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文字数 2,975文字

   第七章 蟻の一穴

 翌日、奥野春蔵総理と趙錦平中国国家主席との共同声明が発表され、それに基づく共同記者会見が行われた。
 塚本はその会見の一部をテレビニュースで観た。趙主席は満面の笑みをたたえていたが、奥野総理は疲れでかなり憔悴している気がして、唇がやや歪んでいたと思われた。通例、利害を真剣に闘わせた会談後には、日本側が渋い表情を見せることが多いが、今回もそれと同様の様子だった。
 しかし共同声明の内容は、日中友好を総花的に深化させる表現が全体にちりばめられていた。マスコミは「日中関係のさらなる改善へ」と主たる見出しで報じ、奥野総理が成功裏に会談を終えた旨を伝えた。
 特に奥野総理は「平和と友好の外交」との側面を会見で強調した。実情として尖閣諸島という領土問題が存在し、中国の台湾侵攻も危惧される情勢である。しかし前回の首脳会談よりも内容的にかなり前進して、懸念が払拭される方向性を強く匂わせた。
 それは彼が常に得意とする、国民向けの〝言語ゲーム〟同然であったのかもしれない。そして具体的な内実はなんら示されなかったのである。
 むろんこの種の会談で定番とされる、地球環境対応や省エネルギー技術などの「グリーン経済」への転換、新型感染症や高齢化対応を含む「医療・介護・ヘルスケア」などで、民間の後押しを進める合意もまた重要事項として一致をみた。「日中ハイレベル経済対話」が近く開催されることになった。
 会談の色合いとして、安全保障問題に深入りするのを意識的に大きく抑制したかと思われた。普段の奥野総理が行う国内向けの発言とはかなり異なった内容である。会談では摩擦を避ける姿勢が顕著だった、と読み取れるのかもしれなかった。
「政治ニュースは行間を読むものよ」
 と真須美は言う。記事には一言も書かれないが、その真相を読み取る必要が多々あるそうだ。それが国際外交というものである。
「行間かい……?」
 塚本は考えてみるが、なかなかわからない。紙面に書いていないのだから、読み取ることなどもともとできるはずがない。
「友好だと言って、奥野総理は摩擦を極力避けてるわね。そこから考えるのよ。なぜ摩擦を避けたんだろう? 何か頼み事があって、中国側の機嫌を損じたくなかったんじゃないかな? そんな感じよね」
「機嫌を損じたくない。……つまり、何かを懇願したということか。日本側に弱みがあった会談ということだな」
「そうよ。私たちの推理とも、ちょうどうまく符合するでしょ」
 真須美が言ったのは、もちろん「日本国債の外貨建て保証」という推理であり、それと会談の状況がどうやら矛盾しないという指摘だ。
「確かにそうだな。表に出た共同声明の言外では、奥野総理は趙主席にひれ伏してた、ってありありと見透かせるってことか」
 今回の首脳会談は中国側の完全勝利だったらしいと想像できた。昨夜、趙主席は高いびきで朝を迎えることができたろう。他方、奥野総理はほぼ一睡もできず、事務レベルでの最終的な決着を指示し続け、苦渋の決断を強いられたに違いない。
 深夜に恐るべき応酬が繰り広げられた裏返しとして、このごく友好的で平和的な共同声明が証となっているのだ。そしてそんな真相を少しでも読み取れる手掛かりは、記者会見時の両首脳の顔色ぐらいしかなさそうだということだ。
 塚本は外交というものの苛烈さを初めて知りえた気がした。日本は外交下手だとよく言われるが、外交は国同士の激しい情報戦である。ノルウェーがどうしたなど決定的な情報を握らなければ、国際間の情報戦には勝てっこない。日本が外交に弱いのも当然だろう。
 井手のマンションで議論していたのだが、井手は別の視点からの謎もぶつけてきた。ちょうど鉢植えが一つ届いて、彼は元のプランターと交換しているところでもあった。そんな癒やしの室内植物は、彼の両親からの配慮らしかった。
「すみません。で、今日の為替のグラフなんですけど、かなり変なんですよね」
 彼は自分のモバイルパソコンで、ドルの一分ごとの値動きを表示した。一分足というチャートだ。
「一つ目の謎は、記者会見の前後で、レートがえらく乱高下したことです。このチャートを見ると、いきなり円安になったかと思うと、それが円高側に大きく振れました。そしてまたすぐに円安に揺り戻したピークができて、それから再び円高側です。結局、だいぶ円高になってるんですけど」
 現在の為替市場は三円以上の円高状態である。一時は五円近くも円高が進んだ。金融系のニュースを探すと、「日本経済の好転を見込んだ」といった書き方がなされている。
「乱高下したのは、首脳会談の結果で強弱観が対立したってことだろうな」
 塚本がグラフを読み取って推測した。金融市場では乱高下がときどき起こる。意外な動きに素人が乗っかって、いわゆるチョウチンを付けた途端、それがたちまち反転して、素人側は手傷を負わされる。しかも今回のように反転を繰り返すと、素人は右往左往して、損失を膨らませるばかりなのだ。
「グラフが行き過ぎるというオーバーシュートは、先物市場での売り持ちや買い持ちは、見込みを誤ると損失が大きいせいなんだ。大慌てで反対売買をしなきゃならない。そんな投資家がグラフの行き過ぎを助長するんだよ」
 塚本はその種の金融市場の手口をだんだん理解しつつあったが、それは本質的な問題ではないし、さほど必要な知識でもないだろう。井手がわざわざ「一つ目」と断った謎だったから、さらに「二つ目」があったのだ。
「で、二つ目なんですけど、時刻がおかしいんです。共同会見が始まる数分前から、この乱高下が起こってたんですよ」
 それは思いがけない指摘だった。事前には共同会見の開始時刻という情報があるだけで、その内容はまだ不明だった。それでも為替レートが急変したのだ。
「投機家たちが思惑で動いたってことじゃないの?」
 真須美はとりあえずそんな意見であり、確かにそれも十分に考えられることだった。
「しかし、声明の内容が事前にリークしたってこともあるだろうな」
 塚本はそんな可能性をも指摘した。日中どちらから漏れたかはわからないが、両国ともに漏れていた可能性もありうる。上下両方に振れたからだ。しかも井手は三つ目の疑問も呈したのだ。
「それで、あんな共同声明の内容で、ここまで為替が乱高下したりしますか? ありふれた内容だったじゃないですか。裏の情報まで漏れてたんじゃないでしょうか?」
 うがった見方であるが、それもまた正しそうだった。為替市場の動きがやや異常に思えるのだ。日中首脳会談を無難に終えただけなら、レートがそんなに動く理由はなんらなかったはずだ。
「確かにそうだな」
 と塚本が受けたが、真須美が先んじて最大の疑問に辿り着いた。
「四つ目の疑問よ。国債を外貨建てで価格保証なら、日本の外貨準備が急減して、酷い悪材料だわ。円安が極端に進むはずでしょ。でも、こんなに円高に振れてる理由は何なの?」
 彼女が最初に口にしたが、三人がともに感じる共通の謎でもあった。なぜ円高なんだろう?
 意外な円高を裏付けるほどの材料は共同声明に見つけられそうにない。もしや奥野総理かそのブレインが趙主席に対抗して、すでになんらかの策略でも編み出したのか? しかしすぐにはそれを思いつけそうになかった。
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