第28話

文字数 10,829文字

 「クラスマッチ 僕、万年Bチームの悲哀」

 参中時代、年に1度各学年ごとにクラス対抗の球技大会、通称「クラスマッチ」なるものが行われていた。
学年や年度によって取り組むべき競技は様々で、僕が卒業してから20年が経過してすっかり様変わりした今の教育現場では、果たして同様のイベントが行われているのかは定かではないが。
ともかく、僕が参中に在籍していた1997年度から1999年度の3年間は、クラスマッチが運動会とはまた別扱いで執り行われていた。
当時を回想してみて、学園もののドラマなどでよく見られるようなクラスを上げての一体感やイベントに対する盛り上がりがあったかというと、正直そこまでの熱気はなかったと記憶している。
もちろん参加している生徒の中には、自分の得意分野で長所を存分に発揮してクラス内での一躍時の人となるべく、人知れず闘志を燃やしていた野心に溢れていた連中もいたが、どちらかと言うとそれらは少数派に分類されて、大半の生徒たちは学内カースト・ヒエラルキーの中の自分の置かれた立場を自覚して、そこから逸脱しないよう心掛けて行動する賢明で臆病な立ち居振る舞いに終始していた。
あえてクラスマッチに参加する意義とは何なのか、そう考えた時に僕自身に置き換えるとはっきりとは言い切れないが、少なくとも大多数の彼らにとっては、将来的に付き合っていかなければならない社会人生活における人間関係の予行演習として、自らは決して目立とうとせず火種を起こさない当時の若者らしくない振る舞いを実践できたことこそが、答えと言えたのかもしれない。

 ちなみに僕の在籍していた当時の学年における年度ごとのクラスマッチの競技種目は、1年生の時が男子はキックベースで女子はバスケットボール、2年生・3年生の時は2年連続で男子がソフトボールで女子がバレーボールだった。
体格差や運動能力に差が出始める中学生であるから、各クラス男女に分かれてグラウンドと体育館を上手く使い分けて、1日掛かりのイベントだった。
当時の参中は各学年40名ほどの6クラスで構成されており、男女比はほぼ半々(若干男子の人数の方が多かったと記憶している)であったから、だいたい男子20名・女子20名を各クラス2チームずつのAチームとBチームに分けて、クラスマッチに臨んでいた。
1年1組男子Aチーム男子Bチーム、女子Aチーム女子Bチームという具合に、1クラスで4つのチームが編成されて、それが×6クラスだから男子12チーム女子12チームの合計24チームで、それぞれの競技にトーナメント戦の形を取って勝敗を決し、優勝を目指すシステムだった。
別に優勝したからといって豪華賞品が贈呈されるわけでも、内申点に手心が加わるなんてこともなく、閉会式で体育教師からの形ばかりの表彰と、数日間そのクラス内での話題の種になる程度のささやかな名誉が与えられるだけだった。
単なる中学校生活の中の1つの学校行事、そう言っても差支えのないイベントなのだ。
そう、リア充と不良連中などの力を有した者たちがそれなりに満足さえすれば丸く収まる、他と大差のないイベントの1つに過ぎはしなかった。

 僕は3年間、このクラスマッチではBチームに振り分けられていた。
というのも、参中でのクラスマッチでは、各クラス共Aチームにリア充連中や不良連中といったクラス内で力を持った者で編成されるという暗黙のルールが存在していて、その輪からはじかれた言わば残りかすでBチームは編成されるからだ。
そうなると直接的・間接的にM谷による周囲の生徒のイメージの下落に見舞われていた僕には太刀打ちできる術もなく、ホームルーム時に開催される出来レースと断言して大差のないチームの振り分けで、クラス内での人望も立場もない人間がBチームに問答無用で入れられることはどうしようもないことだった。
そのように決められたチーム分けの結果、各クラス共AチームとBチームとの間の戦力差は顕著となる。
何せAチームに振り分けられる面々は、学内クラス内のカースト・ヒエラルキーの高い生徒たちで、いつの世も決まってリア充や不良たちというのは往々にして運動神経が良い連中なわけで。
たとえクラスマッチの対象競技に精通していなかったとしても、持って生まれた運動神経が競技をする上での最低限のレベルをカバーして余りあった。
対する僕が振り分けられたBチームはというと、稀に人数的な制約でやむを得ずAチームからあぶれて回されてくる逸材はいたものの、まず間違いなく運動とは無縁の連中が過半数を占めて、3人運動神経が比較的良い生徒がいてくれれば御の字といった塩梅だった。
そしてさらに運悪くというか追い打ちをかけてくるというか、僕は3年間共所属したクラスのBチームのキャプテンに担ぎ上げられてしまい、目を覆いたくなるチーム力を率いて勝利を目指せと担任に無茶振りされては頭を悩ます、実にありがたくないイベントだった。

 開催前から多大なる暗雲が漂う船出で迎えた、僕の3年間のクラスマッチがどのような戦果となったのか?
 
 まず1年生の時のクラスマッチで戦ったキックベース、この時については大したドラマはなかった。
何故なら通常秋が終わりかけた初冬に行われることが基本だったクラスマッチにおいて、どう言った意図だったのか、5月に開催された影響も多分にあったと思う。
小学校を卒業したばかりの中学に入学してすぐのクラスマッチ、同級生のほとんどがまだ右も左もわからず戸惑いが拭い切れない早期の開催とあって、各クラス内の連帯感や一体感には程遠い中での戦いは、さすがに無理があったと言わざるを得なかった。
かくいう僕も訳が分からないまま競技に参戦して、球技大会というよりは単なる中学校生活の紹介的な意味合いが強いレクリエーションの域を出ない印象しか残っていない。
僕のクラスのBチームが何勝して何位だったのか、いくら記憶をたどってみてもまったく思い出せはしない。
唯一覚えていることと言えば、僕がいた1年4組のBチームの攻撃時に、M谷がボールを蹴ったら自分の顔に直撃して、その衝突音がとても鈍かったということくらいだ。
なので、1年生の時のクラスマッチについては、除外しておくこととする。

 2年生の時、僕は2年3組のBチームだった。
種目がソフトボールということもあり、曲がりなりにも参中野球部に在籍していた僕は、口に出しては言わなかったけれど、密かに優勝してAチームの連中の鼻を明かしてやりたいとの思いを秘めていたことは、完全に否定はできなかった。
ただ僕のチームを勝たせるにはどういう風にプレーして、采配を振るえばいいのかは非常に難しい問題だった。
クラスマッチを直前に控えた体育の授業では、一応予行演習として何度かそのチームでソフトボールに興じてみたのだが、どう贔屓目に分析してみても、まともに戦力になりそうなのは僕自身を含めても3人しかいなかった。
僕以外の野球経験者、この場合の経験者は野球部レベルということではなく、昔少しでも少年野球や町内のソフトボールチームに在籍していて、ルールを含めてさわりくらいなら何とかなりそうという、早くもハードルを下げた同級生のことを指す。
2年3組Bチームには、N松とK村がかろうじてその条件に該当していた。
あとのメンバーはほとんど野球やソフトボールは未経験で、おまけにM谷というお荷物付き、これで優勝しろとは担任もよく僕に言えたものだ。
それでも体育の授業での各人の動きやプレースタイルを実際に見てみて、1%でも勝率が上がりそうなポジションや打順の編成をするしかない僕は、頭が痛くなるばかりだった。
皆一様に打球が飛んで来れば避けるわトンネルするわ、捕球できたとしても送球が大暴投の連続。
ならばバッティングはと言えば、手の握りが逆、外野にまでどころか内野の頭も越せない内野ゴロの山。
ならばせめてチームワークだけでも強固にしてほしいものだったが、M谷という爆薬庫に火の付いたダイナマイトを背負ったカチカチ山を体現した1生徒が、わずかな希望さえも破壊するのだからたまったものじゃない。
外野を守らせれば打球を追わずに蝶に気を取られて狩猟本能に駆られていたり、自分の打順を待っている攻撃中には、日頃から何かと因縁が絶えないK村と毎度毎度因縁をつけて絡んでは反撃に遭ったりしていたM谷に、もう当日病欠してくれないものかと心底思っていた。
 というわけで、僕はN松とK村だけを戦力と割り切って、実質3人でよそのクラスに相対する戦術を組むしかなかった。
幸い1日ですべての試合を消化しなければならないため、クラスマッチでは1試合あたり50分の時間制限が設けられていた。
時間が来れば戦況にかかわらず、試合は強制的に打ち切りとなるため、先行逃げ切りに特化した打順を組んで臨むことにして、僕が1番、K村2番、N松3番、4番以降あみだくじというラインアップで、じゃんけんに勝てば先攻を選択した。
ちなみに2年3組は男子が23名で、そのうち僕のいるBチームは11人で戦うことに。
僕は当てにしていた3名以外の8名のどんぐりの背比べの中から、何とか長所とアピールポイントを見出して守備位置を考慮した。
K村がファースト、N松がショート以外、戦いになりそうな順番で残ったポジションを内野から優先的に埋めていき、外野を5人体制にする陣形を取った。
相手チームの放った打球が、外野の頭を越されてランニングホームランになるリスクを最小限に抑えるために、外野を通常の3ポジションに加えて、その背後にさらに2人を配することで分厚くしたのだ。
当然M谷は、打順は11人中11番、守備位置はセンターとライトのさらに後方深くに追いやり、貢献しなくてもいいからせめて足だけは引っ張らないでと願うばかりだった。
だがいくら慎重に慎重を重ねてみても、そう考えれば考えるほど相手チームの打球は外野へ、とりわけM谷の辺りに集中的に飛んで行ってしまうのは、運命のいたずらなのか試練なのか。
緩めの打球が一二塁間、二遊間をコロコロと外野にまで転がっても誰1人捕球できずに、すっかり死んで勢いを失った打球でさえトンネルして後ろに逸らし続けるM谷の壊滅的な運動神経を、僕は見ていることしかできなかった。
ちなみに僕はキャッチャーを守っていたが、それは僕以外にピッチャーが投げたボールを相手打者が構えた状態で捕球できる生徒がいなかったというだけだ。
なので打球が前に飛ぶ度に、お粗末過ぎる味方の守備をホームベース付近で見守ることしかできないのは、何とも歯痒かった。
 そのように我がチームの惨状が露呈する度、普通ならば試合は敗戦の色合いが濃くなっていくものなのだが、対戦相手も皆Bチームなので決して一方的な展開とはならず、こちらがミスをすれば相手もお付き合いするようにミスのお返しをしてくれ、気が付けば毎試合低レベルなシーソーゲームとなっていったのだから、ある意味でドラマティックなのだろうか。
とにかくお互いのチーム共、なかなか1イニングを完了させる3つのアウトが取れないのだ。
下手をすれば規定の50分が経過しても、まだ1回裏の攻撃中なんて体たらくもあり、サクサク進行しているグラウンドの対角線上で行われていたAチーム同士の試合とは、まるで異なる競技を行っているみたいだった。
泥試合に次ぐ泥試合を消化した我が2年3組Bチームは、僕たち数名の奮闘?によって何とか最後の試合に勝てば優勝というところまでこぎつけた。
最終戦を前に、僕たちのチームはじゃんけんで負けて後攻になってしまったため、戦略の変更を余儀なくされた。
1回表の相手チームの攻撃をできる限り少ない失点で防げさえすれば、一気に勝利が近付く。
初回の守備を短く終わらせて、その裏の僕たちの攻撃でなるべく時間をかけて、制限時間を使いっ切ってしまえばいいと判断した僕は、これまで外野に多くの人員を配置していたのをやめて、逆に内野手の数を大幅に増やして内野に打球が飛べば絶対に抜かせず処理できるようなシフトを敷いたのだった。
大胆な策に打って出た反動で、外野は2人だけとなった奇策が、吉と出るのか凶と出るのか?
 答えは凶と出た、それも大凶だった。
内野に多くの生徒を配置したため、内野のスペースが大渋滞を起こしたのがまず失敗の1つ。
続けてびっしり生徒を配置して打球の抜ける隙間を埋めたまでは良かったが、いざ自分のところに打球が飛んで来たら、隣り合った生徒同士がお互いに遠慮して譲り合ったりお見合いしたりする始末で、結局打球が外野まで転がっていってしまい、打者走者の一気の生還ランニングホームランを献上しまくってしまった。
極めつけは人口の密集によって、仲間意識が縄張り意識へと変貌してしまったことが最大の誤算と言えた。
特にM谷の周囲は非常にクレイジーだった。
M谷が守っていた二塁ベース付近を勝手にマーキングしたかのように居座り、そこに味方の生徒が入ってこようものなら身体を使って、文字通りの体当たりをして阻止しだしたのだった。
ソフトボールをプレーしているというのに、ましてや味方である存在からの暴力的で試合とは無関係な理不尽極まりない暴力を受けた生徒も、これには黙ってはいなかった。
もしも暴力を振るってきた相手がバリバリの不良たちなら、気弱なBチームの生徒たちもやり場のない怒りを覚えながらも堪えたことだろう。
だが相手がM谷とあらば忍耐なぞ不必要。
だって運動神経や身体能力に乏しい連中でも、闇雲になり振りさえ構わなければ、同じく虚弱なM谷であれば返り討ちにできる可能性は高いからだ。
事実先に手を出したはいいが、怒らせた相手にM谷はいいように倍返しされていた。
まあ端から見ている人間には、お世辞にも男同士の喧嘩には見えない、ヒステリーを爆発させた女子同士がジタバタしながら形式に囚われず掴み合い引っ掻き合っているいるだけの、無様な光景に目が腐るばかりだっただろうが・・・。
Bチームのキャプテンを任されたからには止めに入らなければならなかったのだろうが、僕はM谷たちを無視して打球の後処理のみを無感情にこなしていった。
だって、M谷にかかわりたくなかったし、もっと言うと触れたくなかったんだもん。
このM谷の暴走によって試合は荒れに荒れて、僕の描いていた試合前のプランは完全に崩壊して、1回表だけで試合時間のほぼすべてを消費した僕たちのチームは大量失点を喫して、1回裏の攻撃中にはとてもひっくり返せない反撃も制限時間に断たれて、見事な大敗・ボロ負けで敗退し優勝を逃したのだった。
何かと言えば因縁を付けたり、他の生徒の守備位置にまで乱入しては妨害したM谷は、裏のMVPと呼んでふさわしい活躍だった(もちろん完全なる皮肉である)。
よくもまあ、あれだけ他人と揉めたり争いを起こせるものだと、M谷1人に負けたとも言える2年生のクラスマッチだった。
当然この後、大乱闘に発展した僕たちの元に担任と体育教師がやって来て、激しくお叱りを受けたことは言うまでもないだろう。
特にキャプテンであった僕には、またしてもM谷の監督不行き届きという冤罪が科せられ、案の定真面目に授業を受けていたのに反して、体育の成績はびっくりするくらい低かった。

 3年生の時も、クラスマッチは前年に続いて男子はソフトボールをすることとなった。
そして毎年の決まりきった決定事項の如く、当たり前に僕はBチームで、しかもキャプテンという望まぬ肩書まで付いてきた。
そもそも僕という人間は参中の野球部内においても、おおよそキャプテンには不向きなタイプだった。
自らのプレーを見せて背中でチームメートを引っ張る素質と抜きん出た能力もなければ、言葉や発言で鼓舞していけるキャプテンシーも持ち合わせてはいなかった。
大人になっても未だにリーダーには向かない僕が、野球部員というだけでBチームという弱小集団と言えどもキャプテンに祭り上げられるのは、民主主義を大義名分にした権力と数にものを言わせた横暴であり、学校やクラスといったコミュニティーが生み出す理不尽の象徴だ。
誰も彼もキャプテンや各イベントごとの責任者には、本音を言えばなりたくはないのだ。
例外なく僕もそうだったが、指名を拒否できるだけの力も権力もないがために、またしても押し付けられるのを受け入れるしかなかった。
 3年2組Bチーム、それが参中生活最後のクラスマッチで戦うことになったチーム。
案の定と言うべきか、Bチームに振り分けられた同級生たちの顔触れは頼りなかった。
K谷とK畑の運動音痴のおデブちゃんK&Kコンビ、H本にOK谷などなど未経験かつ惨憺たる面々の日頃の体育の時間の珍プレー満載のフラッシュバックに、有終の美を飾るにはなかなか厳しいことは誰でもわかる。
M小在学中に同じソフトボールチームでレギュラーを張っていたN村と僕だけで、センスも技術も悲壮感が漂う個性だけが無駄に強いキャラクターたちを率いて戦えと言う。
相変わらずの無茶振りは例年通りだったが、参中での最後のクラスマッチとあってか、Aチームに所属している生徒たちは男女共に、妙に盛り上がっていたのはいささか意外な光景だった。
「優勝目指してクラス一丸(Aチームに入っているリア充たちだけ)で頑張っていこう!!」といった気風に満ち、高まった機運でクラス内の半数は占められていた。
残された半数の僕たちBチームの面々のモチベーションはさも通常運行で、優勝できるなどとは思ってもいない連中ばかりだった。
きれいに二分されたクラス内において僕は、どうせやらなければならないのなら勝ちたい、やっぱり負けたくないと思っていたが、やはり声に出して言えるはずもなく胸の内に隠しておくより他はなかった。
 体育の授業時間を使っての模擬試合の実戦でも、僕のやる気は空回りしそうな予感が早くも漂い続けていた。
最初は前年のチームだった2年3組のBチームよりはマシに思えた、数名の生徒を除いては。
そうK谷とK畑のK&Kコンビが大きく足を引っ張ってくれるおかげで、Bチームに割り振られた生徒たちが生み出した平均値を格段に落とし込んで、結果全体的なチーム力という点では前年と大して変わらないのだという事実を目の当たりにするまでは。
飛び抜けたセンスや技術がなくても、ごくごく一般的な中学3年生男子の平均的な運動能力が備わってさえいれば、K谷にしろK畑にしろ類まれなおデブちゃんの肉体があるのだから、バッティングだけでも期待できると思っていた。
だが彼らがソフトボールをプレーしている姿を初めて見た時、他の同級生を軽く凌駕できるはずの肉体的優位を、まったく発揮できずに活かせていないことに愕然とした。
軽くホームランを放り込めそうな巨体なのに、両者共打球の飛距離は内野フライがせいぜいで、そのスイングにはハエが止まって冬眠できそうでさえあった。
おまけにバットを振る、ボールを取る、ボールを投げるといった基本的な仕草1つ1つが、いちいちお嬢様のように女の子じみていて矯正不可能、というか見ていて殴りたくなってくる衝動が芽生えそうでイラっとしてしまっていた。
重量級の力士顔負けの外観の中身が、生まれて初めてソフトボールに興じたママさんソフトボールよりひどかったのだから、無理もないことだ。
とりあえずこの2人は、外野の奥の邪魔にならないところに追いやる英断を早々に下して、実質的に2人少ない状態で戦いの時を迎えたのだった。
 1999年12月、参中生活最後のクラスマッチが開幕した。
この頃には3年生の僕は野球部をすでに引退していたため、前日の放課後にY下たちと秘密裏に自主トレを敢行し、遠ざかっていた感覚を取り戻すことに精を出して臨んでいた。
1試合目・2試合目と、僕たち3年2組Bチームは辛くも勝つことができたのは、正直僕自身にとっても意外だった。
K谷・K畑・MG・H本による4者連続エラーが飛び出すなど存分に足を引っ張ってくれたが、相手チームのそれ以上の守乱・エラーのオンパレードが致命傷になることをカバーしてくれて、また僕とN村は毎打席打てばランニングホームランという、極端に偏って設定されたパワーバランスのレトロゲームのように、運を味方につけチームの守りの弱さを一部の生徒の打力で何とか補っての快進撃だった。
下馬評の低さを覆してのまさかの大健闘で、僕たち2組のBチームはいよいよ、3組との直接対決となる決勝戦を残すのみとなっていた。
 一方リア充や不良たちクラスの中心的生徒たちで構成されていた3年2組Aチームの戦いぶりは、戦前のやる気に反して苦戦を強いられ芳しくなかった。
僕たちが試合をしているグラウンドの対角線側、それも体育館や教室がある校舎棟に程近くで試合を戦っていたAチームの連中。
その対岸の、まるで隅に追いやられるように陽もあまり当たらない目立たぬ場所での試合を強いられていた僕たちよりも明らかに優遇されていたAチームの試合には、担任のI川先生を始め他の教師や、試合の待ち時間で手の空いている女子たちが常に集結していて、一喜一憂の声援が飛び交っては注目を集めて一体感を燃え上がらせていた。
僕たちBチームのところには、誰1人クラスの連中が駆けつけることはなかったというのにだ。
せめて担任くらいは、ポーズでもいいから関心を示して激励に来いよとも思ったが・・・。
クラス内に存在する明確な温度差を肌で感じた僕は、時折恨みがましい視線をグラウンドの対岸に向けていたのだった。
「くそっ、いいなぁ~あっちは盛り上がっていて・・・・。」ってね!!
早々に優勝の可能性がついえたAチームは、何とか3位決定戦には滑り込むことができた。
対して僕たちは勝てば優勝、負けても準優勝だというのに、相も変わらずクラス内での関心は薄いどころか皆無だった。
 試合の進行状況によってできたタイムラグの影響で、Bチームの決勝戦が行われているのとほぼ同時刻に、Aチームの3位決定戦が行われることになった。
つまりグラウンドの両端で2組の試合を行っていることになるのだが、取り巻く環境は雲泥の差だった。
Aチーム側は1球1球に黄色い声援が乱れ飛んでいるのに対して、僕たちBチーム側は完全に閑古鳥が鳴いていた。
対戦相手たる3組のBチームのベンチでさえ、担任教師や数名の男女のクラスメートたちが戦況を見守って声援を送っているというのに。
四面楚歌なグラウンド状況だったが、僕たちは大いに発奮して奮闘してみせた。
あれだけボロボロだった守備陣も、勝ち上がってきたことで多少なりとも自信が付いたのか、ミスは出るものの試合の明暗を分けるほどの傷口にまでは至らぬ粘りを見せてくれた。
攻撃面でも、打てないのならばボールを見極めて四球を選んで出塁するなど、僕にとってうれしい誤算と言える粘り強さを発揮して、3年2組Bチームのチーム力は強固になっていた。
試合はそのまま1点を争う攻防となり、1点ビハインドながら最終回に二死満塁の逆転サヨナラの大チャンスを迎えていた。
ここで打席に立ったH本は、これまで消極的でバットを振ることなく見逃し三振に倒れてしまう場面が散見されていたが、この場面は2球連続でバットを振っていた。
空振り2つで2ストライクに追い込まれてしまうも、バットに当たってさえくれれば何かが起こると、二塁塁上で走者だった僕は祈るように見つめていた。
運命のラストボール・・・・、だが結果は惜しくも空振り三振で試合終了、結局1点差で僕たちは敗れ優勝ならず、3年2組Bチームは惜しくも準優勝に終わった。
だが、クラスマッチが始まる前は皆さしてやる気もなくモチベーションも低かった連中が、最後はその瞬間に自分にできる最大限のパフォーマンスを各々が発揮して、まるで別のチームのように成長してくれていた。
僕はそんな姿を間近で見てきて、優勝できなかった悔しさよりもずっと清々しく、感動さえ覚えて不覚にも少しだけ込み上げてくるものがあった。
胸を張って教室に帰ろう、準優勝という結果にはさすがに無関心を決め込んでいたクラスの連中も、讃えてくれることを期待して。
 
 が、クラスマッチを終えて帰りのホームルームを控えた教室では、男女揃ってAチームの戦いっぷりの感嘆で持ちきりだった。
「打たれちゃったけど、KN田君のピッチングしている姿に感動しちゃった!!」
「TK内君、あの2ベースヒットすごかったね!!」
「N山君、超かっこよかった~!!」
どれもこれもAチームの話題で事欠かず、女子たちは黄色い声援で称賛し、男子たちは野太くも熱き青春のウェイウェイ言って盛り上がりまくっている始末。
そのような浮かれた熱気の中入室してきた担任のI川先生でさえも、僕たちBチームの準優勝よりも、Aチームの3位決定戦敗退についてばかり触れては労っていた。
そしてホームルームが終わり、クラスメートが続々と下校していっても、最後まで誰1人としてBクラスを讃えるどころか話題にする者さえいなかった。
人影が絶えるまで教室に残っていた僕はやけに重く感じる通学鞄を背負って、4組のY下と1組のO田と共に家路をたどったのだけれど、心は寒くやり切れない思いで満たされていって仕方がなかった。
 
 わっかっちゃいるけど、もうちょっと、もうちょっとだけでも何とかならなかったものだろうか?
人は群れを成さなければ生きられない、群れを作るには人を選り好む必要がある。
では、その群れから弾かれた人間はどう生きていけというのだろうか。
コミュニティーの形成者たちも、他人に優劣をつけることで自身に存在意義と居場所を見出していくもの。
結果的に僕がクラスマッチに参加した意義とは、自分を変えようと目的に向かってひたむきに努力して輝かしい成果を得ても、学内カースト・ヒエラルキーにおいて決めつけられたイメージや固定観念を払拭することは叶わず、「諦めなければ夢は叶う」という希望さえも容易く否定し打ち消されてしまういうことを、自らの肉体を酷使して心が大いに傷付けられて支払った授業料によって思い知れたことだけだった。
20年も昔の参中で世知辛い世の中の姿を、僕は改めて強く認識させられたイベントだったクラスマッチ。
クラスマッチという忌まわしげなトラウマの記憶が、拭い去れる日は来るのだろうか?
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登場人物紹介

僕(本田)・・・1997年4月から2000年3月まで参中に通い、ありとあらゆるトラウマを背負う。野球部所属。

Y下・・・同級生男子、野球部を通して出会った終生の親友。

O田・・・同級生男子。天然な性格で癒し系、僕の終生の親友3人衆の1人。

S木・・・同級生男子。プロ野球の知識が豊富な僕のプロ野球仲間で、終生の親友3人衆の1人。

T中先生・・・野球部の顧問であり社会科の教師。鬼の厳しさを持っており、僕は戦々恐々の思いを抱く。

M谷・・・入学式で倒れたところを僕が助けたがために、付きまとわれる羽目に。僕の参中での3年間の命運を、ある意味大きく握って狂わせた元凶たる同級性男子。

S倉・・・同級生男子で不良グループの中心的人物。何かと理不尽な暴力が絶えない人物。

O倉・・・S倉と共に不良グループの中核を担っていた同級生男子。一方的な肉体言語を持って、学内を闊歩している。

OS・・・同級生女子。僕が恋焦がれていた女子だった。

K田先生・・・ハゲ頭の音楽教師。個性的な強烈なキャラを持ったオッサン。

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