第20話

文字数 2,941文字

 「フライドO田」

 1人の男が飛んでいた。
1人の男が落ちていった。
回転を加えたその男の動きに、あの日、僕たちは時が自然の理を超越する瞬間というものが確かに存在するのだということを、初めて知った。

 事の始まりは、3年生の時の6月のとある休日だった。
明け方まで降っていた雨の影響で、グラウンドがコンディション不良とのことで野球部の練習が中止になった僕は、O田、Y井、T島たちと釣りに出掛けていた。
バス釣りというものをするらしいが、釣り未経験の僕は他の3人の所作の見よう見まねで、ぎこちなく初体験の釣りに挑戦していた。
釣り場所は最寄駅から10個ほど南下した駅からしばらく歩いた某所で、そこには小さめの池があった。
釣りを趣味としていたO田とY井が率先して、我先にと慣れた手際で釣りを開始していた。
僕はその2人に使わなくなった釣り道具一式を借り、簡単なレクチャーをT島からひとしきり受けながら、釣りに挑んでいた。
 「カメラ回っているのですか?」と問いかけたくなるくらい、釣る気満々で手を変え場所を変え、忙しなく動き回っているアクティブなO田とY井を横目に、僕は2人の邪魔にならないであろう場所に陣取り、T島とおしゃべりなどをたしなみながら生まれて初めての釣りに興じていた。
正直初心者の僕の心境としては、終わるまでに1匹でも釣れたならラッキー、魚を釣り上げることより参加したことに意義があり、今回の集まりの空気そのものを楽しんでいこうよというスタンスだった。
それゆえに、必然的にマジ釣り勢のO田とY井、一歩引いて和やかな僕とT島という構図になっていた。

 釣りを始めてから30分、1時間と経過していくにつれて、O田とY井にはちらほらと当たりが出ていて、それぞれ何匹かずつブラックバスを釣り上げていた。
T島でさえ、むっつりスケベな猥談を展開しながら2匹は釣り上げていて、やはり僕は初心者だなと自覚し、「釣れないね」などとのたまいながら、若干飽きてきてもいた。

 1時間30分が経過した頃に、さらに釣り上げたいO田が、「ちょっと上にある店へ行って、食パン買ってきて!」と、鯉まで釣り上げようと決心したらしく、僕は言われるまま息抜きがてらに、餌用の食パンを求めて坂を上っていった。
なるほど坂を上り切った先、道路に面して小さな商店があった。
店内に入った僕は、O田に頼まれた食パンと人数分のジュースと、適当にお菓子など数点を買うことにした。
店を後にした僕は一足早く購入したカフェオレを飲もうと、ペットボトルの蓋を開け口に含んだ瞬間、「あっめえーーーー!!」と、申し訳程度に含まれたコーヒーの成分をはるかに凌駕した口内に広がる甘さに絶叫してしまい、信号待ちで停車していた自動車の運転手をひどく驚かせてしまった。
 池に戻った僕を待っていたのは、釣り場所を変えようと移動している最中の、O田の後ろ姿であった。
決して広くはない池の敷地内を、器用にスライムのようにすり抜けながら、O田は移動していった。
池の中央部から、見上げれば道路に接地している塀際まで来たO田は、そこから壁伝いに民家に隣接している、敷地内のぎりぎりの端の端へとヌルリーンと俺参上!!もといO田参上!!
O田がたどり着いたそこには、金網越しの民家を背にするように、気持ちばかりの狭さの草木が生い茂った極小の切り立った丘のような足場があった。
人1人が立っていられるのがやっとといった、本当に狭い足場だった。
 しかしこの日のO田ったら、とってもアクティブ。
モンキーならぬO田マジックで、その極小の丘の上にひょいっと降り立ったのだ。
戻って来た僕にようやく気付いて、手なんか振っていたO田。
釣竿を投じて水面に糸を垂らし、釣りを再開したO田、この後間もなく悲劇が待っていようなどとは夢にも思わずに。

 風が吹いてきた。
季節外れのいたずら心か、風が吹き抜けていった。
僕たちとは離れた位置に行ってしまったO田も、風を感じていたことだろう。
僕が風の吹き抜けていく先に目をやり、O田がいる丘の上に視線がたどり着いた時だった。
O田の足元に生えていた草が風になびいているなと思った瞬間、「ツルっ!!」「バッシャーーン!!」と、池の水面に大きな波紋が広がり水飛沫が高く高く舞い上がったのだった。
 落ちた!O田が池に落ちたのだった!!
実際の時間にして、それはわずか数秒の出来事だった。
だが、その現場に居合わせ一部始終を目撃していたY井、T島、僕にとっては、とても長い時間が流れていた。

 解説するとこうだ。
まずO田が風に煽られた、O田の足元がぐらついた、生えていた草と土のぬめりに右足を取られた、慌てて踏ん張ろうとした左足が空を切った。
そこから地球の重力には逆らえないままに、頭から池に向かって、全身が反時計回りに回転しながら、O田はドラマティックに池に落ちていった。
水中に沈んでいった際に盛大に水飛沫が上がって、水面の波紋の広がりが治まり始めたと同時に、ゆっくりと怪獣が水中から姿を現すかのように、池からO田が顔を出した。
 その一部始終が、本当に文字通りのスローモーション再生となって、僕たちの目の前でゆっくりと展開されていったのだった。
まるで数分間の体感時間で公開された超大作映画のようで、時間の流れをまったく無視したような錯覚を覚えたし、それに加えて1コマ1コマO田の落ちていく動作から表情に至るまで、いちいちバラエティーに富んだ動きや表情をしてらして、サービス満点の大満足。
見守っていた僕たち全員の誰もが確かに、自然の時の流れを無視して冒涜するかのような、不思議な時間の流れの中にトリップしていた。

 自力で陸地に上がったO田は、ずぶ濡れだった。
ただそんな自分の有様が面白くて仕方がないと言わんばかりに、しばらく笑い続けていた。
痛々しいO田の笑い続けている姿を、僕たちは見守ることしかできなかった。
ようやく笑いが止まったO田は、やっと我に返ったのか冷静さを取り戻したのか、一転してびっくりするくらい無表情になった。
すっくと立ち上がって、陸地にある岩に落ちていた木の枝を固定して、物干し竿代わりにすると着用していた衣服を脱ぎ始め、次々と枝にかけて干し始めた。
そして作業を終えパンツ一丁となったO田の表情は、まだ完全なる無表情のままで、草むらに体育座りをして、やたらと遠くの地平線のずっとずっと先を見つめだしたのだった。
あまりにいたたまれないし、気の毒だった。
だってついさっきまで、あれほど楽しそうに釣りをしていたじゃないか。
 僕は無言のままO田の元へと近づいていき、買ってきたスナック菓子の袋を開封して差し出すと、O田の肩を優しく叩くことしかできなかった。
するとO田は目に少しずつ涙を溜めていき、スナック菓子の袋に右手を突っ込んでポリポリ。
無表情のままの視線の先には一体何が映っていたのか、ただただ遠くを見つめ続けながら、スナック菓子をポリポリとかじっていた。

 もう誰も釣りどころではなくなっていた。
若き日の僕らが体感した、時を超えた不思議体験だった。
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登場人物紹介

僕(本田)・・・1997年4月から2000年3月まで参中に通い、ありとあらゆるトラウマを背負う。野球部所属。

Y下・・・同級生男子、野球部を通して出会った終生の親友。

O田・・・同級生男子。天然な性格で癒し系、僕の終生の親友3人衆の1人。

S木・・・同級生男子。プロ野球の知識が豊富な僕のプロ野球仲間で、終生の親友3人衆の1人。

T中先生・・・野球部の顧問であり社会科の教師。鬼の厳しさを持っており、僕は戦々恐々の思いを抱く。

M谷・・・入学式で倒れたところを僕が助けたがために、付きまとわれる羽目に。僕の参中での3年間の命運を、ある意味大きく握って狂わせた元凶たる同級性男子。

S倉・・・同級生男子で不良グループの中心的人物。何かと理不尽な暴力が絶えない人物。

O倉・・・S倉と共に不良グループの中核を担っていた同級生男子。一方的な肉体言語を持って、学内を闊歩している。

OS・・・同級生女子。僕が恋焦がれていた女子だった。

K田先生・・・ハゲ頭の音楽教師。個性的な強烈なキャラを持ったオッサン。

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