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文字数 5,894文字

 翌日の午後になって、井手からLINESのメッセージが入った。
「まだおいでになりませんか?」
「どこへ?」
「いつもの会議室です。近藤さんのメールを見ておられませんか?」
 ついでに昨夜の真須美からのメッセージも残っていた。
「同志男よ、美女を待て!」
 その直前にはビデオ通話で「同志なら待ってるもんでしょ」と怒りを買ったのだ。
 急いでメールの側を確認すると、近藤から確かに短いメールが届いていた。
「可能なら会議室においでください。緊急です。円安警報」
 円安警報だと? 一分足で確認すると、突然の急変である。すでに五円以上の円安に振れているではないか。
 急いで上司の虎谷に了承を貰いに行った。
「いいけど、まさか、いよいよなのかい?」
 虎谷は目を三角にして、かなり慌てる素振りを見せ、しかもデスク上の書類まで取り落としてしまった。
「もし破綻したら、俺たちはどうしたらいいんだい?」
「今やるなら、キャッシュレスにしこたまチャージしとくぐらいですよ。預金が封鎖されかねませんから。それと僕も首を洗っとくぐらいです。公務員の大幅削減が来かねませんので」
「おい、キャッシュレスだ」
 虎谷は自分の首をさすりながら、近くにいた蓮沼(はすぬま)(おか)岩上(いわがみ)といった塚本の同僚たちにも声をかけた。グループ長の様子がおかしいからと、彼らも歩み寄ってきた。
「ほんとに破綻するの?」
 蓮沼女史は疑い深そうに眼鏡の弦をつまみながら問いかけた。
「いや、まだわかりません」
「チャージしたら、現金に戻せないのよ」
「損にはならないはずです。ポイントも付くでしょ」
 もともと日本が破綻する話など、ここでは誰一人としてほぼ問題視していなかったのだ。地銀の破綻が一件だけあったが、即座に対策が発表されて落着した。従来は日常生活から程遠い問題だったのだ。
 しかし岡や岩上も今日はいろいろ聞き出そうとする。現状の塚本では状況がわかるはずもないから、対策案のワンセットを定食形式のごとくかいつまんでおいた。かといって、不動産を今さら買えるはずもないし、銀行口座の手続きぐらいまでだろう。
「不動産は無理として、金券ショップでドル札を扱ってるとこでも、少額だけど買えますよ。銀行より手数料が割安です。しかもいつも前日のレートですから」
 そんな対策をしつこく訊かれながらも、隣接する財務省へと駆けつけた。
「遅いわよ、隣の建物のくせに」
 昨夜の不義理のせいで、真須美からの風当たりが特に厳しい。彼女への同行が義務ではないはずなのだが。
 井手と経産省の岩淵もすでに到着していた。全田も日銀からやって来られそうだという。そこへ近藤がスマホを耳に当てたまま入室してきた。
「今のところ、まだ『ANT(アント)』の情報だけのようですが」
 彼は「ANT」と言った。井手が調べて教えてくれたが、「アグリカルチュラル・ネットワーク・オブ・タイランド」の略称だという。タイにおける農産物の流通会社だ。そこが今後は円建ての販売契約を全て拒絶し、現在の売掛債権も米ドル建てでの支払いを要求しているという。
「ANTって、大きな会社なのかい?」
「タイでは大きいし、歴史のある会社だそうです。日本への輸出窓口で最大手です」
「そこが日本への農産物輸出で、円建てを完全拒否なのか!」
「しかも、中国も一目置かざるをえない企業みたいですよ」
 なんでも中国にはアントグループという企業があって、アリババのキャッシュレス決済を一手に担っている。趙主席がアリババと切り離せと強要して、マスコミでもしばしば報道された企業だ。日本でも使えるアリペイを扱っている。
 そのアントグループがタイに進出する際、ANT社が大きな障害になったらしい。同社の商標を侵害するとされたのだ。「チャイナのCを付けて、CANTにしろ」と要求された。
「すると、中国側が『ノー・ウィー・キャント』って答えたそうよ」
 真須美が苦笑気味に、まるでジョークのような外信を伝えてくれた。結果的に中国側はタイでは「ANTT」で商標登録したそうで、最後のTはタイランドを表すとのことだ。
「そのANTのせいで、こんなに円安が進んでるんですか?」
「いや」と近藤が答えた。
「国際局の横井審議官から、検討に協力してくれんかと言われたんだが、ANTの突然の発表で、おそらく円建て拒否が広がっているようだ。まだ情報を掴めてないのだが」
 近藤も焦燥を感じる口調だ。まさか円建て拒否のドミノ現象でも始まっているのだろうか。そんな動きなどごく小規模で留まることが多かろうが、万一、世界規模に拡大すれば歴史的な大事件に発展しかねない。
 大雪崩、いやANT社なら、蟻の一穴の喩えこそ相応しそうだ。果たして堤防の大決壊に至りつつあるのか?
「何か背後の陰謀などは推測されないんですか? どこかの国が糸を引いてるかなど?」
 塚本は一応尋ねてみた。ほとんどの暴落劇は真因を説明しがたい。しかし意図して暴落を仕掛けられることもあるだろう。もし何か手掛かりを見いだせるなら、対策の立てようがあるというものだ。
「今はわかりませんな。しかし予兆が少しはあったのかもしれません。つい先日、アメリカの資産運用大手が、日本国債から手を引く可能性をアナウンスしましたから」
 井手がすぐその記事を壁面ディスプレイに表示してくれた。金融会社が何らかの発表をする場合、背後に意図を持っていることが多いのだろう。
 日銀の恐竜買いのせいで、日本国債の流動性が大幅低下していることを理由にしている。しかも日銀の金融政策決定会合に向けて、利上げを催促していた形跡が見られる記事だった。
 おそらく円高を予想して、円を大量に買い持ちしたのだろう。どうやらこの会社は、その思惑を外してしまった可能性がありそうだった。
「うーん、だったら背後関係や陰謀の立案者ではなさそうですね。思惑外れで、今日は大損をしてるのじゃないでしょうか」
 日銀のせいで、市場機能が極端に低下してしまっている。市場での売買が何日も成立しなかったりするのだ。日本国債のうち指標銘柄と呼ばれるものでさえ、ほぼ十割近くを日銀が買い占めてしまったものがある。もうまともな取引ができない状況なのだ。
 そこへ日銀の全田が駆けつけてきて、開口一番に言った。
QUICK(クイック)ニュースによると、東南アジアで少なくとも五、六社が追随したらしいですな。まだ出てるかもしれんので、日銀に訊いてみます」
 QUICKニュースとは、日経新聞系列で配信している金融速報ニュースである。専用端末で受信する。QUICKに出ているなら、ロイターやブルームバーグではそれより早く報じた可能性がある。
 全田も近藤も〝本店〟に電話を入れて確認を進める。
「ブラジルとナイジェリアの企業が、円建てを拒否したらしいです」
「えらいことだが、エストニア政府が公式に円取引を除外する、と発表中だそうですぞ」
 小さな国だが、一国レベルで円を流通通貨として認めない決定を下したらしい。何事なのだ? 彼の国はIT先進国としても勇名を馳せている。金融情報を時々刻々、人工知能分析しつつ、その結果として決断したのかもしれなかった。
 エストニア情報は全田がもたらしたのだが、さすがの近藤も敗北を感じさせる唸り声を上げざるをえなかった。国家レベルで円の信認を拒絶したらしい。それで先方は困らないのか? いったいどうすればいいというのだ!
 おそらくどこともオプション取引などで、手持ちの円のドル転換を素早く確定させ、そのうえで発表しているのだ。円の急落がどんどん進んでいる。
 塚本もその急速さに目をみはっていた。オクノミクス3・0構想が発表されて、つい先日まで一ドル百十円台に戻りかねない勢いだったのだ。それが今日はもう百四十円台に突入した円安状態だ。ヘッジファンドなどの投機的な円売りだけではなく、世界中で一斉に円を見限りつつあるかと思われた。
「塚本さん、何かいい考えなど?」
「まだ……ありませんが……しかし」
 近藤の問いかけに、金融問題では駆け出しに過ぎぬ塚本が答えられる訳がない。手元のモバイルパソコンで検索を繰り返して、言うべき言葉を心の中で探ってみる。
「大手商社株が……軒並み売買停止措置を食らってますね。いわゆるサーキットブレーカーでしょう。ストップ安状態です。日経平均は千円下げのあたり」
「サーキットブレーカー」はアメリカ市場での用語だが、意味は通じる。各国から円建て取引に多大な制限を受けるなら、商社の業績は壊滅的な悪影響を受けかねないのだ。
「フラッシュクラッシュ状態ですな。為替介入を進言すべきかね?」
 近藤の言う「フラッシュクラッシュ」とは、株式相場や為替相場における急落劇を指す。「瞬間的な暴落」との意味である。人工知能を活用した超高速取引が広範囲に利用される時代となり、しかもほぼ全ての人工知能ソフトが同一方向の判定を出力するため、近年はますます起こりやすくなっているのだ。
「〝本店〟は百五十円超えまで様子見姿勢じゃないですか。前回もそうでした。総理や財務大臣の決断待ちになりますから、今はまだ市場分析などの情報を伝えてる段階にあるのではないでしょうか」
「分析か。何か君らしい見解を出せませんかね?」
「人工知能ソフトは……ほぼ市場の値動きと出来高を見て判定しているだけです。極端なクラッシュをいつまでも追い続けることはしない仕組みでしょう。適当に利食わないとリスクが高すぎますからね。だから戻りもほとんど瞬間的だと思いますよ」
 大した理由のないフラッシュクラッシュ――桁を間違った大量注文などで起こることがある――ならば、即座に何事もなかった取引圏まで復帰してしまうものである。
 国債市場はと見ると、当然ながら、日銀が定めた上限金利を上回っている。つまり国債の値下がりを意味するが、振れ幅が極端なものではない。日銀が指値で無制限の買いオペを実施しているからだ。オペとはオペレーションの略語だが、公開市場操作という意味である。
 日銀は暫く以前に国債購入額の上限を撤廃する決定を行った。近時は無制限の買いオペが日常化してしまっているのだ。その結果、発行済み国債の過半を日銀が抱え込んでしまい、ますます円の信認が揺らぎかねない。それが今回、円売りの大嵐を招く原因の一端にもなっているはずだ。
 円安・株安・債券安の「トリプル安」である。その最大の原因こそが、ここ数十年にわたる日本政府の放漫な財政政策だと断じるしかない。しかもここにいる誰もが未経験の領域に突入しつつあるらしい。未知の暗黒空間同然だ。道案内などそこには何一つ存在しないのだ。
 全田は頻りに日銀と連絡を取っている。官房長官か財務大臣に何か発言させろという進言があるらしい。政府と日銀は独立であるうえ、日銀は為替問題に対する責任機関ではない。ならば財務省から言ってもらうしかない。しかも財務省でもすでにその方向で動いているに違いないのだ。
 経産省の岩淵もまたお手上げ状態である。世界大恐慌の歴史面での分析には詳しいが、防御策の僅かなよすがさえ見いだせる訳ではない。市場の先行きを見据えているしかない状態だ。
「だったら、私の財政削減策でしょ。それを総理の緊急会見で言わせてみるのは?」
 真須美が無茶を提案し始めた。昨日の好評を引きずっているようだが、オクノミクス3・0をひっくり返そうとしても、総理がそれを受け入れるはずがない。そもそも彼の正体は〝積極破綻派〟ではないかと怪しんでいるぐらいだからだ。
 奥野総理の立場が、日本としては「正」に位置づけられるだろう。真須美の立場、それは近藤の助言もあって発表されたものだろうが、奥野総理に対置する「反」である。だったら、そこに塚本が得意の「合」を編み出せるのか?
「無理だな。奥野総理は反対意見を受け入れない男だしな」
「なんとかならないの?」
「奥野総理が辞任を発表すれば別だろ。しかも今泉総理並みの後釜が控えてて、獅子奮迅の活躍を期待できそうならな。円の暴落をいったん止められるかもしれないな」
「それでも『いったん』程度なの?」
「まあ、そういう可能性を売り手側が思いつき始める頃には、小康状態ぐらいにはなるかもしれないな」
 塚本は「合」を思いつけず、その場しのぎで苦し紛れの見通しを述べてみた。すると為替市場のほうが彼よりやや先行気味だったらしく、すでに市場は円高側に戻りつつあったのだ。岩淵がリアルタイム市況に見入りながら、僅かに安堵の表情を浮かべた。
「ほう、利食いが始まってますな。もともとかなり円高からスタートだったため、ピークは百五十円台まで行かなかったようです。おお、円買いの嵐になってきましたぞ」
 ヘッジファンドなどはごく短期の売買を繰り返しつつ、めまぐるしい値動きを繰り返す。彼らは常に早い者勝ちだ。素人投資家たちがそれについていけず、遅れた分だけ損失を抱え込む。しかし塚本はそれも単に小康状態にすぎないと考えた。他のメンバーも同様の見解が多かっただろう。近藤は緊急に進言すべき対策案を述べてみた。
「〝本店〟も同じ考え方でしょうが、財務大臣と官房長官に『投機的な動きが強い場合には、断固たる措置を取る』と言ってもらいましょうか。いかがですか」
 全田も同意見だった。「断固たる措置」とは従来から為替介入を強く匂わせる表現として使われている。小康状態に入るなら、ドルやユーロの無駄弾を撃つ必要もない訳だ。
「それからですが」と塚本がようやく別の一案を述べてみた。
「やはり通貨の盾が役立つと思うんです。国債市場での海外からの売りが、思ったより少ないんじゃないでしょうか。だったら海外政府との何らかの協約を暗示するような情報を、国内の金融機関にリークしてもらえれば、かなり効果的だと思います。日本国債の信認は国際的に揺らいでいないとわかってもらえて、彼らが売り急がなくなるでしょう」
 国債は日銀が無制限に買い支え続けているがゆえに、今日も暴落を免れている。しかも世間では、「日本の破綻」はすなわち「国債の破綻」を意味すると考えられがちだ。それを逆手に取って、国債は大丈夫だと、銀行などの売り圧力を積極的に抑制させようという発想である。外国政府との「密約」の可能性までは言えないが、その種のリップサービスが役立つ可能性があるのだ。
「なるほど。それも〝本店〟に必ず伝えましょう」
 近藤は二つ返事で引き受けた。この場には密約論を知らない者もいたが、抽象的な表現だったため、注意を引くことなくすり抜けてしまった。
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