第22話

文字数 2,996文字

 「我が生涯、最高の一打」

 参中の野球部にて、紆余曲折を経つつ曲がりなりにもレギュラーを張っていた僕だが、残した成績というものはあまり芳しくはなかった。
試合ごとの打席結果をこまめに日記のように記録していた僕は、通算打率を1度計算したことがあったが、1割2分という驚きの数字であり、プロ野球選手であれば戦力外通告を受けて首を切られていても、決しておかしくはないものだった。
幸いだったのが、チームが強かったことだ。
エースのM岡とキャプテンT井のバッテリーを中心とした、強固なディフェンス力を誇った参中野球部は、守り勝つ野球で地区大会を制したこともあり、進学圏内の高校ではそれなりに高い評価を受けていたほどだった。
何しろ僕が下位打線でどれだけバットが沈黙しようとも、1点取れれば勝てるというチームだったのだから、軟式野球部と言えど得られる評価が高かったことは頷ける。
そのことは僕がとある私立高校に進学した際に、ぺいぺいの部員だった僕でさえ参中野球部の躍進によって、「強豪校から進学してきた注目選手」という評価で一目置かれていた実体験からも、明らかだった。
 ではそんな参中野球部で過ごした日々の中で、1番思い出に残っていることは何か?
卒業してから20年経った今、考えてみた。
地区大会を制した瞬間か、初めて試合に出た時か、練習中にO倉が乱入してきてしばかれた時か、思い当たるシーンはいくつもあったが、どれも決定打に乏しかった。
ならばと、自分自身の活躍したシーンにのみ焦点を当てて再考した結果、ある試合で打ったヒットのことが思い浮かんできた。
高校進学後に途中で野球をプレーすることを断念したあの日までを含めて、我が生涯最高のバッティングだったと断言できる、印象深いシーンがあった。

 3年生のある日のことだった。
その日僕たち参中野球部は、参中にN中学校を迎え撃っての練習試合を戦った。
試合開始が比較的早い時間だったため、7イニング制の試合を1試合戦い終えても、時間的にはまだかなりの余裕があった。
そのためT中先生と、N中の野球部顧問との協議の結果、もう1試合練習試合を行うことで合意に至り、ダブルヘッダーと相成った。
 1試合目を主力メンバーで戦い終えていた参中野球部は、2試合目のスタメンに何名かの主力を外し、代わってベンチ入りした控えメンバーを抜擢し、僕はというとありがたいことにこちらの試合でもスタメンで出場することになった。
1番センターという、普段とは打順も守備位置も異なる形での出場は少し新鮮だった。
相手のN中も、控えメンバーを中心としたスタメン構成だった。
お互いが一軍半のような戦力同士の戦いになったため、試合は結構荒れた。
日頃からスタメンで出場しているメンバーと、試合慣れしていない控えメンバーとの守備位置の間には、重力磁場が存在しているのかと思えるくらい、イージープレーとイージーミスが交互に起こって、実力差と経験値の差を示していっていた。
ここに飛べば大丈夫、ここに打球が飛んだらしっちゃかめっちゃかといった具合に。
比較的ロースコアな展開になりがちな中学の軟式野球だが、序盤から両チームのスコアは動き、接戦と言えば接戦、点を取り合った乱戦と言えば乱戦。
 事前に1試合プレーしていた僕は、珍しく軽やかに体が動き、センターの守備では苦手のフライの捕球も2度無事に処理するなど、レフトとライトの両翼を守っていた控えメンバーT石とO野がガチガチだったことも、僕の精神状態をリラックスさせ筋肉を躍動させることに拍車をかけていた。
一方で打撃の方は、3打席立ってさっぱりだった。
というのも、N中の相手投手は左投手で、しかも変則的なフォームから低速球と変化球を繰り出す、これまで対戦したこともないタイプの投手だったことが大きかった。
一般的に野球の世界では、左対左は打者にとって不利と言われているが、例に漏れず左打者の僕はその定説にまんまとはまってしまっていた。
ちなみに左打者が左投手を不利にするという説の考えられる要因としては、「右投手に対して左投手の数が圧倒的に少なく、対戦する機会自体が少ないから」「左打者にとって左投手が投げ込んでくるボールの軌道が、背中から入ってくるように来て視界から消えやすく捉えにくいから」など諸説ある。
この試合での僕が対戦したこの左投手は、加えて腕の振りがオーソドックスなオーバースローではなく、横からクロスするようなアンダースローに近い投法だったため、背中からボールが入ってくるわ、視界から完全に一瞬ボールが消えるわ、打ちにくいったらありゃしなかった。
しかも下手からボールが浮き上がってくる感覚になるので、打ちに行った僕の顎は上がってしまい、完全なるアッパースイングになるほどスイングとタイミングを崩され続けた3打席だった。
迎えた4打席目、打席に入る前にしびれを切らしたらしいT中先生がたまらず僕を呼び止めて、アドバイスを送った。
「本田ー!お前は完全に崩されて右足が開いてしまっているから、レフト方向に開かないように踏み込んで打てや!!」
相変わらずドスを利かせて巻き舌気味に繰り出されたT中先生の指示だったが、なるほどなと僕の目からはうろこが若干落ちていた。
T中先生のアドバイスを意識して、素振りを2回してから僕は打席に入った。
1球目外角に外れてボール、2球目低めだと思って見切ったらストライクを取られ、3球目はホームベース手前でワンバウンドしてボール、カウント2ボール1ストライク。
そして4球目、真ん中よりやや外角寄りにストレートが投げ込まれてきた。
ここだと、僕の眼鏡の奥の目が光った!なんてことはなかったけれど。
僕は右肩と右足を開かないように相手のレフト方向を目掛けて踏み込み、スイングしたバットがボールを捉えた。
軟式球特有の金属バットで打った時の鈍めの音を残して放たれた打球は、一直線に左中間方向に飛んでいき、相手レフトとセンターの間を完璧に割って飛んでいったのだった。
相手投手よりも相手守備陣よりも、参中野球部の面々よりも、打った僕本人が1番びっくりしていた。
打球の行方を見守りながら、50メートル走のタイムは平均的なのにベースランニングは妙に速かった僕は、悠々と三塁に到達していた。
3ベースヒット、それも逆方向にあれだけの打球を打てたとのは、M小学校の時にやっていたソフトボール時代を含めても初めてだった。
左打者の僕であったから、ライト方向へ引っ張った大飛球は何度か打ったことはあったが、左中間方向に打てるとは思ってもみなかったことで、三塁塁上で佇んだ僕の両手は少し震えていた。
野球を始めてから辞めるまでの数年間で、コースに逆らわずに力よりも技術で打てた、最初で最後の唯一のヒットだった。
 
 三十代に入り、もはや埼玉西武ライオンズの試合の観戦か、プロ野球ゲームをプレーすることがもっぱらの僕の野球人生となった。
野球を自分でプレーすることを引退してからも、数々の犯してきた凡ミスを思い出すのと同じくらい、あの試合の生涯最高の3ベースヒットを打ったシーンは、まるで僕の人生のハイライトだとでも言うかのように、鮮明にはっきりと心に刻まれているまごうことなき青春となっていた。
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登場人物紹介

僕(本田)・・・1997年4月から2000年3月まで参中に通い、ありとあらゆるトラウマを背負う。野球部所属。

Y下・・・同級生男子、野球部を通して出会った終生の親友。

O田・・・同級生男子。天然な性格で癒し系、僕の終生の親友3人衆の1人。

S木・・・同級生男子。プロ野球の知識が豊富な僕のプロ野球仲間で、終生の親友3人衆の1人。

T中先生・・・野球部の顧問であり社会科の教師。鬼の厳しさを持っており、僕は戦々恐々の思いを抱く。

M谷・・・入学式で倒れたところを僕が助けたがために、付きまとわれる羽目に。僕の参中での3年間の命運を、ある意味大きく握って狂わせた元凶たる同級性男子。

S倉・・・同級生男子で不良グループの中心的人物。何かと理不尽な暴力が絶えない人物。

O倉・・・S倉と共に不良グループの中核を担っていた同級生男子。一方的な肉体言語を持って、学内を闊歩している。

OS・・・同級生女子。僕が恋焦がれていた女子だった。

K田先生・・・ハゲ頭の音楽教師。個性的な強烈なキャラを持ったオッサン。

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