第7話

文字数 3,208文字

 今日は中国人企業に行くと、社長の奥さんが子供を連れて来ていた。子供は小学生である。夫人が何か中国語で用事を頼むと子供は日本語で応えた。私が感心したのが、それが全くネイティブな日本語であった事。
 両親は中国人なので家でも中国語でしか喋らない。(というか会社にいる時でも中国語しか使わない)この会社にいる社員(全部、中国人)は客以外は日本語は使わない。実際、ネイティブな日本語ではなく、中国訛は隠せない。只、この子に限っては日本人と変わらない。まあ、幼児の頃から日本にいて、小学校も日本の学校なんだから普通だろう。私は
「この子は将来、世界を飛び回るかもね」と夫人に言うと、夫人はニッコリ笑った。

 友人のアメリカ人に英語がうまい日本人って誰? と聞くと「宇多田ヒカルはうまいよね」と言う。じゃあ、オノ・ヨーコは? と聞くと。「えっ? あの人日本人なの? 」って。
 言葉を覚える能力は頭の良し悪しではなく、センスだと外国人は口を揃える。しばらく話さないと忘れてしまうのも共通。よく話していると「あの人は昔、よく英語を話してたんだろうね」なんてお見通しのようだ。
 昔、私の子供にアメリカ人の友人が言葉を教えていて、恐る恐る喋る子供の言葉に「パーフェクト! 」と言うのだが、私には違いが分からない。「やっぱり子供の頃から教えないと駄目だよね。耳が違うから」という。
 外国に住んだこともない日本人教師が英語を教えても駄目って事だろう。「よく教会みたいな家を建てて、近所のガキに英語を教えている帰国子女がいるが、あれは最悪だな」って事には大賛同したが。
 
 旧約聖書で書かれている「バベルの塔」。天まで届く塔を建てようと始めた人間達に神ヤハウェは怒る。それまで同じ言語を話してコミュニケーションをとっていた人間たちが突然、違う言語を話し始めた為、意志の疎通が出来なくなり計画が頓挫するって話。国境をなくす努力以前に言語を覚える方が先だろう。中国人やロシア人は意図的に英語を使いたがらないが、中国人だと紙に漢字で書けば、ほぼ伝わる。漢字の意味は日本と大体一緒なので大丈夫だ。
 船員だった父が言うには「ポルトガル語とスペイン語は似てるしな、使っている国もそっちの方が多いんじゃないかな」
 まあ、アメリカが沈没してくれれば、そっちの方が公用語になるかもしれない。
 
 最近では猫も杓子も「やばい」って言葉をよく使う。元々、大昔から使われていて「あの人はアル中で頭おかしいからヤバイ人だ」とか「来月の手形落とせそうもないのでいよいよヤバイ」といった風に「まずい」よりいよいよ切羽詰まった場合に使われていた。それが最近では、それ以上の言語説明能力の無さを隠す為、何でもかんでも「ヤバイ」の一言で済ませるようになった。
 言葉は伝統とセンスの両面が備わってこそ成立するもの。本当にヤバイのはおまえらの知性だろ。
 
 最近ではすっかり英語風に歌ってもアホだとは言われなくなったが、あれは恥ずかしくて外国人には聞かせられねえなとずっと思ってきた。先駆けになったのは矢沢永吉がいたキャロルだろう。それからサザンなんかが出てきて、途中、中村雅俊が歌唱法を変えた時はゲロゲロと思った。
 キャロルはアメリカのロックンロールのコピーで英語の歌詞と日本語の歌詞のギャップを埋める為の策だと思われる。サザンはサザンロックに適当な日本語を乗せてやればいいじゃんって感じだったのだろうが、まさかあんなに売れるなんて本人達も想像してなかったのではないだろうか? まあ、コンポーザーとしての桑田氏の才能もあっての事だろうが、エリック・クラプトンを下品にしたような歌唱法は絶対ギャグであり、コミックバンドだとずっと思っていた。
 当時、ロックといえばサイケデリックだのインテリが好む洋楽と、対岸の火事であるベトナム戦争に起因する反戦歌やまったりとした日本語のはっぴいえんどや四人囃子に代表される醜男でも出来るロックだけであった。
 いくら長髪にしようが、思想を持ち込もうが、足が短く鼻の低い黄色人種である日本人にとって非情な現実がのしかかるだけだった。では、当時、不細工なミュージシャンしかいなかったか? と言うと、そんな事もない。桑名正博や頭脳警察のパンタ、チャーなんかもいた。これを見ても本当の美男は英語風には 歌わないのだと分かる。ちなみにジョー山中などのハーフもカッコイイなって事になり、沖縄出身のバンド、紫は全員ハーフだと宣伝された。でも沖縄の先輩に聞くと日本人だと言う。確かに顔はバタ臭かったのだが、ライブを見るとガニ股で足の短い沖縄県人そのものだったのでガッカリした覚えがある。
 
 そもそもアメリカの戦争など、どうでも良い対岸の火事なのだが、平和を様々な言葉に変え唱えたところで非人道的な奴だなと非難する人間はいない。常に正義は背にある訳で、おまけに金になると思ったフォーク連中には絶好のシノギと化す。フォーク歌手に容姿は関係ない。嫌、逆に不細工だからこそ信用もされ、リアリティが生まれる。
 それはその後、ベトナム戦争も終わってシノギの道を閉ざされたフォーク歌手が向かった四畳半ブームにつながる。
 赤ちょうちんに裸電球、貧乏人のカップルが四畳半でセックスに明け暮れるという妄想が不細工フォーク歌手の女言葉によって奇妙な至福感をもたらした。一生女にモテる事がないであろう童貞男子は夢と妄想を歌に重ねる。最初は不細工が何言ってんだよって思っていた女子達もそのうち「ああ、これは男子の求める理想形の女像なのね」と理解する。そこで不可欠なのはそのしみったれた歌に同感し涙を流す演技であった。ある意味、成就した瞬間である。

 そもそも始まりはウディ・ガスリーやボブ・ディランやPPM,ジョーン・バエズだったフォークもあの手この手で凌いでみたものの、結局はトラディショナルなカントリーやブルースなんかやっても受けないので、マイナーコードに演歌にならない程度の貧乏臭さを滲ませ悲壮感を求める事に終始した。(よくもまあ、ボロクソに書くもんだ)

 その後は生ギター一本の貧乏臭い音に飽きた日本に、ロックらしきものが根付き始める。サザンの良いところは決してルックスが良くないところ。そもそも大多数のティーンエイジャーをはじめとする若者は真面目に高等教育を受ける気もなく、異性といちゃつく事が至上の願いであった。思想なんて面倒臭いったらありゃしない。その波長がピッタリとあった瞬間、気がつけば周囲は似たようなレベルの異性ばかりではないか。何だ 簡単じゃん って事でサザンの歌は若者のバイブルとなる。美男美女といった選ばれた人間は必要ないのである。とはいえ、サザンが頭の弱い男女話に終始した訳ではない。時たま高尚な歌も作っていったので尚更尊敬されたんだろうが。
 天才女性ミュージシャンも存在するのだが、よく聴くと女は絶対反省してない。結論として、何かがうまくいかなかった場合、悪いのは時代や他人。決して自分だと落とし込まない。何でかな? と考えると子供を産んだり育てるのにクヨクヨしていては駄目だというDNA故ではないだろうか? 文豪の書籍に関しても同じである。是非、それを軸に読んでみると面白い。
 逆に男の文豪と呼ばれる人々はクズの集合体である。私は、物書きは金持ちの放蕩息子の成れの果てだと思っていて、社会的な地位や名誉が根本信じられない。でも男は必要以上に反省したり、暴挙に出たり、気が狂ったりして楽しませてくれる。そもそも読書家の皆さんのように忍耐力のない私は音楽の方が一〇〇倍好きである。だって本一冊読むのに二時間はかかる。 
 実はこれを書いてる最中、キンクスのアルコールをかけて酒を飲みながら書いている。だから滅茶苦茶なのだ
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み