7-3

文字数 5,659文字

 塚本は約束どおりに千聖のもとを訪れた。先週の休日にも訪問したのだが、同じ件での二度目だった。
 彼女の父の治療は順調に進んでいるそうだった。今日は出勤しているとのことだ。
 非常に強い薬を使うため、いろいろ大変らしかった。点滴薬が僅かでも漏れてはならない。皮膚が壊死してしまう。訓練されて資格を持つ看護師しか、その処置をできないが、それでも注射痕が腫れて変色し、次回は反対側の腕で点滴することになったりした。
「でも、回復しておられてよかったです」
 塚本のそんな言葉に、千聖の母は笑顔を見せるが、まだまだ不安を抱えている様子だ。
「五年生存率が百パーセントではありませんもの。なんとでもして孫の顔が見たいと言ってるんですよ」
 それは千聖の子という意味である。彼女の兄夫婦にはすでに男の子が一人いるが、千聖に似た女の子もほしいらしい。もちろん男でも女でもよいし、皆が集って賑やかな家庭を望んでいるのだ。
 そんな平和が続いてほしいものだ。塚本を含めて、庶民の望みはごくささやかである。しかし奥野総理による独善的な政治と、彼を取り巻いて忖度する政治家たちが、そんな小さな幸福さえ壊してしまいかねない。
 たまたま近藤が組織する会議に関われて、塚本はその危機的な深部を徐々に知るに及んだ。それは戦前に比すべき極端な悪政でありそうだった。しかも奥野総理はそれこそがかつてない善政のごとくに国民を欺き続け、国をますます借金まみれにしては、高支持率を保っているのだ。
 もちろん彼一人の責任ではないはずだ。今や断崖絶壁の間際に立ちすくむ状態で、そこまで坂道を転がり続けてきたのは、過去の政治家たちの責任でもあったはずだ。そして民主的政治体制の下で、それを許し続けた国民全体の責任をも痛感せざるをえないのだ。
「それで、前回のあまりお勧めできない話ですが」
 塚本はそんな懸念を振り払いつつ、やや妙な言い方をした。近藤たちと検討した考えを述べたものであり、万一の国家破綻の際に、庶民でも可能な対策案だった。彼らはもはや国家破綻がありうるものとして、個々になしうる具体的な対策に踏み出したのだ。
「よその本でも同じことがよく書いてあるわね」
 千聖は関連する書籍などにも目を通した様子だった。確かに書いてあるのだ、「ドルを買え」と。彼女の母も頷く仕草を見せている。
 むろんそんな本の書き方はやや乱暴そうで、細かい注意を述べていない。インターネット検索では、両替手数料が格安、かつドル紙幣を「宅配便で送る」としているサイトが表示される場合さえある。宅配便での現金送付は違法であり、詐欺紛いの恐れがある。塚本はさらに注意しておくべき点を付け加えた。
「注意しておく点が多いんです。外貨の保有がかえってマイナスになる恐れにも、どの本も配慮してないんですね」
「マイナスになりますか?」
 彼女の母はそれをもう一度確かめておきたいと問い直した。
「ええ、政府にとって、外貨は喉から手が出るほどほしい資産になるに違いありません。万一の財政破綻時にはね。だったら、民間人がそれを大量に保有していたとして、そのまま放置すると思いますか?」
 現状でさえ、海外保有分の日本国債を外貨建て保証するには、外貨準備がすでに不足している恐れが強いのだ。そのうえ円の暴落時に為替介入を繰り返せば、政府保有の外貨はたちまち底をついてしまいかねないのである。
「それはそうですわね」
 母親は塚本の言葉を再確認するように頷いた。彼はその理由の一つを述べた。
「少なくとも、外貨預金は政府の定めた交換レートで、強制的に日本円に転換させられるとの見方が、僕らの間では強いんです。何円程度になるかはわかりませんが、実勢の為替レートよりかなり安く没収同然でしょう」
「何円ぐらいか、まだ見当がつかないんですか?」
 前回来たときには、その質問に答えられなかった。しかし真須美や井手と議論した結果、おそらくという暫定的な見通しを今回は述べてみた。
「多分ですが、百四十円台が目安かと思います」
「百四十円台……」
 政府は百五十円台を非常に嫌っていることが明らかだった。大規模な為替介入を行った水準だった。そして真に恐れるのは、百六十円超えである。その予想は塚本たちがすでに厳しい議論で納得したとおりだった。
 奥野総理なら、きっとそれ以下の水準で民間の外貨資金を取り上げたがるだろう。だとすれば、百四十円台が最も妥当な水準だろう、と三人で一致したのである。
「その理由をわかっていただかなくて結構ですが、百四十円台が重要な目安ということです。しかも外貨預金の強制円転換が発表されたときには、市場の実勢レートはすでに百六十円を超えているでしょう。われわれには対処策はありません。そのときには、もう市場でドルやユーロを入手できない恐れが強いと思います」
 預金封鎖は必ず歴史に残るほどの重大事態である。しかも国家的な金融危機においては、当然のごとくに採用されてきた政策でもある。二〇〇九年のギリシャ危機においても、庶民は銀行に大行列をつくり、日々僅かな預金しか引き出せなくされたのだ。
「じゃ、外貨預金は絶対に避けて、ドル札を買えということですね」
「そうよ、母さん。もし今日でもドル預金をすれば、多少の利益はあるだろうけど、生活を守れるほどにはならないのよ」
 現状は一ドルが百二十円台である。オクノミクス3・0の発表で円高が進んでいるが、さらに百十円台まで上がるかどうかはわからない。庶民が機動的に動ける訳ではないから、そこそこのレートで決断するしかないのだ。
「でも、ドル札を買っても、リスクがあるとかですわね……」
 米ドルは最重要の基軸通貨である。その一択しかありえないと結論した。しかし外貨購入にはなにがしかのリスクがつきまとうと想定され、なかなか他人には勧めにくいのだ。その点を塚本は説明した。
「ええ、実は『外為法』を心配するからなんです。外国為替に関する法律は従来から非常に厳しいんです。国家の破綻危機の際には、それがさらに強化されないとはかぎりません。ご迷惑をかけてはいけないので、用心が必要だと判断したんです」
 外為法とは「外国為替及び外国貿易法」という法律の通称である。為替取引や輸出入の管理と調整を行うための主要な法律だ。その条文は微に入り細に入りの規定だらけでわかりにくい。しかも何かというと罰金刑が多額であるだけでなく、さらにそれ以上の罰則が課される恐れがあるのだ。
「それ以上って、逮捕ですか?」
「それも含みます」
 母親は懸念するよりも怯えた表情を見せたため、安心を誘うように塚本は補足した。
「大丈夫です、現在はそんな恐れは一切ありません。ただ会社勤めの方は慎重に考えられたほうがいいと思います。もし新たな法令が制定されると、単に外貨を保有しているだけでも、隠匿扱いにされないとは限らないんです」
 塚本は「法令」という曖昧な表現を用いたが、内閣だけで発令できる「政令」のつもりだった。憲法が改変されてしまったため、いったん緊急事態条項が適用されるや、政治体制が一変してしまいかねない。国会の審議を一切経ることなく、奥野総理らの恣意だけによって、とんでもない政令が発出されてしまう恐れがあるのだ。
 ここでは細かく述べなかったが、従来の外為法自体、閣議決定のみでさまざまな措置を講じうる規定を盛り込んでいる。第十条の第一項である。為替関係をそうそう甘く見られないのだ。
「じゃ、もしかすると、全額没収まで?」
 千聖の問いかけに、塚本は曖昧に頷くしかなかった。政府によって制定される法令は時に恐ろしい。思いがけぬ写真一枚が児童ポルノ扱いにされ、別件で逮捕ということさえある。ひとたび官憲に付け狙われれば、さまざまな理由付けによって、犯罪者に仕立てられてしまう恐怖の時代が来かねないのだ。
「自宅保管の外貨を、銀行に持って行かなければ、悪意があったとみなす法解釈がありうる。刑罰対象にだってできるだろう」
 特にサラリーマン階層は厳重な注意が必要である。取り調べを受けたことを勤務先に知られる恐れがある。勤務先に迷惑をかけるかもしれない。軽々しく他人に勧めるのはリスクがある、と塚本たちは慎重に判断したのだ。
「刑罰なんて、ほんとにそんなことができるの?」
「俺たちだって、それを止めたいさ。けど、政府が破れかぶれになったら、どれほど過酷なことを決めるか、今はまだわからないんだよ」
 そんな理由があるもので、前回は千聖の両親にはドル紙幣の購入を勧めなかった。今日はより詳しいめに述べてみた。すでに預金口座を決済用に変更していたため、それで乗り切れる可能性もあるかと想定したのだ。
「それで、池田のご両親は? 外貨を買われるの?」
「いや、買わないってさ。学校の教師だから慎重なんだ。それに俺が一本取られたよ。国が財政破綻しても、国民がバタバタ飢え死にはせんだろう。なんとか生きていければ、そのうち収まるものだってさ」
 その指摘は確かに正しいはずで、かつ重要そうだった。経済破綻した国の庶民たちが困窮している事情は伝えられるが、大量の餓死者が出たなどとは聞いたことがなかったからだ。
「さすがに賢明な考え方をされてるのね」
 千聖は安心を感じたらしかった。今後の日本でとんでもない悪政が行われようと、政府としては国民を殺しまくるような蛮行に走る訳にはいかないはずだ。
「ただお袋だけは、キャッシュレス決済用のチャージ額を少しは増やすって、約束してくれたんだ」
「それはよかったわ。私たちも増やしたのよ」
 千聖も母親も笑顔で互いを見交わして答えた。先日そんな小さな知恵を伝えておいたのだが、名称の末尾にペイが付くバーコード決済が広く普及している。
 もし預金封鎖がなされ、日々の引出限度額が厳しく制限されても、予めペイにチャージしておけば、預金封鎖の枠を逃れられる。日常の買い物でそこそこ助かるだろう。各決済会社の限度額内で自由に使えるのだ。
 一方、仮想通貨に関しては、価値の変動が激しすぎるから勧めなかった。預金封鎖の枠外になるかもしれないが、決済に使える店が少なすぎる。円に換金しても、銀行に振り込まれるのでは自由に引き出せず、徒労に終わってしまいかねない。
「それでチイはこれから塚本さんと、銀行へ両替に行くのね?」
 ひとしきり話が終わったところで、彼女の母親はそろそろ娘を送り出しにかかった。娘は自由意思でやればいいし、このフィアンセを家族全員で信頼しているから、止める理由など全くなかった。
「少しは暮らしの助けになるかしら?」
 千聖は塚本から一応の意見を求めた。
「利益という訳にはいかないだろうな。リスクヘッジというか、ある程度のリスク回避って訳だ。ドル建てでは物価が安定してるのに、円建てでは暴騰するかもしれないからな。ただ、両替手数料を考えれば、庶民はある程度の損失も覚悟すべきかな」
 リスク回避といっても、普段から為替変動というギャンブル的要素を伴っているのだ。それでも塚本たちとしては、かなりの円安が進むだろうという見方で対処が重要と考えた。
 近藤を交えたおおまかな予想では、いったん一ドル三百六十円までの円安になる、というケースを想定した。その先はわからないし、そこまで極端な円安が進まない可能性もある。しかし日本人がかつて慣れ親しんだ為替レートが三百六十円だったため、そんな仮定をしてみたのだ。
 その場合、市場ではさらに「オーバーシュート」が発生しうる。すなわちドルとの交換レートが一時的に行き過ぎるのだ。どの程度まで行き過ぎるかは、社会状況次第だが、国内でドル札が枯渇すると、闇レートはもっと行き過ぎが大きくなるだろう。
 塚本たちはオーバーシュートのピークを、おおよそ五百円前後に設定しておいた。今日の両替レートの四倍ほどだ。もし手持ちのドルを売るなら、最高値狙いは素人には困難だが、三倍以上ならまずまず可能だろうか。
 しかしそれでも楽観予測であり、さらなる円安は全く闇の中である。奥野内閣が愚かな失政ばかり繰り返すか、それを意図的に企むかはわからないが、物価が百倍以上に暴騰するハイパーインフレがありうるのだ。万一そうなれば、一ドルが一万円以上にも常識離れの激変を起こすだろう。
 為替レートは値動きが非常に軽いため、諸物価に先行して動くだろう。物価上昇率の先行指標になりうるのだ。外貨が物価のプライスリーダーだという訳だ。為替レートの動きを注視していれば、物価高騰に先んじて、財政危機時の対策を立てやすくなりそうだった。
 近藤自身はレートが百円前後のうちに、すでにある程度の米ドル紙幣を買い込んだとのことだった。その時点では先行きがわからなかったのだが、幸いにも損には回らないで済んできたそうだ。
 しかも財政破綻が決定的だと彼が判断したとき、さらに少し買い増してみるつもりだとも言う。多少の目先が利くレベルの庶民と同じように行動してみて、その去就を見届けたいとの意向だった。
 真須美はもちろんドルを買う。井手は買わないそうだ。彼は十分に鷹揚だった。井手家はすでに無理をしない程度に対策済みだったからだ。資産保全にはむしろ不動産を重点にして、個人資産としての外貨はあまり重視しなかったらしい。
 外貨購入の注意点をきちんと説明し終えた後、塚本は千聖とともに、その母に見送られながら、新宿へと出かけた。そして予め電話で予約しておいた銀行で、二人とも米ドルを調達した。
 塚本は銀行の二階でまず預金を引き出したが、千聖は現金を持参していた。そして一階に併設された外貨ショップで、それぞれが三百五十万円と百五十万円分のドル札を購入した。
 二人とも心の中に不安を抱えたままだった。資産保全のためにドル札を購入するのは、市井の庶民ではやはりギャンブルの意識が強かった。そんなことをせずに済めば良かったのにと、二人でグチばかりこぼし合った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み