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文字数 1,998文字

 小康状態にすぎない――塚本たちのそんな予感が的中したと思い返した。
 夜まで会議室に留まり続け、金融市場の動きを注視していたが、〝本店〟から急ぎのコピーが届いた。
 その日のニューヨーク・タイムズの朝刊を電子コピーしたものだった。時差があるため、アメリカ東海岸の朝刊は夜になる。〝本店〟が数部の原寸大ハードコピーを用意してくれて、それを見た途端、全員が驚くしかなかった。
 円安が再び急速に進み始めたため、近藤が〝本店〟に問い合わせていた矢先だった。「資料を届けるから、それを見てくれ」と言われ、その資料がえらく早く届いた。〝本店〟も緊急態勢に違いないのだ。
 その日のニューヨーク・タイムズ紙は、なんと異常なほど多くのページを割いて、「日本の暗黒債務」というテーマで大々的な特集を組んでいた。
 まさか、「暗黒債務」か……!
 見出しのあちこちに「暗黒」という言葉が躍る。あまりにも大胆な紙面を組んだものだ。ページ数が非常に多いから、おそらく大部分の記事は事前に内容を準備済みだったろうと推測された。いつの紙面に突っ込むかを、彼らはずっと待ち続け、そしてついに今日だと決断したのだ。
 見出しでおおよその内容を辿ると、彼らの会議で議論してきたところと一致する部分がかなり多そうだった。
 奥野総理とは異なり、この会議は世界標準に近い見方を多くの議論で貫いてきたつもりだった。だからこの記事の主張が彼らの会議と似通っていても当然なのだ。
 あちこちの見出しに「プライムミニスター・オクノ」すなわち「奥野首相」という言葉が頻りに出てくる。そして巧妙に配置されたと思われる一つのコラムへ自然に目が行った。その見出しは次のようなものだった。
「プライムミニスター・オクノは、ダーク・ベイダーか?」
 なんと、ダーク・ベイダー、このコラム見出しも暗黒入りか! 誰でもわかることだが、かの伝説と化したSF映画『スター・ウォーズ』中で描かれる、悪の権化ダース・ベイダー(Darth Vader)をもじった表現に違いない。
 フォースの暗黒面を信奉するダース・ベイダーと、日本の奥野総理とが同一視されたも同然の記事である。ただしクエスチョンマークが付されているから、断定ではない。しかも対象が公人だから、これしきでは名誉毀損も立証しがたい。
 いとも巧妙な表現をしたものだが、もし日本の読者に訴えかけるなら、日本文化における「言霊(ことだま)」信仰まで利用したのかもしれなかった。見出しを一目見るだけで、その述べたい皮肉と、奥野総理に対する厳しい糾弾姿勢が、一瞬にして読者の心に届くのだ。
 信頼性の高い新聞ゆえに、公然の事実のみを使って紙面を構成しているだろう。日本政府から強く抗議しても、門前払いで無視されるに違いない。たとえアメリカ政府を通じようと、事実のみを報じるマスコミ報道の訂正や削除を、アメリカ政府側が要請するはずがない。
 内容を少しは読もうとしたところで、岩淵が絞り出すような声で叫んだ。
「為替介入が始まったようです!」
 今回もやはり百五十円を超えた瞬間に、日本政府側はドルなどの外貨を売りまくっているようだ。全員が固唾を呑んで、リアルタイム市況を注視した。
 ここから五円も円高に押し戻せればよしとするのだろうか? しかし今朝は百二十円台だったのだ。もっと強力に百三十円台にでも戻したいのだろうか?
 財務大臣の指示で、日銀が巨砲を撃ち続けているはずである。ただし、問い合わせても答えてくれるはずがない。事後にしか公表されず、覆面介入が原則なのだ。
「為替市場には、サーキットブレーカーの制度的な仕組みがない。上も下もどこまで行くかわかりませんぞ」
 近藤が指摘する。為替は株式と異なっていて、えらく厄介である。ただしFX取引などの先物市場にはその仕組みがある。しかしそれは現物市場との価格差で発動されるだけで、判定基準が異なるのだ。夜間に何度か先物の中断が行われたが、全て円安側への行き過ぎだった。
 一時的に百四十八円を割って円高側に押し戻した。とはいえ日本側が総力を結集しても、その程度の非力さにすぎなかった。円売りの圧力があまりにも強すぎたのである。
 世界中が円を売っているぞ!
 市況がそれをあまりにもあからさまに示している。円高の限界値を百四十八円程度といったん確認しえたからか、売り圧力がますます強まったようだ。もはや日銀が投げ出すのか……?
「カタストロフィです!」
 リアルタイム市況画面で、塚本がすでに警告していたカタストロフィポイントを超える取引値が表示された。一ドルが百六十円台に入った。しかもそのままさらに円安が進み続ける。日銀が急に弾切れに陥ったのか、ほぼ瞬間的な間隙を突かれたものと推測された。
 その夜、日本の破綻は決定的となった。塚本たちは一睡もせず、その歴史的な大事件を、目を皿のごとく凝視し続けるしかなかった。
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