アラスカでオーロラを見たよ、エスキモーと一緒に釣りしてさ、でもあそこら一帯はまじ寒がっただなーやって、それ当たり前。兎に角せっせと稼いで、せっせせっせと仕送り。世界中の港のポストマンで田古八男の名を知らぬ者はなし、て位、働いて働いて仕送りしたもんさ。
 でもなんだかね、やっぱり、そろそろ国、故郷が恋しい、かあちゃんのおっぱい恋し、娘にも会いたい。そんな里心がついたのが二十八。ってまだ一年じゃん、でももう駄目駄目我慢出来ない。そうなると居ても立っても居られなし。ぼく帰る、絶対帰るから、ひとりでも。って帰れる訳ねえよ、ここは船の上、どう足掻こうが海の上。最寄りの港はレイキャビクでござい。
 そこでこっそりと北極海で日本に帰港するタンカーと擦れ違いざま、水鉄砲じゃない無鉄砲、先方に飛び移ろうとしたのが運の尽き。うわあーー助けてーーっ。足を滑らせ、そのまんま北極の氷河の上へとまっ逆さま。あー、誰か助けて、死ぬ、頭かち割っちゃうよーーっていうか、その前に凍え死んじゃうかも、じゃない確実にそうなるよ。で意識朦朧、心朦朧、心もよう、寂しさのつれづれに……ってぼく唄ってる場合じゃないよ。
 意識を失い、何が何だか、生きているのか死んでいるかも分からないまま、ある時、はっと目を覚ますぼく。あれっ、すると目の前には見知らぬ人ばかり。ここは天国ですか。いいえ、違います。じゃあと話を伺うと、何でもぼくは頭血だらけで北極の氷の海を漂っていたんだそうだ。うっそだろうーーーっ。そこを救出され、一週間ずっと昏睡状態で生死の境を彷徨っていたのだという。まじかよ、でもまことなら、すっごいじゃん、もしかして奇蹟の生還ってやつですか。恐る恐る頭部を触ってみると、確かに包帯ぐるぐるのぐるぐる巻き巻き、なんだかね、やっぱり。
 頭部を打って気絶したのが功を奏したのでしょうか、凍死からも免れたようで、今生きているのが奇蹟な位です。まったく不死身の肉体と不屈の精神とをお持ちですね、はい。とか何とか、ぼくを取り囲む感嘆しきりの見知らぬ方々。多少イントネーションはぎこちないけど、日本語喋ってるから、やっこさん日本人かも。
 助けて頂きながら、ろくに感謝も出来ずに御免なさい、有難う。でここは一体何処なんです、皆さん方はどなた様。恐る恐る尋ねると、返って来た答えは何と、海上自衛隊の潜水艦の中ですよ。ほーーっ、自衛隊。世界広しといえども、自衛隊なんて持ってんのは日本だけ。しかも、ちょうど現在祖国への帰路の途上にありますです、とか。はあ、そうですか。祖国って言葉がちょびっとばかし気にはなるけど、この際気にしない気にしない。差し支えなければこのまま祖国までお送りします、だって。差し支え有る訳ないじゃん、まったく。それはどうも重ね重ねで有難う御座います。
 ところでお住まいはどちらですか。えっ、お住まい。ええっと、と考えるも思い出せない、頭ん中まっ白なぼく。分かりませんって答えると、相手は吃驚。げっ、じゃお名前は。名前位幾ら何でも分かるべさと思ってもやっぱり駄目、思い出せない。はあ、思い出せないって自分の名前をかよ、どうなってんの、ぼく。焦りつつも、やっぱり分かりません。すると流石の相手も、まじですか。正に今はいつ、ここは何処、わたしは誰状態。要するに早い話がって遅い話でも構わんけどさ一向に、詰まりは記憶喪失……ってこと、がーーん。潜水艦の中の沈黙は、陸上のそれよりも更に深く重く静かなのだと、その時初めて知るぼくだった。
 ま、それはさて置き、何はともあれ、先ずは祖国まで帰りましょう、治療はその後で。とは御尤も。何にせよ、ここは潜水艦の中、嫌だからって途中下車じゃね途中下艦する訳にもいかないし。祖国にていろいろと調査、精密検査も致しましょう。ほうそれは有難い、そうですね、ぼくも目一杯不安ですし。では祖国に到着するまで、今しばらくお休み下さい。はーい、有難き幸せ、ではお言葉に甘えて爆睡しまーす。って知らぬが仏、見知らぬ人々の見守る中、安らかな眠りに就くぼく。
 っな訳ないでしょ、記憶喪失なんだから。嘘だろ、思い出せぼくって、頭ん中は焦りまくり。目を瞑って眠った振りしながら、さあ、わたしは誰、焦んなくていいからゆっくりと思い出せや、と懸命、珍しくまじなぼく。失くした記憶を捜そうとしてひたすら意識を集中させ、脳内を訪ね歩く。どっかにぼくの記憶転がってませんかあ。
 だけどやっぱり何一つ思い出せない、駄目だまじで。そんな失意のどん底のぼくの耳に、まだぼくの枕元に付きっ切りの見知らぬ方どもの会話が入って来る。しかし、あれえ、なんか妙、日本語じゃないじゃん。ほにゃらら、ほにゃらら、ほにゃららら。むにゃむにゃむうにゃ、むにゃむにゃるるる。
 はあ、何だこいつら、日本人じゃないのかよ、まじやべ。確かにさっき祖国に帰るとは言ってたけど、日本に帰るなんざ一言も明言してなかったよね。何が海上自衛隊だよ、嘘吐き。でも日本語お上手あるね、みなさん。で心ん中はたらーーっと冷や汗。もしかして拉致……、どっきん、どっきん。どっかの国で洗脳されスパイとして養成され、祖国日本で諜報活動に暗躍する自分を想像するぼく。そんな、あほな。ここは記憶喪失のショックを一旦置いといて、こっから何とか脱出せねばなるまい。
 しかしまだ病人のぼく。思うに任せず、そのまま彼らの言う祖国とやらの近海に到着し、潜水艦はぶくぶくぶくっと上昇し、遂に海の上。やったーーっ、じゃなくてやばいです、はい。見渡す限りが予感通りの、そこは異国の軍港であったとさ。って呆然と立ち尽くしてる場合じゃないよ。さあ逃亡逃亡と、見知らぬ連中の一瞬の隙を突き、さっさと海に飛び込んだのさって鯛焼きくんか、ぼく。海の底目指し、ぶくぶくぶくっと何処までも潜って潜って、そこは火事場の馬鹿力。巨大なイソギンチャクの陰に身を潜め、巨大クラゲにへばり付き、何とか追っ手の目をくらませる。
 やつらの方とて、どうせ死に損ないの役立たず野郎と見切ったか、海ん中に二、三発砲弾かまして、はいお終い。ふう、良かった良かったと思ったのも束の間、海の上に浮き上がり、気付けば頭の包帯は何処へやら。見渡せば四方八方三百六十度一面青い海。ぎらぎらと照り付ける太陽、おまけに今はいつ、ここは何処、わたしはだーれ。唯一分かることは、ここが日本海ということだけ。それだけじゃ何の役にも立たねって。
 これからどうすりゃいいの、泣きっ面に蜂でいると、不幸中の幸い、都合の良いことに向うから大きな木片が流れ来る。それにつかまり限りなき青い空を見上げながら、おかーちゃーん、助けて、と絶叫。でも生憎そのおかあちゃんが誰なのか、思い出せない。どっと疲れに襲われて、木片にしがみ付き死んだように眠りに落ちる、てか。まじ死にたいよ、ぼく。
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……って、なんだかね、やっぱり、はっと目を覚ませば、そこは砂浜、打ち寄せる波音が続いている。どうやら何処かの海辺に漂着し、打ち上げられたぼく。見覚えがあるよな、ないようなって、あるわきゃないよ。でもなんか和風、松林とかあってさ。どう見ても日本っぽい、まじで。もしかしてと期待を抱きつつ、立ち上がろうとすれどよろよろ足に力が入らず、ばたっと直ぐに倒れ込む。そりゃそうだ、元々弱っている上に何も食べていない。うーっ、腹減った、何でもいいから食べたいよーーっ、なんか食わしちくりくり。
 けれど通り掛かりの祖国民たちはみな、倒れたぼくを冷たく避けて行ってしまう。ああ待って、見捨てないで、お願い神様。でもぼくの恰好、着てるものはぼろぼろで下着姿だし、いつ伸びたのか髪はロンゲ、髭もぼうぼう、痩せこけた体。これじゃ如何にも怪しい、浮浪者か危ないふう男。
 やばい、このまま飢え死にか。でも何だかんだでここまで生き延びたし、もう充分かも。こうして無事祖国じゃない日本の土を踏むことも出来た訳だしさなんて、妙に悟りの境地、境地、境地。あ、でもせめて永眠するその前に、念の為本当にここが日本なのかだけ確かめたい。
 そこで、倒れたままの姿勢で失礼ながら、ちょうど通り掛かった気の良さそうなひとりの老婆に声を掛ける。すいませーん、ここ、もしかして日本ですか。はあ、確かにここは日本だな、でも何だあんた。老婆は目を丸くする。こんな昼間っから海岸に寝そべったりして、いい若いもんが。ん、もしかして外人さんかい、あんた。遭難でもしたんかね。
 そうなんですよと洒落にもならない。でも良かった、やっぱり日本かあ。これで何も思い残すことなく死、ね、ま、す。では、と目を瞑るぼくに慌てたお婆さん。しっかりすっだな、あんた。と目の前に出してくれたのは、はい、まっ赤な林檎。くんくん、くんくん、いい匂い。匂いに引っ張られ生き返るぼく。いいんですか、こんな御馳走。いいから遠慮しねで食え。はい、では遠慮なく。林檎をかじると血が出ませんかとばかりに、思いっ切りがぶり。歯茎を血だらけにしながらの丸かじり。ああ、うめえ、生き返っただな。
 こうして林檎が縁で、元気になるまでその老婆、はるさんの世話に。と言っても食料や着るものを恵んでもらいながらの、海岸での野宿生活だけどね。あんた、どっから来ただな。はるさんに心配掛けまいと適当に嘘を吐く。北の方かな。北海道かい。ん、ま、そんなとこ。ぼくが漂着したはるさんの村は、青森県は雪別離(ゆきわかれ)という寂れた漁村だそうな。名は何ていうだな。ぼくの名かい。これまた口から出任せ、咄嗟に出たのが、田古八男。
 何だ、じゃその名前、偽名かよ、って。なんだかね、やっぱり、面目無い。ここだけの話、本名は洌鎌(すがま)雪雄っていうんだ、役所には内緒だよ。
 たこ八郎、あのたこ八郎かい、ボクサーの。でも海水浴してて溺れたんでなかったの。真顔で問うはる婆ちゃん。ちゃうちゃう、たこはちお。へえ、紛らわしいこったな。ファンだったんだよ。ああ、それでかい。
 とまあ、こんなふうにのんびりと、雪別離の浜辺で絶え間ない波音耳にしながら、はるさんとお喋りしたもんさ。でも一緒にいるとどんどん情が移っていくもんで、かと言っていつまでも世話になる訳にはいかない。はるさんには家族だってあるし、長居すればする程別れも辛くなる。
 そこで、お陰で体も随分回復したからと、断腸の思いでぼくは旅立つことに。あんれ、そりゃ寂しくなるだな。だどもたこちゃんもまだ若いんだし、もう一花咲かすだな。はるさんの勧めで、行き先は大都会、華の東京。涙ながらに雪別離駅ではるさんとさよならを交わし、ぼくの手には、いらないって言うのにはるさんが無理矢理くれた東京までの切符代。
 とは言っても、東京になど宛てはなし。年も幾つだか定かでないし、ま、三十歳前後だとは見当付くんだけれど、何しろ記憶を失ってからの空白期間があり過ぎて。でもまあ今更失うものは何もなし、いつ死んだってお構いなし。東京行きゃ何とかなるんじゃないって軽い乗りで、雪別離から青森、新青森まで乗り継いで、そっから新幹線で一路東京駅へ。
 ふう、ここまで一気にお喋りで疲れたよ、一服するかい。
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