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文字数 4,964文字

 続いて近藤座長は配布した資料のリストを読み上げ、今日は特に『戦後のわが国財政の変遷と今後の課題』という資料について説明すると述べた。それ以外は各自で目を通してほしいが、過去のグループで議論した報告書は示さない習慣だと言い添えた。以前の議論に囚われず、清新なアイデアを求めているのが主たる理由だとした。
 本日ここで説明する『戦後――』という資料は、オクノミクスが提言されて二年後に〝本店〟側が作成し、財政制度審議会に提出して議論の素材にされたものだということだった。現在は財務省のウェブサイトには出していないらしく、過去の資料を短期間で消さないでほしいものだとの苦言も付け加えた。
 しかし税金で作った資料は全て著作権フリーである。どこかで誰かが勝手に公開したとしても、法律には一切触れない。
 それとともに、インターネットには強力な裏ワザもある。インターネット上のいわゆる〝魚拓〟を収集しているサイトで、過去情報を検索してもよいのだ。オクノミクス提唱の二年後、二〇一五年九月末の財政制度審議会の資料だが、その年末の〝魚拓〟が、ウェイバックマシン(Wayback Machine)のサイトに丸ごとあった。
 審議会のページから、「財政制度分科会」の「議事要旨・提出資料等」を選んで、九月三十日付の「提出資料」に進むと、配布資料として今も入手できるではないか。
 近藤が説明し始めた四十ページ余りの資料によれば、「一国の政治は財政によって窺える」といった高橋(たかはし)是清(これきよ)の言葉が冒頭にあったりする。
 この部屋のスクリーンに映された四ページ目には「戦後財政の変遷」というグラフがあり、いわゆる「ワニの口」というグラフの形が鮮明である。税収による歳入に比べて、歳出側がどんどん上に開いていき、まるでワニが口をパクリと開けたように見えるのだ。近藤はさらに最新のグラフを用意していたが、それはますます異常な形状だった。
「見ていただくとわかるように、二〇〇八年のリーマンショックに見舞われて、歳出が激増しました。しかも危機後も歳出をいっこうに減らしませんでした。奥野政権ではコロナ禍を理由にして、百十兆円を超える国債を発行し、ついにワニの牙が上顎を突き破ったのです。税収の三倍もの予算をばらまいた結果です」
 歳入が減りつつあったのを、奥野は強引にも消費税の増税で補った。どういう訳か法人税は減税となり、累進性のない消費税を大幅に増やした結果、貧困層や庶民レベルにずしりと負担がのしかかったのである。
 それより以前の概略を述べるなら、日本のバブル経済が崩壊した一九九〇年頃から、ワニの口はどんどん拡大され続けた。ただ二〇〇〇年代前半の今泉政権で上顎を下げる努力がなされたのだが、無力に近かった新民党政権の後、奥野がそれを再びオジャンにしてしまったのだ。
「悪夢の奥野政権」とでも言うしかない。国の借金は経済規模の二倍半を超えてしまった。資料には戦前の債務状況も掲載されていて、終戦時に経済規模の二倍を超えている。そんな第二次大戦の敗戦時よりも酷いのが、現在の日本の債務状況なのだ。
「敗戦後の財政再建策は資料の八ページに載っています。ハイパーインフレが起こった状況下で、『預金封鎖』が行われ、生活費程度しか引き出せなくしました。さらに即座に発表したのが『新円切り替え』で、新紙幣を発行して、従来の紙幣を無効にし去ります。タンス預金は期限内に全て銀行に預けないと、今後は使えなくなる、と庶民を驚愕させたのです」
 近藤による詳しい説明を聞いていると、終戦当時の政府が血も涙もないほど過酷な政策を実施していた、という事実が塚本にもよく理解できた。
 当時の政策は全て「悪性インフレを阻止するため」との触れ込みに基づいていた。まず「預金封鎖」によって預貯金を僅かしか引き出せなくしたのみならず、これまで使われていた全紙幣を無効化するために、「新円切り替え」で新しい紙幣を発行する措置に踏み出したのだ。
 庶民は手持ちの旧紙幣をいったん銀行に預けないと、紙クズとなって使えなくなるため、虎の子のタンス預金を全て吐き出させられた。そして新紙幣では生活費程度しか引き出せないというのに、物価が百倍以上にもなるハイパーインフレがどんどん進行し続けた。
 結果的に、庶民の預貯金の大部分は、銀行口座に塩漬けにされたまま、その実質的な価値がほとんど失われてしまった。今でいえば、百万円の預金が、一万円未満の価値に下がるまで、呆然と待ち続けるしかなかったのである。
 しかも、それと同様の新紙幣の発行計画が、奥野政権でもとっくに進行しているではないか。渋沢栄一らの肖像を描いた新紙幣である。それらはすでに印刷が行われていて、戦後と同様の準備が水面下で着々と進んでいるのだ。
「終戦当時、庶民は酷すぎると嘆き、身ぐるみを剥がされました。さらに預貯金や不動産にも、『二割五分から九割』という極めて高額な『財産税』が課されます。そして政府が民間に負っていた未払金も、『十割課税』という奇策で相殺して、戦時補償を終了してしまいました」
 なんとまあ、江戸期の悪代官であろうと、そこまではなしがたいという悪政ではないか。塚本が心中で呆れきっていたら、坊主頭の岩淵から近藤への質問が飛び込んできた。
「この資料には、『財産税による債務削減効果は限定的だった』とわざわざ書いてあるのですが、どういうことでしょうか。財務省としては、今回もし国の財政破綻が起こっても、財産税はやらないという意味じゃないんですか?」
「それは非常にいいご質問ですね」
 近藤は応じて、スクリーンの表示を次ページに進めた。
「このグラフにあるように、終戦後、債務削減の効果はハイパーインフレによるものがほとんどで、財産税による効果は一割もありませんでした。実は国税庁の知り合いに聞いてみたら、今回は財産税の課税などできそうもないそうです。一般市民の場合、資産の大部分は不動産です。市民が財産税を払えないからと、日本中で不動産を山ほど差し押さえても、それを全て競売にかけるなど、税務署の人手の点で不可能だそうですな」
 国税庁は財務省の子会社同然であるし、この同じ建物の五階に入っている。近藤のいる研究所とはたった一階離れているだけだから、意見交換など簡単にできるのだ。
 万一の財政破綻の際、官僚たちに過度な手間を押しつけられては、霞が関がパンクしかねない。そういう事情があるため、こういう財務省側の文書においても、早くからいろいろ予防線を張っているのかと思われた。近藤はさらに付言した。
「それとともに、終戦時と現在では状況がまるで異なります。当時はどさくさで経済統計がかなり消え、GDP統計さえ一年分欠けています。私が調べたところでは、国の借金は経済規模の二倍どころではなく、『戦費は国民所得の十倍を超えていた』というデータまでが財務省内にあります」
 国民所得の十倍を超えたのでは、現在の二倍半超えどころではない。旧大蔵省が一九五五年に編纂した『昭和財政史』に掲載されている推計値だそうだ。そんな借金がどこへ消えたかといえば、戦時中に中国を始めとするアジア諸国で、日本軍が現地紙幣を超大量に発行して、それを賠償することなく踏み倒した結果、かき消えたらしい。
「ということは、現在はまだ破綻確率がかなり低そうだということでしょうか?」
 今度は農水研の藤川が質問し、近藤が首を横に振りつつ答えた。
「それは断定できません。もし破綻するなら、そのシナリオを幾つかこの会で考えていただきたいというつもりです。もちろん破綻しないという結論もありえます」
 すると日銀の全田が破綻しない側に賛同するように畳みかけた。
「破綻しないという結論こそが何より重要でしょう。財務省も日銀も財政健全化の旗を掲げて、破綻させないために日々努力してるんですから。この場では、破綻しない方策を最重点で考えるべきだと思いますな」
 全田の言はまさに正論だった。しかし座長の近藤は政府の財政破綻を危惧して、この会を組織したのである。座長はごく穏やかな口調で答えた。
「この会はフリーディスカッションを旨としています。どなたの意見も制限しません。建設的なご提案なら何でも大歓迎です。ただし政策に反映される道には制約が多々あります。〝本店〟でも財政健全化を常に訴え続けてきましたが、大きな成果がありません。どうすれば政治家の皆さんを動かせるかを含めて、素晴らしい提案をしていただけるならありがたいです」
 今日の資料でその先は、主に「赤字国債」を脱却せよという視点と、「社会保障費」がかかりすぎているという問題が重点だ、と近藤は要約しつつ簡単に解説した。
 塚本はゆうちょ銀行について調べて、かなり気になったものだから、生半可な質問を行ってみた。特にゆうちょは日本郵政の利益の七割を稼ぎ出しながら、郵政側が持ち株比率を下げて、本体から切り離そうとする動きがある。経営判断として異常に思えたのだ。
「この会議では個々の企業の問題は扱いませんが、ある意味で重要なご質問ですな」
 近藤座長は首を捻りながら、微妙な表情を返した。しかも隣にいる長田補佐員の方にも視線を向けた。彼女がこの会議の議事録を作成しているため、座長として軽々な発言を行えぬに違いない。近藤は慎重に言葉を続けた。
「ゆうちょは特殊な位置付けの銀行でして、大口預金者はいません。通常貯金と定期性貯金の限度額がそれぞれ千三百万円です。しかも運用方法にも大きな制約があって、自行だけで住宅ローンを提供することさえできず、国債や外債運用などに限定されます。もし破綻の危機が取り沙汰された際には、他行と異なるような扱いになるでしょうな」
「それはどんな扱いでしょうか?」
 塚本の問いに、近藤は考えを纏めるのにやや時間をかけたようだった。そして答えた。
「日本郵政では、ゆうちょ以外の事業に対して、悪影響をできるだけ避けたい、という意識が強く働くでしょう。これは私の意見ではありませんが、ゆうちょを他事業から切り離しておきたいという動きがありうる訳です。もし本当にそういう動きがあるなら、郵政自体がすでに破綻を警戒していることになりますが、私にはわかりかねますな」
 わからないと言いつつも、近藤は意外に踏み込んだ意見を述べてくれた。もし日本郵政までが貯金事業の破綻を真剣に懸念しているなら、それを裏返して考えれば、日本の財政破綻問題はかなりの現実味を帯びていることになるではないか? 少しばかり禅問答気味な答えだったが、塚本はそう解釈した。
 ところが近藤座長はさらに言葉を継いだ。それは聞きようによっては、ますます踏み込んだ見方だったのかもしれない。
「政府はゆうちょ銀行をけっして潰さないという考え方もありえます。私の見方ではありませんが、もし国が財政破綻した際には、ゆうちょを存続しつつ、実質的に〝国の財布〟にすると考える人々もいるようです。つまりゆうちょの資金を国の復興に利用しようという考え方です」
「国の財布……ですか」
 謎のような考え方だったため、塚本はその深みを理解しかねた。政府は郵政株の三分の一を保有しているため、郵政をほぼ国の思いどおりに動かせる。一方、郵政側は従来ゆうちょ株の大部分を保有していたのに、近く五割未満にまで減らそうとしている。何か策謀が動いている影程度が感じられるように思えただけだった。
 終了時刻が近づいてきたため、さまざまな問題についての深い議論は次回以降に行うこととした。論点が配布資料に見られるような〝本店〟側の見解に沿う必要は全くない。全資料を熟読いただきたいと付け加えた。どうやら今日は、財政破綻問題の概略を参加者に理解してもらうレベルで留めたようだった。
 そして次回の論点の提供者を求めたところ、日銀の全田が即座に手を挙げた。彼はわけても「破綻しない」論をぜひ展開したいという。大いに結構なことだと了承された。それは次回、やはり波乱の展開となる。
 しかも霞が関という特殊な地では、何事であろうと言葉どおりに受け取ってよいとは限らない。全田の真の意図は、実はその言葉とは裏腹のものであったのかもしれないのだが。
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