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 奇妙にもその先も円高が連日にわたって続いた。当初はその理由がまるでわからなかった。しかし数日後にそれらしき報道が流れた。
 それは「オクノミクス3・0」なる新しい経済構想を、奥野総理が近々発表すると予告するニュースだった。しかも事前にそれがリークされていた、と塚本たちは推測した。だから急な円高を引き起こしたのだ。
 オクノミクスには、すでに「ニッポン総活躍社会」を目指すという「2・0」もあって、子育てや社会保障なども包含する構想に拡大されていた。しかし「総活躍」に自分も動員されていると認識する国民はほぼ皆無に近かっただろう。
 今回の「3・0」構想では、人気取りのために子育て支援なども継承しつつ、通称「令和高成長会議」を設置するプランが目玉になっていた。新興国との協力を大胆に強化することによって、その成長力を取り込み、「新たに歴史上かつてない高成長」を達成するという新目標を掲げたのだ。
 その真に意味するところを塚本たちはなかなか見抜けなかった。しかし経済紙のある記事が伝えたところでは、「円高政策へ歴史的転換へ、新興国との協力強化」が、その根本政策を要約する見出しだった。それもおそらく奥野総理の周辺からリークされた見方だろう。
 根幹となる方針を要約すると、新興国への投資を強化して、さらなる協力を強化したいが、そのためには「円高が必要だ」と、奥野総理が発想をすっかり転換させたらしいのである。
 それは彼が得意とする政治手法にすぎず、金融市場への単なる口先介入同然だったのかもしれない。しかしこのところの市場はそれに素直に反応した。しかも円を大量に売り持ちしていた投資家たちが、損切りのために、円を高値で買い戻さざるをえなくなり、その動きを巻き込んで、当面はまだ円高が続きそうだったのである。
 塚本はそんな為替市場の動向を容易に理解できたが、小難しいことなどわかる必要はない。要するに、政府が円高だと言えば、そんな政策を約束したという意味だから、市場で円買いが進むに違いないのだ。
 それにしても、奥野総理は会議ばかり設置したがり、すでに幾つあるかわからないほどだ。さらに屋上屋を架した会議を設置して、果たして「かつてない高成長」など生み出せるものだろうか? 具体的な中身が極めて乏しいようだった。
 奥野総理にはブレインが何人もいる。しかも彼らの動きは素早い。日中首脳会談が最大級のピンチだとなれば、その夜のうちにも対策案をひねり出したようだ。ただ彼らは異端ともいえる少数の経済学者で箔付けしたがる傾向があるし、目先を取り繕う〝やっつけ仕事〟にすぎないことが多く、その政策案は品性も幅広い配慮も欠いていた。
 それでも株式市場では輸出産業の株価が上がったし、投資をキーワードとして銀行株も活況化した。しかも内需型企業もまた「経営ノウハウの海外移転」をはやして、値上がり率で突出した企業までがあった。工場の海外移転と同様、経営ノウハウも海外移転できるとみなされたのだ。
 しかしその新しい政策は、真の内実が「苦し紛れの円高転換」にすぎないのではないか、と塚本たちは推測せざるをえなかった。海外保有分の日本国債の多くは、外貨建てで価値保証がなされたとみるべきだ。しかし現状でも外貨不足だ。さらに円安が進めばあまりにも危機的ではないか。
「なんとか円高に振り戻したいっていうだけよね」
 それが女剣士殿の託宣だった。バッサリと斬り捨てる身振りをしたが、冗談半分で解決できる問題でないことは、彼女も知り抜いている。
 近藤が塚本たち三人を招いたため、彼を訪ねることになった。彼のいる研究所は大部屋形式だったが、事務担当の職員が近藤の元へ案内してくれた。窓際の一部をパーティションで仕切って、幾つかの小部屋が造られており、その一つだった。
 正面に近藤自身のデスクがあり、その手前には接客用のテーブルが置かれるというありふれた配置だった。壁面は資料棚やファイルキャビネット類で埋め尽くしている。
「いつもご苦労様。よく来てくれました」
 近藤の眼差しは柔らかく、快活さもたたえていて、かなり機嫌が良さそうだった。
「どんなご用でしょうか」
 塚本たちは尋ねた。彼のメールでは、お礼を言いたいことと、少し意見を聞きたいという要用しか書かれていなかった。
「まず、お礼を言わせてください。どうもありがとう」
 近藤は目を輝かせながら、三人に頭を下げた。
「はあ」と塚本がいつもどおりにはにかんだら、真須美がおかしそうにクスリと笑った。それに釣られてか、塚本以外の三人が爆笑した。近藤とはかなり年齢差があるが、なにがしか和やかさが可能な場となったようだった。そして近藤は礼の意味を述べた。
「皆さんの『ノルウェー』情報のおかげです。この会議が〝本店〟の信頼を得まして、ようやくそれなりに認められるようになりました」
 あれは実は盗聴だったなどと言う訳にいかない展開だが、もし〝保養所〟が〝本店〟から少しは頼りにされるなら慶賀の至りだ。道理で近藤の機嫌がいいはずだ。なんでも従来は彼の会議に予算配分はなされるが、省内の予備役のごとき存在にすぎず、その内容はなんら重視されていなかったのだ。
「その前には困った事件が起こりましたから、この会議がもはや存続されない恐れがありました。それが一転して、かえって高く評価され始めたようです」
 困った事件とは、あの長田のスパイ事件だったはずだ。そんな重大問題を起こしては、近藤は監督責任を厳しく問われたに相違ない。年齢的にはいわゆる〝肩たたき〟すなわち彼自身が退職を迫られる恐れさえあっただろう。
「あれはどうなったんですか? 長田さんは?」
 真須美の問いに、近藤は首を横に振った。
「いや、わかりません。ここは捜査される側でしたから、そんなところには何も伝えられません」
「ご心労が多かったでしょうね」
 塚本が同情の言葉をかけたが、近藤はそんな暗い話などすでに吹っ切ったようだった。
「しかしノルウェーの件など、この会議でいろいろ貴重なご意見をいただいたものですから、それを少し文章にまとめて、国際局の横井(よこい)審議官に伝えてみたんです。すると非常に重要な内容を含んでいると思っていただきまして、小笹(おざさ)事務次官にまで話を通してくださいました」
 横井審議官とは、あの夜に地階のテゾーリというレストランで見かけた二人のうち、大柄なほうの人物だった。確か奥野総理に対してかなり批判的と思える口ぶりだったのだ。
 近藤が言うには、横井審議官は国際局のナンバー2で、局長に次ぐ。〝本店〟では重要人物の一人である。その彼が事務方トップである小笹次官にまで話を持っていってくれたのだ。
「それで小笹さんも注目してくださいまして、今後、皆さんから重要なご意見が出てきた場合には、それは小笹さんのところにも届きます。危急の場合には、迅速に内閣にも伝えていただける場合があるということです」
「じゃ、時には政策にも反映されるということですか?」
 井手が目を丸くした。何年も前のノルウェーに関する記事を発掘できたのは、彼にとってもあまりにも幸運というべき偶然だった。もしあの記事がなかったら、ノルウェーの謎など解けっこなかっただろう。
 近藤は井手の言葉に大きく頷いて肯定し、彼自身も驚いたような表情を返しつつ、さらに説明した。
「横井さんは、『ノルウェー』というたった一言で、かなり衝撃を受けられたようでした。そして私の資料を詳しく読んでくださいました。むろん中国との交渉については何もおっしゃいませんでした。しかし、まさに皆さん方が図星の指摘をしたに違いない、と私は推量しています」
 彼は「OSINT(オシント)」という言葉を解説してくれた。「オープン・ソース・インテリジェンス」の略語である。比較的広い意味で述べると、「合法的に入手できる情報」を分析するだけで、真に知りたい情報を突き止める手法の総称である。
 インターネット時代には、ネット上に公開されていて、誰でも入手できる情報を用いるのがその手法では一般的である。それ以前の時代にも、マスコミ記事や政府の公式発表などが主たる情報源であり、有能な評論家などはその分析に長けていた。
 特殊な合法情報では、列車の貨物情報を分析して、企業の脱税状況を突き止めたり、衛星写真によって、特定国の農地の作柄を把握するなど、さまざまな方法が考案されてきた。作柄情報は農産物の先物取引に利用され、多額の売買益の源泉にされたりしたのだ。
 しかも「インテリジェンス」という言葉は「諜報」をも意味するため、スパイ活動の一種であったりもする。逮捕された長田もその達人だったのかもしれないが、霞が関や永田町は日常的にオシントが行われる場だといってよかろう。高いオシント能力を持つことが中央省庁の官僚に求められる訳だ。
「それにしても、ノルウェーに関する報道記事から、政府の密約まで洞察するとは、私も感嘆しました。その洞察力がなければ、〝本店〟も私たちを重視してくれなかったのではないかと思います」
 誰が思いついたのか、塚本も今となっては忘れてしまったが、真須美と井手が彼の方を見た。どうも彼が自分で考えたアイデアらしかった。しかし素知らぬ顔をして、ただ頷いておいた。
 するとミッションインポッシブルの功労者だった真須美が、近藤に一応問いかけてみた。
「それで、〝本店〟は中国をえらく危惧してるんでしょうね。もちろん教えてくれないでしょうけど」
 近藤は予想どおり首を横に振った。〝保養所〟からはいろいろ知見を出してほしいが、〝本店〟側から逆方向の情報提供は原則として行ってくれないという状況である。
「〝本店〟の考え方はわかりません。しかし逆にこちらからどんどん見解を伝えてはどうかと思うんです。会議のメンバーで密約の件を知っているのは皆さんだけです。だからお呼びしたのですが、何かさらなる考えはありませんかな?」
 近藤はこの機会を利用して、積極的に〝本店〟側に攻め入ってみたいという意図らしい。〝本店〟に負けない見識を持てるとの矜持を示したいようだった。真須美は訊かれたことにとりあえず即答しようとした。
「中国ですから、やはり台湾侵攻問題と無関係ではありえないんじゃないですか。国債売りで日本が混乱している隙に乗じて、台湾を攻略するとか、逆に台湾侵攻で口火を切ってから、その混乱下で日本売りをするとかでしょう。効果的なやり方じゃないですか」
 すると井手が少し考えてから、それに異論を唱えた。
「中国って、意外に西側先進国と対立したがらないんじゃないですか。自国重視というか、自国の勢力拡張のためには新興国にも手を伸ばします。しかも台湾については、もともと一つの中国だという意識が強いです。けど、本気で日本に仕掛けたりするかなあ」
 現在の中国は政治体制として歴史が短い。そのため即断はできないが、塚本の印象でも、上層部は日本よりも遥かに大人物たちの国だという気がしていた。官僚制の下で内部統制は厳しく行われるが、案外、日本など歯牙にもかけない態度のようにも思えるのだ。
「うーん、奥野総理に、中国は危ないって思い込まされてる面があるかもね。それにアメリカもいつも中国と張り合いたがるでしょ」
 奥野総理は防衛を異様なまでに重視する。真須美の見方では、戦前回帰の軍国主義や全体主義社会への回帰を目論んでいる可能性が高いのだ。最近も財源の裏付けが未定のまま、防衛費を倍増近い年四兆円も増やし、強靭な敵基地攻撃能力を保有すると勇んでいる。
「今さら防衛費をえらく増やすって、〝本店〟が嫌がってるしな。だったら、それなりの知恵を使ってもいいんじゃないかい」
 塚本は少し考え深げな表情を真須美に向け、近藤も「それは?」と興味を示した。
「ええ、防衛費をどんどん増やせば、自衛隊に入ると危険だからと、志願者が減ります。それでも入隊させたいなら、若い人たち、特に非正規の人たちの賃金を抑え続けて、生活に困らせないといけない。だとすると、いじめられる国民が増えます。賃金も年金も抑制され方が酷くなり、結局、新自党の支持率が下がって、選挙で大敗しますよ」
 それは「風が吹けば桶屋が儲かる」に似て、物事の因果が連鎖する論法だったが、賃金抑制と年金抑制をセットにされる懸念は、すでに会議で検討済みだった。防衛費増という安全保障問題もそれと同じ論理に組み込まれる訳だ。それを新自党の「選挙で大敗」にまで結び付けたのだ。
 近藤はむしろ目から鱗が落ちたように、その考え方に納得を示した。
「なるほど、内閣は考え不足だという恐れを、〝本店〟は財源問題で交渉材料に使えそうですな。なかなかいい考えじゃないですか」
 塚本はトレードマークのようなはにかみ顔を見せるが、今述べたのはまだ序の口のつもりだった。そんな論法が良さそうならと、国債の価格保証問題にも独自の視点を持ち出してみた。
「中国が保有する日本国債ですが、必ずしも彼らが売り浴びせると恐れなくてよいと思います」
「ほう、なぜですかな?」
「『通貨の盾』という考え方です」
「通貨の盾?」
 塚本のはにかみ顔から思わぬ言葉が飛び出した。近藤が非常に興味を示したため、塚本はそれをわかりやすく説明した。
「核兵器を保有して、敵国から攻められにくくすることを、核抑止力や核の傘というでしょ。外貨に関してそれと同じ考え方です。日本が外貨建てで価格保証したからには、中国側はいつ売ってもよくなって、損失の恐れが解消されてしまいました。海外からの大量売りの懸念が、遥かに和らいだと考えてはいかがでしょう」
「なんと! 逆転の論理だが、リスクをチャンスに変えるような、うまい考え方じゃないですか! 中国が日本国債を売り浴びせるかと恐れたが、かえって売らなくなりますか。〝本店〟もそれを納得せざるをえんでしょう」
 一緒に聞いていた真須美は、身近にそんなにすごい〝抜刀斎〟がいたのかと、彼の一太刀に感心しきって尋ねた。
「どこでそんな免許皆伝の論法を習ったのよ。日本人離れしてるわよ」
「いや、英語が下手くそだっただけなんだ」
 塚本は恥かき気味で白状した。文科省からアメリカへ留学させてもらったが、自分の語学力が粗末すぎた。大学で議論する際に、とてもではないがマシンガンのごときネイティブアメリカンたちのディベイト力に太刀打ちできなかったのだ。
 四苦八苦の末に編み出したのが、論理で勝つ戦法だった。酷い英語だと小馬鹿にされているうちに、突如、相手は彼の掌中の罠に嵌められ、一本取られてしまう。塚本の逆転の発想力がやがて〝東洋の魔術師〟とまで教室内で大歓迎されるようになったのだ。
「でも、アメリカでよくわかりました。あそこには人と異なる考え方でも、きちんと受け入れてくれる人たちがたくさんいたんです。人と同じ考え方ばかり強要される日本とはえらい違いでしたね」
 その典型がおそらく奥野総理で、自分と考え方が異なる人々を徹底的に排斥しようとする。塚本とは水と油の関係のような人物だろう。どちらがいいかというと、近藤はもちろん塚本の側に立っていた。
「中国を過度に恐れなくなるほうが、世界をより客観的に見られるでしょう。日本の外交においても有利でしょうな。今後、われわれの危機のシナリオを突き詰めて考えるにも、非常に望ましい見方だと思いますよ」
 実際、残念ながらも、今の政府内には一通りの見方しかないように思えた。中国は危ない。日本の最大の仮想敵は中国だ。万々一、日本政府の財政が破綻するなら、その引き金を引くのは、第一に中国に違いない。
 しかし近藤は「より客観的に見よ」という立場を受け入れた。しかも中国の台湾侵攻と同時に破綻など、ごくありふれた見解では、今さら〝本店〟が関心を示す訳がない。〝保養所〟扱いの弱者なればこそ、塚本のように見事な「逆転の発想力」が必須なのだ。
 真須美も納得して、そこに意見を添えた。
「〝本店〟に食い込んで、〝保養所〟の気概を見せるには、表現の明快さや強さが必要でしょ。『通貨の盾』って素晴らしいですわ。外貨準備があれば、日本の抑止力になるってことですから」
 この新語は、井手も大いに賛同して、全員からの絶賛を浴びた。財務省が抱いているかもしれぬ「中国陰謀論」に対して、極めてわかりやすくその対論を表現できていたからだ。
 実際、中国は日本国債をしこたま買い込んでいると推測される。一朝、事あるときには、それが彼らの武器として使われ、日本を破綻させようとする脅しになりうる。しかし日本国債の価格保証が外交レベルでなされた以上、その武器の効果は大きく減じられたのだ。
 もし奥野総理がぐずぐずして、まだそんな外貨建て保証の取り決めを行っていなければ、日本にとってかえって危機的なはずだった。この場では全員がすでに決着したとの見方だが、現実はどうなのかという点に一縷の懸念が残った。
 ならばと、ついでにリスクに関する幾つかの〝ありふれた論法〟に関しても洗い出しを行っておいた。くよくよ考えても詮ないことをどんどん潰していけば、より焦点を絞って彼らの「危機のシナリオ」を洗練できるはずだ。
 世間ではたまに言われるが、「もし新発国債の入札が不調に終われば」という危機意識がある。いわゆる「札割れ」である。ところが近年はそんな不成立は、年に数度程度も起こって、取り立てて珍しい事態ではない。極端に懸念する問題ではありえないのだ。
 では、「大災害などで首都機能が停止する」という事態はどうだろうか。それが財政破綻の最大の引き金になるものだろうか? 首都直下地震、南海トラフ地震、富士山大噴火などなど。核ミサイルの飛来、コンピューター網の崩壊などまである。
 井手は塚本の思考法をだんだん会得し始めてきて、そんな悲観論に対して自分なりにコメントした。
「社会ってかなりアメーバ的な実体だと思うんです。インターネットがそうですけど、どこか一部が故障しても、残りは稼働し続けます。それと同じじゃないでしょうか。たとえ内閣が総辞職しても、霞が関も世の中も大して困りません。もし首都全体が機能を停止しても、それ以外で日本社会は機能し続けますよ。そんなときに超円安や国債の大暴落を企んでも、仕掛けた側が負けるんじゃないですか」
 彼が述べたのは、現実を冷静に見た「健全な論理」というものだったろう。塚本の逆転の発想もまた、意外ではあるが論理としての健全さを保っているだろう。井手はすでにその重要な点を体得しつつあるようだった。
 さらに「原油が途絶えたらどうなるか」という問題も議論された。わが国の備蓄量は七十日分である。節約すれば、三か月程度はもつだろう。特定ルートで調達できずとも、別ルートを利用するという対策もある。他国と援助し合うという方策なども立案可能だろう。
「原油もまた間接要因レベルでしょうな」
 近藤もそんな考え方をした。いわゆる〝油断〟をしてはならないし、株式市場は打撃をこうむるだろうが、それが国家破綻に直結するとは早計であろう。対処する方法は多様であるうえ、時間的猶予がかなりあるとみなされた。
「では、ヘッジファンドはどうなんでしょう?」
 真須美はジョージ・ソロスのヘッジファンドがイングランド銀行に売り勝った、というイギリスの中央銀行が敗北を喫した実例を問題視した。塚本もそれに賛同した。
「それはあると思うよ。ごく小さな雪玉が大雪崩を引き起こしたりするからな。いつ起こるかわからず、ほぼ予測不能なのは、二〇〇八年のリーマンショックだってそうだった。大恐慌もその類だろ」
 雪崩現象、ドミノ倒し、あるいは蟻の一穴から堤防が崩壊する比喩などが用いられる。塚本によれば、宇宙の果てにあるたった一個の電子が、崩壊の引き金になりかねないほどなのだ。
 首都直下地震のように巨大な力ではなく、意外に蟻の一穴のようにごく小さくて弱い力が決定的な役割を果たすことがありうる。しかも一日、二日という防ぎきれないほどの一瞬で、日本経済を崩壊させる大雪崩が襲いかかるのだ。
 ただ金融市場をあまりよく知らない塚本では、それをさらに合理的に説明する素地が不足し過ぎていた。しかしそれを補うように、近藤が一つの見解を述べた。
「リーマンショックですが、あのときはアメリカのサブプライムローンという信用度の低い債務が、さまざまな債券に組み込まれていました。実はどれほど多くの債券に組み込まれているのか、当初はさっぱり見当がつかなかった。思い起こすと、そんな『情報不足』の結果、誰もがあまりにも狼狽して、過剰なほどの大暴落に繋がったというべきでしょうな」
「『情報不足』ですか。それは大いにありうるかもしれませんね!」
 塚本ははたと気づいた表情を返した。極端な「情報不足」の状況下では、人は最悪ケースを想定した行動を取らざるをえない。もし金融市場全体がそんな状態に陥ったら、大暴落が起こるのを否定できないはずだ。リーマンショックの際には、市場全体の株価がほぼ半値まで暴落した。おそらくや大恐慌のときの株式市場もまた、それと同様の異常な状況下となったのだろう。
「わからないって、実は恐ろしいことなのね」
 彼らが「危機のシナリオ」をたとえ不完全でも整備しようとすると、「情報不足」こそが「最も厄介な大前提」だというほかなかった。「わからないものを見いだして考えよ」というに等しかったからだ。不明は不明である。塚本が「合」に至る道さえ見えないかもしれなかった。
「ならば、わかることから考えていきましょうか」
 近藤は自らの考えを幾ら否定しても、へこたれることがない人物らしかった。否定し尽くした先に、まだ光明を求め続ける根性に満ちているに違いなかった。塚本たちもまた、それに最後まで付いていってみよう、という気をさらに横溢させた。
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