第26話

文字数 8,443文字

 「その後、M谷は・・・・・・・」

 参中時代の3年間、執拗に僕の後ろ15センチの距離で付きまとい、当時世間的にも認知され出したストーカーの走りとも考えれられるM谷という男子生徒。
入学式の日に倒れた彼を前の席に座っていたというだけで、保健室まで連れて行き介抱したことから始まった、悔やんでも悔やみ切れない因果で難儀な存在M谷。
だがそんな日々にも、やがて卒業という誰もが通る形で、僕は晴れてM谷の支配からの卒業を迎えることができた。
はずだった・・・・・・・。

 自分で言うのもなんだが、定期試験の順位では毎回学年の50位以内に必ず入っていた僕と、空欄と間違いだらけの試験結果に加えて、日頃のデンジャラスな素行も手伝ったM谷とでは、圧倒的な学力差と内申点の差とでも言うか、早い話進むべき高校への進路は雲泥の差となって表れた。
僕はそこそこ一目置かれる私立高校へと進学が決まり、M谷は運動部の実績は全国でも有数だが学力はそれほどでもない某高校へと進学していくことになった。
高校生活の始まりでただでさえ気分は高揚するのに、僕にとっての疫病神で貧乏神で特定危険生命体のM谷から解放されるとくれば、僕の前途はすべてがバラ色に見えるくらい輝いて見えていたのを思い出す。
僕は40分程度をかけての自転車通学で、M谷の通う高校の最寄り駅とも遠く離れていた高校に通いだし、もう2度と接触・遭遇することはないだろうと確信していた。
 ところがである。
人生というものは思い描いた通りには行かないのだと、16歳の高校生の僕は後に思い知ることになった。
というのも、僕が新たなステージにと選んだ私立高校が、まったくもって肌に合わなかった。
男子校の私立高校というカテゴリーだけがすべての原因ではなかったが、クラスメートとなった40名弱の生徒たちと、4月が過ぎゴールデンウイークが開けた5月が終わっても、誰1人仲良くなって友達になるどころか会話をすることもままならない、全然馴染めない日々が続いた。
また、高校という中学までの義務教育で尊重されていたものが通用しない土壌や空気の違いも僕の大きな足枷となって、6月に入る頃にはすっかり意気消沈してしまい、つい数ヶ月前まで通っていた参中での毎日が懐かしくてたまらない、思い出しては自分の導き出した選択肢を悔やむ悔し涙ばかり流していた。
 そんな中迎えた6月中旬、あるちょっとした事件が起こり、僕はこの私立高校に対してすべてを失望することになった。
その日、僕は朝から体調が優れずやまない頭痛と腹痛に我慢できず、授業を抜け出して保健室へ向かった後、そのまま早退する運びになった。
教室に荷物を取りに戻り、身支度を整えた僕がリュックを背負って自転車を押しながら校門に差し掛かった時だ。
ちょうどその時期、何かの強化月間だったようで、校門には生徒指導のいかにもな体育会系の教師が1日中常駐しており、早退しようと通りかかった僕は呼び止められた。
「こんな時間にどうした?」から始まったこの生徒指導の教師の問答は、激しさを増していくばかりで終わる気配がなかった。
僕はこの当時「参中シック」気味でただでさえナーバスな精神状態であったし、体調も悪かったので一刻も早く家に帰りたかったので、しんどそうに早く切り抜けようと受け答えした。
だが、どうやらそんな僕の態度が、この教師にはひどく気に入らなかったようだ。
強引に突破して自転車に跨ろうとした僕の胸ぐらを掴み、敷地内に引っ張り込まれるように連行されていった僕は、激しい罵倒を受けてしまいには「殴るぞ!!殺すぞ!!」と恫喝されたのだった。
校門付近で騒ぎになりつつあった事態に、受付の事務員から僕の担任教師へと連絡が入ったらしく、担任が仲裁に入って何とかその場は収まりかけたのだが。
僕も僕で、一方的に怒鳴られ続けることに耐えられず、3ヶ月近く溜まりに溜まっていたストレスや様々な感情が爆発して反撃に転じて食って掛かってしまったので、2者間だけで始まった口論が、担任と学年主任をも巻き込んでの騒動へと発展していった。
結局その日は僕は早退したのだが、家に帰って仕事から帰宅した両親にこの日の出来事を話したところ、共に教師である両親が今度は激怒してしまい、後日日を改めて生徒指導の教師の不適切な言動に対して、話し合いの場が持たれることになった。
数日後の土曜日の午後、僕は両親とともに校長室に通されて、間に校長と担任教師を挟む形で、問題の生徒指導の教師と学年主任と向かい合って対峙した。
両親は同じ教師としての立場から、あの日僕に向けて振るわれた暴力や暴言はいかがなものかと、主張抗議していったのだが、対立する当該の生徒指導の教師は、「そもそもそんな言動は一切取っていない、彼(僕)の妄言だ」と言い放ちやがり、学年主任に至っては保護者と相対しているのにもかかわらず横柄に椅子にふんぞり返るような姿勢で、「彼(僕)の普段の学生生活での態度や、ひいては家庭での教育に問題がある」などと、論点をすり替えて問題そのものをうやむやにして鎮静化させようとする始末で。
1時間ばかりの話し合いで、双方の主張は平行線をたどり続け、最後は僕の両親が学校側の主張や姿勢にあきれ返ってしまうという、実にひどい話し合いの場となってしまった。
僕は何だか無性に悔しくて情けなくて、その帰り道に両親と一緒に入ったファミリーレストランでの遅めの昼食で、涙を堪え切れずに口の中がしょっぱい味に満たされながら食べたランチの味が、未だに忘れられないでいる。
 そんなこともあり、両親もこの私立高校に見切りを付け、僕自身も学校に通う意欲が日に日に弱っていっていたこともあり、1年間だけ定期的に欠席をしながらも我慢して通って単位を取得し、2年生からは定時制の高校へ転学することになった。
参中を卒業して1年も経たない頃、僕はまさかの2年連続の受験勉強をすることになり、緊張と不安の中、志望していた定時制高校に無事合格し、文字通りの新たな高校生活を迎えたのだった。

 2度目の高校入学を果たした僕が通いだした定時制高校は、大学のように前・後期制、単位制で、午前中のみの授業の昼間部と夜の授業のみの夜間部があり、半年に数回の出席と課題のレポート提出後に試験を受けて単位を取得する通信制で構成された、多岐に渡ったスタイルの学校だった。
僕は定時制の昼間部と通信制を合わせて選択し、前の私立高校で取得した単位と合わせての最短での卒業、つまり参中の同級生たちと同じ時期に卒業することに決めた。
一般的な高校と違って、定時制高校は小規模な大学のイメージで、融通が利き自由な時間も確保しやすいというメリットがあった。
僕が選択したコースは、朝は一般的な高校と同じ始業時間なため、多種多様な制服を着込んだ高校生が占める電車に、制服がないため毎日私服で混じって乗っていた。
同じ高校生であって高校生でないとでも言うか、自分が同世代の少年少女たちとは、似て非なるイレギュラーな存在に思えてきて、少し複雑ではあったが概ね順調な日々を送っていた。
 
 前の私立高校には自転車で通っていたため、僕にとっての初めての電車通学の新鮮さにもようやく慣れてきた4月下旬、いつもの時間よりも1本遅い電車に揺られていた車内で、僕は奇妙な視線が向けられていることを感じた。
それは高校生でごった返す車内において、同年代なのに私服姿、おまけにオールバックにセットしたヘアスタイルにひげを蓄えた僕の外見的特徴に向けられた、お馴染みの奇異の視線とは明らかに異なる、どこか懐かしくもあり、でも言いようのない不快感を感じずにはいられないものだった。
何だろう?と気にはなったが、決して振り返ることなく当時主流だったMDウォークマンのボリュームを上げて、素知らぬ顔を決め込んでいた。
やがて上りの電車は終着駅に到着し、僕は乗り換えのためにターミナル駅の構内や階段を移動してみたが、不思議なことにその視線は追跡するようにまとわりついて来て離れない。
きっと気のせいだと、朝のラッシュ時による大混雑が巻き起こす錯覚なのだと自分自身を納得させて、たどり着いたホームにタイミングよく入線してきた電車に乗り込んだ。
ここから2駅の短い距離、高校の最寄り駅までの道のりを車内に掲示されている路線図を見上げながらなぞっていた。
そのままものの数分で僕が降り立つべき駅に到着して、ホームに降りて改札を出たところで、何者かに声を掛けられたような気がしたが、僕の耳にはウォークマンのイヤホンが装着されているから、そこそこのボリュームのある音しか聞き取れない。
僕は気に留めることもなく、駅の入り口に面した商店街のアーケードに足を踏み入れようとした。
がしかし、まさに今人類が月面に最初の1歩を踏み入れるかのそのタイミングで、僕は背後から肩を叩かれた。
振り向いてその主の正体を確かめるより早く、僕の本能がかつて何度も体感した既視感を感じた。
嫌な予感しかしなかった、重ね着したシャツの布越しでもはっきりと感じられる、ナメクジが這った後みたいな身の毛もよだつ粘着質な感触。
ゆっくりとスロー再生のような動きで振り向いたそこに、笑顔満開トラウマ満載のブレザー姿のM谷が立っていた。
僕は予想だにしないまさかの遭遇・再会に驚きと動揺を隠せなかった。
だが、空気がパンパンに入って膨らんでいるお祭りの屋台で買った綿あめの袋に描かれたイラストが、時間の経過とともにしぼんでいき、くしゃくしゃなもはや原形をまるでとどめなくなったイラストのキャラクターの切ない笑顔みたいな、笑うと気持ち悪く変形させる顔、間違いなく見紛うことなくM谷以外の何者でもなかった。
わずか1年ほどの空白期間では、忘れることなんてできはしない、トラウマM谷とまさか再会してしまうことになるなんて。
うかつだった、受験に転学とバタバタしていたこともあってすっかり油断していたが、何を隠そうM谷が通う高校の最寄り駅が、僕の通いだした定時制高校と同じだったのだということを。
この先の人生で死ぬまで2度とかかわることはないと確信していた、M谷との利用駅が同じという残酷な事実。
それは同時に泣きじゃくっていた幼子が、おもちゃ与えられたらすっかり気に入って執心し、片時も手放さなくなるのと似た、これからM谷による僕に対するストーキング生活第2章が幕を開けることを意味していたのだった。
 それから高校を卒業するまでの2年間、登下校の折に駅を利用する際、僕は毎日ドキドキビクビクしていた。
帰りに関しては、僕の場合午前中のみの授業の日は遭遇は回避できるだろう。
問題は登校時だ。
案の定、僕は始業時間に間に合う範囲で、決まった時間に電車には乗らず、微妙に毎日乗る時間をずらしてみたけど効果はあまりなかった。
不規則にしたタイミングが偶然会ってしまって同じ電車に揺られるか、電車では同乗しなかったが駅の正面入り口で待ち伏せされているかのどちらかだった。
別に参中時代と異なり、目的地の通う高校は別々なのだが、そんなことは問題じゃなかった。
たとえわずかな時間でも、毎日のように朝1番でM谷の顔を見て目が腐ってしまい、M谷という存在と接触遭遇することで1日の始まりがブルーになって、ネガティブな気持ちを引きずったままその日1日を台無しにされてしまうことが大問題なのだ。
こんなにブレザーが似合わない奴いるかと問いたくなる姿をした、M谷の新たなストーキング戦法にさらされる度、僕の心は萎えてくたびれ疲弊していた。
時間にしてみればわずかな時間なのだが、その分M谷成分が濃縮還元されたように、とにかく朝からくどいし濃いし、しつこいし気持ち悪いったらなかった。

 登下校時以外では、悲運の再会を果たしてからというもの、毎年M谷から元旦に年賀状が送られてくるようになってしまった。
20年近く前の話だから、携帯電話も1人に1台普及するのがやっと一般的になった当時で、「あけおめことよろメール」での新年のあいさつはあったれど、まだまだ年賀状を送る習慣が学生たちにも色濃く残っていた時代だ。
また当時は現在のように個人情報の管理意識が働いておらず、中学の卒業アルバムや卒業文集などには、堂々と卒業生の自宅の住所が掲載されていた。
だから直接的に住所を教え合い年賀状のやり取りをしなくとも、その気になればいくらでも無許可で一方的に住所を入手できたし、年賀状などの郵便物も送ることが可能だった。
おおらかな時代と言えば聞こえはいいが、現代の少年少女や保護者の方々からすれば、信じ難い時代の中で僕たちは青春時代を過ごしていたのだった。
だもんで、ありがた迷惑否、いちごばりに迷惑100パーセントなM谷からの年賀状は、2002年の元旦以降途切れることなく今日に至るまで、毎年送られてくる羽目になった。
家族宛てのものと一緒に束になった膨大な年賀状の中でも、一目でわかってしまうくらい異彩を放ち生温かいM谷の年賀状。
いざ手に取ってみれば、まず字が汚い。
書いてある内容が意味不明で、受けを狙っているのかM谷なりのユーモアセンスを披露したいのか、写真や画像を切り取って貼ってあったり、妙に凝った怪文書を書いてあったりしたが、かえってそれが痛々しく寒いのだから手に負えない。
そもそも文字が汚すぎて、オチを理解する以上に全文を解読することが毎年不可能だった。
故に、書かれている内容を正確にここに列挙できないのが口惜しい。
 メールや携帯電話の文化の発達や、同級生たちの経年変化も手伝って、年を重ねるごとに僕に届けられる年賀状は減っていったが、M谷には関係ないね!
僕からお返しの意味を込めた年賀状を送ったためしはないというのに、M谷のくだらない年賀状テロはフォーエバー。
僕がタバコを吸うようになってからは、M谷から送られてきた年賀状にほとんど目を通さずに、届いたと同時にそのまま室外にて、吸い殻入れの中に火を着けて毎年燃やして葬っていたのは、ここだけの話だ。
1度M谷に住所を知られてしまったら、実家を引っ越しでもしない限り、未来永劫僕のいるいないに関係なく、M谷によるM谷のための年賀状テロは続いていく。
 追伸。
若かりし頃の僕は1度、「君と僕とは決定的に合わない。だから年賀状を含めた連絡接触を今後一切断つことを希望する」という旨の内容を書いたはがきを、年末を間近に控えたある年に送ったことがあった。
だが、効果はなかった。
なかったどころか、はがきいっぱいを文字で塗りつぶすように書かれた、呪いの呪文みたいな真っ黒な年賀状が直後の元旦に送られてきた。
やっぱりダメだ、何て書かれていたのかまったく読めないくらい、汚い象形文字でびっしりの年賀状を見るにつけ、大人になるって物事を諦めていくことなのだろうかと頭を悩ませた僕だった。
何度でも言おう、興味を持たれたら最後、M谷は狙った獲物を決して諦めはしないのだと。
ちなみに、近年では僕に送られてくる年賀状は、メガネ屋とスーツを昔作った紳士服の店と、M谷から懲りずに送られてくる3枚だけになっている・・・・・。

 年賀状の件はさておくとして、定時制高校を2年間で卒業した僕は、M谷との直接的な接点はなくなって今に至る。
その間に同級生や未だに交流が続く友人たちから得た情報の数々を総合すると、M谷は実家暮らしを続けており、至極当然の事実として独身のままなのだそうだ。
かつてヒトラーの遺志を継いで独裁者として世界をひっくり返すという妄言を吐いていたM谷は、何を血迷ったのかどこで改心したのか、介護関係の仕事をしているとの情報も入手した。
 親友Y下の証言「結婚して引っ越した新居がM谷の実家の近くで、度々見かけたことがある。髪はボサボサで売れない芸人のようなさびれ具合だった。子供と出かけている時にすれ違ったことがあったが、M谷が向こうからやって来るのに気付き、瞬間的に俺は子供の手を引いて自分の身を盾にして、近付いてはいけない見てはいけないと守っていた。幸いにも俺たちの存在に気付かなかったようだが、あれはヤバい。」
 同級生HR田の証言「駅前を歩いていた時、交番の前にいるM谷を見た。M谷は交番の掲示板に貼られている指名手配犯のポスターを熱心に見つめていた。汚いひげ面だった。外見からも内面から放っているオーラからも、M谷の方がよっぽど凶悪犯のように思えた。」
 同級生K山の証言「近所のスーパーですれ違った。僕に気付いたみたいだったけど、無視した。長く伸びた鼻毛が大量に鼻から出ていた。唇に海苔が付いていた。」
 同級生N尾の証言「数年前の同窓会に、誰も呼んでもいないのに来た。友達のS村ちゃんの首を絞めていた。私に近付いてきた時、顔と全身からどぶ川みたいな匂いがして耐えられなかった。」
これらの僕が入手したM谷の情報を総合的に判断するに、進化と呼ぶべきか退化と断ずるべきか、やはり天上天下唯我独身のM谷は総じて疎まれ歓迎されていないことがうかがえる。

 そしてその情報の真偽を、僕も身を持ってごく最近この目で確かめることとなった。
僕は体調を崩した約10年前から、月に1度心療内科に通っている。
幸い体調は回復し、ここ最近はずっと安定しているのだが、用心のための通院で胃薬と整腸剤をもらっている。
 2ヶ月ほど前だろうか、いつものようにクリニックにやってきた僕は、診察券と保険証を提示して受付にて順番待ちの用紙に、自身の氏名を記入していた。
が、記入し終えて用紙を挟んだバインダーを所定の位置に戻そうとした時、偶然用紙に記入された順番待ちの患者の名前が目に入り、僕は心臓が止まりそうになって驚いた。
僕の6人前の記入欄に、「M谷」の名前が記されていたからだ。
フルネームがぴたりと一致していて、その筆跡も年賀状などで昔から見覚えのある汚さに酷似していた。
僕は急速に早まった鼓動を鎮めようと胸に手を当てながら、いやいやきっと同姓同名だろうとポジティブな思考に切り替えようと試みた。
だって考えてみろと、M谷は他人の精神を病ませることはあっても、自分の精神が病んでしまうような繊細さなど皆無じゃないかと。
だから同姓同名の、気の毒にも心を少し病んでしまわれた方が通院されているのだと。
そのような心の揺れ動きがあり、受付からついたてで仕切られている廊下を歩き待合室へと向かっていった。
1分もかからない距離が、まるで地獄への審判に続く分かれ道のように思えた。
 待合室には数脚の椅子とソファー、そして小さめの畳が敷かれた和室風な空間がある。
それらのスペースの中央にあるソファーのど真ん中に、しかしどっかりと腰を下ろしたM谷が座っていた。
髪はスポーツ刈りを1年以上放置しているくらいのボサボサで、オシャレさは微塵もない。
遠目からでもはっきりわかるほどに鼻毛が伸び盛り、口の周りの無精ひげと同化している。
肌は腐ったチーズとボロボロのスポンジを足して2で割った質感、Tシャツはシワだらけで所々穴が開いているし、ミリタリー系の迷彩柄のズボンを履いているがベルトは何故か白いゴム紐。
僕は入り口付近でいち早く立ち上がりかけているM谷が、あのトラウマ爆薬庫のM谷本人がいることに気付き、嘆くことも疑問を呈することもするよりも先に足が勝手に動き出し、受付へ向かってUターンした。
この反射的かつ本能的な行動が功を奏して、どうやらM谷に見付かる前に、接触することを阻止することができた。
本当によく動いてくれたものだ、我が足よ。
受付に舞い戻った僕は看護師に向かって、「急に仕事が入ったので、今日は帰ってまた出直します!!」と早口ででっち上げのウソを宣言すると、診察券と保険証をひったくるようにして脱出してきて、まさに危機一髪だった。
どういう理由や症状でM谷が来ていたのかは知る由もないが、あの場でもしも僕も同じクリニックに通院していることを知られたりしたら、足繁く通われての接触を試みられるか、診察時間中待合室で張り込まれ続けるか、一体何をされるかわかったものじゃない。
 その日から2度ほど通院した僕であるが、M谷が来ていた曜日や時間帯は絶対に避けようと心に決め、次回の通院でも遭遇しませんようにと祈ることしかできない。
これから毎月、M谷に遭遇してしまうかもしれない危惧を抱きながら、通院しなければならないのかと考えると、途方もなく心が重く真っ暗になる。
いっそ別のクリニックに変えようかなと、真剣に思案している今日この頃である。

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登場人物紹介

僕(本田)・・・1997年4月から2000年3月まで参中に通い、ありとあらゆるトラウマを背負う。野球部所属。

Y下・・・同級生男子、野球部を通して出会った終生の親友。

O田・・・同級生男子。天然な性格で癒し系、僕の終生の親友3人衆の1人。

S木・・・同級生男子。プロ野球の知識が豊富な僕のプロ野球仲間で、終生の親友3人衆の1人。

T中先生・・・野球部の顧問であり社会科の教師。鬼の厳しさを持っており、僕は戦々恐々の思いを抱く。

M谷・・・入学式で倒れたところを僕が助けたがために、付きまとわれる羽目に。僕の参中での3年間の命運を、ある意味大きく握って狂わせた元凶たる同級性男子。

S倉・・・同級生男子で不良グループの中心的人物。何かと理不尽な暴力が絶えない人物。

O倉・・・S倉と共に不良グループの中核を担っていた同級生男子。一方的な肉体言語を持って、学内を闊歩している。

OS・・・同級生女子。僕が恋焦がれていた女子だった。

K田先生・・・ハゲ頭の音楽教師。個性的な強烈なキャラを持ったオッサン。

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