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文字数 2,877文字

 財務省は他省庁に比べて厳に格上であって、予算折衝に行くときにも、常に相手より上位の肩書きの者が出向かねばならない。そんな暗黙のルールが霞が関では常識である。
 銀行の取り付け騒ぎが起こり始めた翌日に、そこの会議に出席するというのは、経済に関して素人同然の塚本には気分が重い限りだった。
 しかし少しは気を取り直してみた。今日の行き先はそこの〝保養所〟であり、すなわち財務政策研究所という部署だ。研究所の研究員というのは国の政策に直接関与する訳ではない。まあ、わざわざ相手から依頼されて行くのだから、ある程度は気楽な立場で参加すればいいのだろう。
 わが文科省に隣接する財務省へ出向き、玄関で身分証のチェックを受けた。古びた石造りの内部へと入っていく。基本構造はコンクリートだが、床は板張りだ。廊下に立つと、内部の色調はほぼ薄茶とグレー一色。一部に赤いカーペットが敷いてあるが、それがなければ、まるで日本が貧しかった時代の校舎内のような印象を醸している。
 玄関からすぐにエレベーターがあったので、それで四階へと上がる。研究所というのはだいたい上層階にあって、まさに〝保養所〟に相応しい配置だ。忙しい部局は下層階に置かれるのが通例である。
 目当ての会議室は簡単に見つかった。両開きのドアの片側が開け放ってあって、そこから入って名乗った。
「科学政策研究所の塚本です」
「ようこそ」
 と正面中央の席から穏やかな視線が向けられた。頭がほとんど白髪で、それをややたてがみ風にカットしているが、口元がかなり老けて見える人物だ。彼が主催者である近藤氏らしかった。
 財務省の外観は古風だが、室内はごく当たり前の小部屋の内装に設えられていた。世話を担当する長身で痩せぎすの女性が座席へ案内してくれた。折り畳みテーブルを会議用に並べた席には、所属を付した名札が置いてあった。すでに数人が集まり始めていたから、塚本は軽く会釈しつつ座った。
 こういう場ではいつも各自の席に文書類の束が置かれているものだ。今日は厚さ三センチほどの束があった。会議中にそんな配布書類のほとんどに目を通してしまう能力が要求される。斜め読みで内容を理解しなければならないのだ。
 太字の部分を読んでいけば、だいたいの意味がわかるし、図表がかなりの割合を占めている。ここでは誰もが慣れた調子でページをめくっているようだ。
 今回のメンバーのリストが一番上に置いてある。霞が関のオープンネットワークへの接続手順書も一応入っている。それは霞が関内の人間にはわかりきった手順だから、塚本も早速モバイルパソコンを取り出して接続しておいた。
 何かの用紙に署名させられるかと予想したのだが、守秘義務の誓約書といった類の書類は一切ない。通常の公務員規程に従えばよい訳で、会議の運営は特に厳密なものではなさそうだ。
 書類をめくっていくと、国の債務残高に関しては、普通国債が千兆円を超えたという数字でさえ控えめなほうだった。さまざまに合算すれば、千五百兆円に達しつつあるという積算値までが併記されているではないか。
 最もよく引用される債務残高は、IMFつまり国際通貨基金が集計して公表しているもので、日本の場合はGDPの二倍半以上に達している。これは一般政府という概念に基づくもので、すなわち地方債なども合算しているが、国内総生産という国の経済規模をこんなに上回っては、いったいどうやって返済するというのだろうか。
 しかもG7を構成する先進国では、イタリアもすでにGDPの一・五倍に達している。それ以外の国もドイツの〇・七倍を除けば一倍を超えている。いずこも借金財政が常態化しているのである。
 ではどの程度の債務比率で国家財政が破綻するものなのか? 例えばギリシャ経済はGDP比一・一倍程度で破綻した。日本の二倍半以上というのは、確かに世界的に異常だが、単に債務比率だけで破綻が決まるものではないようだ。
 さまざまな数値が掲げられているが、奥野総理が政権を取ってから、国の借金はすでに「三百兆円以上」も増えている。日本国債の格付けは世界で「二十五位」にまで下がっている。隣の韓国が十五位で、中国さえ日本より信用度で上回っている。しかも以前、日本から世界の格付け会社に対して強い苦情を申し入れた事情があって、現在の格付けは〝上げ底〟といえる可能性さえある。
 そんな奥野政権下での経済状況はというと、GDPで測った経済成長率を見ると、奥野総理があれほど成長戦略と叫び続けたにも拘わらず、実質値で「年率〇・五パーセント」程度という超低成長しか達成できていない。十年がかりで三百兆円も注ぎ込んでも、たった五パーセントしか成長しないのでは、なんと低レベルな政権だろう。
 さらに米ドル換算のGDPの数値を見て、塚本はもっと驚いた。奥野政権以前の二〇一二年に比べて、IMFによる公表値では、なんとGDPが「三十二パーセント」も減少しているではないか。奥野総理が円安に誘導したり、直近ではアメリカで金融引き締めが始まった影響が重なったが、日本経済は惨憺たる状況下にある訳だ。
 しかも一人当たりGDPで見れば、その惨状はさらに明確である。二〇〇〇年には世界二位でありえたものの、そこから急落し続けてきた。奥野政権では底這いを回復できるどころか、最悪の「三十一位」にまで下がった。ブルネイより下で、バハマと並ぶレベルである。
 ただ、為替レートは頻繁に流れが変わる。もっと円安にもなれば、逆の円高にもなる。しかも極めて投機的な市場だ。
 塚本はそれを一種の数学ゲームとして考えるだけだが、日本が破綻する寸前に、急な円高や株高に振れてもけっしておかしくないだろう。素人を罠にはめるためのいわゆる〝ダマシ〟である。庶民が慌てて円買いや株買いに追随しても、実は〝ババ〟を掴まされるにすぎない。急転直下、円や株価の大暴落に見舞われるのだ。
「誰かの得は、誰かの損」が市場の鉄則である。投機的市場がいつも素人の読みどおりに動くのでは、プロは儲からない。素人に損をさせる値動きをさせるからこそ、プロは高い収益率を達成できるのである。
 国内で直視すべき数値が資料中にはさまざまに並んでいた。世界競争力ランキングでは、日本は過去最低の「三十四位」に堕した。一九九〇年前後まで一位を誇った国がそこまで凋落したのである。オクノミクスと大仰に言いながら、実態は下落し続けるばかりだ。
 種々の経済データを見れば、奥野総理が反論もしようもないほど、オクノミクスは大失政だというほかなさそうだった。GDPも実際のところは、国の借金まみれ予算を注ぎ込み続けて、恒例と化した〝超厚化粧〟が施されているのである。
 しかしマスコミはほぼ口をつぐんでいる。深刻な実態が庶民の目から隠蔽されるためか、奥野内閣の支持率はそこそこを維持し続けている。客観的なデータを見るなら、塚本レベルの素人考えでも、わが国の経済はすでに末期状態かと懸念すべきだった。しかも銀行の取り付け騒ぎまでが起こり始めているのだ。
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