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文字数 2,969文字

 こちらの文部科学省は地上三十三階建てだが、あちらの財務省は戦後すぐに建てられたままで、遥かに低い五階建てだった。そんな古色まみれの建物を見せつけて、緊縮財政の範を示しているつもりだろう。しかし国の予算が無際限に膨らみ続けるのを防ぎきれないままでいる。そして累積する借金はとっくに千兆円を超えてしまったのだ。
 そんなところに自分が参加しても、果たして少しでもまともな役割を務められるものだろうか? 塚本は数日ほど自分の知識や考えを整理していた。
「Xデーか……」
 今回、それは国がついに財政破綻する運命の日を指す符牒として使われている言葉だった。千兆円を上回る日本国債が紙クズ同然と化す日である。国の債務の現状については、財務省側でもうすぐ詳しく教えてくれるだろうから、塚本はまだわざわざ調べる必要を感じなかった。
「そんなもの、考えたこともなかったぞ」
 塚本は独りごちた。おそらくごく一部の者を除いては、その恐怖の日を不断に考えてなどいないはずだ。国の中枢である永田町や霞が関においてもである。彼自身も正直なところ、そんな雲を掴むような問題にはこれまで関心を寄せてこなかった。
 考え始めた入口で、塚本としては、近年の政治状況やマスコミ状況などのほうがより気になってきた。なぜマスコミは政府の異常な債務状況についてほとんど騒ぎ立てず、いつでも控えめにしか報道しないのだろうか?
 たまに新聞で見かけるのは、「借金が千何百兆円になった、国民一人当たり何百万円で、それは困った問題だ」程度の内容だ。それを大きくもない記事で載せてお終いというのが通常である。
 マスコミが取り立てて報道したがらない理由を推し量れば、当然ながらマスコミ各社はごく慎重だからだろう。日本政府が財政破綻する日が間近だなどとうっかり書き立てて、かえってその報道が現実に破綻の引き金になろうものなら大変だ。
 ただ、過去にインターネットの書き込みを見ていて、奥野総理が陰謀とも呼ぶべき「言論の封殺」を仕掛けていたことを程なく思い出した。そんな無茶をするのかと胸が悪くなった記憶が蘇ったのだ。しかも最近もその問題がまたも蒸し返されていた。
 マスコミが政府批判の報道を続けるなら、その社のテレビ電波を停止する措置がありうる。奥野総理が現在まで続く政権を握ってまもなく、当時の高石(たかいし)総務大臣が突然そんな脅しをかけ、その影響がいまだに霧消していない。
 大手新聞社は各社ともテレビ局を有している。放送法には「政治的公平を守れ」、「事実をまげるな」、「公序良俗を害するな」との条項があるのを高石大臣は盾に取り、公共の電波を貸しているのだからと、放送免許の停止に言及したのだ。
 記憶を辿ったり、インターネットの書き込みをチェックすると、それ以来、大手マスコミの歯切れがかなり悪くなったようだった。政府発表や明らかな事実は報道できるが、そうでなければ政治的中立ということで、国民の意見がどんなに偏っていようと、テレビ局は賛成と反対の声をほぼ同数で流すのである。
 テレビのコメンテーターたちが買収されているのでは、との臆測もなされたらしい。インターネットでは右翼系の意見が異様に目立つことがあり、新自党がその大もとの一つに資金を提供していたと暴露されたりもした。万事、奥野総理がリモコンで世論操作を行っているのかと危惧されてきた訳である。
 そんな経過もあって、「報道の自由度」という観点で、国境なき記者団は日本を「七十位台」まで格下げしてしまった。奥野政権の少し以前には「十一位」という時期もあった。約百八十国中で、上位は北欧諸国が占めるが、かつての日本もそこそこ善戦していたのである。
 そんな格下げがなされようと、奥野総理は気にすることなく、国民はいたって御しやすい存在らしい。「責任を痛感している」とさえ発言すれば、後は何もやらなくても、国民はそれで済んだものにしてくれる。彼の悪行報道もたちまち忘れてくれるし、大多数の国民はマスコミ報道をいちいち詳しく追わないのだ。
 塚本自身もこれまで、新聞やテレビのニュースをごく断片的に目にしている程度だった。いざ委嘱されたからと泥縄で考え始めても、まだまだごく皮相な観察に留まらざるをえない。
「やっぱり社会科が苦手だったもんなあ。今さらなんともならんけど」
 子供の頃から理系的な頭だと自認し、暗記科目はとんと好きになれなかった。ごく少数の法則や数式だけで、快刀乱麻のごとく難問を解決する爽快さにこそ満足感を得ていた。彼は権謀術数の政治家たちとは相当タイプが異なる人間なのだ。
「しかし右傾化だけは気になるな。……国の借金とは関係なさそうだけど」
 そこに注目したのは、理系人間の一部にある不思議な直感力のなせる業だったのかもしれない。まだ答えがわかるはずもないうちから、正解に必要となる必須条件を無意識のうちに把握することがあるのだ。そして今回の直感が正しかったことを。やがて仲間たちからも教えられるのだが、今はまだ単に「謎」の一言でしかなかった。
 ただ、世論のど真ん中なるものは、右傾化・保守化へとどんどん片寄せられ続けているように思えた。従来の真ん中でさえ、奥野総理にかかれば「反日」だと極言される。しかもその種の偏ったネット世論が増え続けるものだから、特に若者たちが右傾化へと流れていってしまうのである。
 そんな観察の深奥に、さらに恐ろしい策謀が潜んでいることには、彼はまだまるで気づくことができなかった。おそらく国民のほとんども気づけないのだ。
 例えば彼とその仲間たちの考察は、やがて「なぜ庶民の給料が上がりにくいのか」といったごく身近な問題にも及ぶだけではない。「政府が原発をそんなにも性急に再び推進し始めたのはなぜか」といった問題などにも、その深層で繋がっていくのである。
 国民が思い及ばない深い理由を突き止めていけば、そこには取り返しのつかないほどの政治の劣化があるのだろう。
 国民が敗残者と化しつつありそうだとの予感――そんな臭いを塚本は辛うじて嗅ぎつけつつある気がした。
 奥野総理は国の財政健全化には目もくれず、「今は国難だ」などと言いつのっては、際限なく国債の借金を増やして配りまくる。政治家も官僚も予算を取れれば勝ち組だ。彼らにとって借金財政は必要悪どころか絶対善であり、その旗を振る奥野こそを支持するのだ。
 そして奥野総理の最強の一手――それは彼に魂を売る人物を日銀総裁に押し込み、紙幣をきりなく発行させることだったろう。そうすることができて、奥野政権は見かけ上の安泰をこれまで続けてこられたのだ。
 しかしその難局を打開する方策など、塚本がごく素人考え的な推論を進めていても、今はとうてい思いつけそうになかった。もちろん奥野政権を転覆させようなどという大それた思いも全くない。
 彼が心底からテーマにしたかったのは、たとえどんな政治状況で、国がいかなる窮状に陥ろうと、彼自身を含む庶民たちの生活をいかに救済するか、というごく身近な視点での問題意識だった。そもそも高みから天下国家を論じることなど、もともと苦手だったのだから。
「しかし、こんな自分にできるのかな……?」
 いろいろ考えあぐねてみても、やはり彼には自信がまるでないままだった。
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