プロローグ

文字数 5,606文字

   プロローグ

 北口は喧騒に包まれていた。両方向の列車がたまたまほぼ同時に到着して、目に焦燥を浮かべる人々が大量に吐き出された。他人を押しのけてでも出口へ急ごうとする者が稀でない。後ろ手には買い物カート、あるいは旅行用スーツケース、大きなリュックを背負っている者もいる。彼らは現在の状況が尋常ではないとおそらく勘づいているに違いなかった。
 近藤(こんどう)洋忠(ひろただ)もその人波に押し流されながら、ようやく道路に出ることができた。彼の頭上には皮肉なまでにうららかな日和があった。それはここ数日始まったばかりの異変とはまるで似つかわしくなかった。駅前のビルの谷間からは薄くてちっぽけな雲のかけら、それがただ一つ望見できるだけだ。
 けれども道路上は、大群の鼠たちがまるで死の行進へと押し寄せているかの錯覚を起こさせる様相を呈していた。数人の交通警官の誘導によって、商店街への横断歩道は辛うじて平穏を保たれていた。
 この北口からのほんの駅近には、何軒あるかわからないほどスーパーマーケットが林立している。アメーバ状に侵食を拡大し続けてきた商店街は、名前を検索して存在しない店がないと思うほど各社が進出を極めている地帯だ。
 住みたい街だといわれて久しいし、近藤もほんの一駅先に住んでいて、普段は自転車で買い物に来ることがほとんどだった。ただ今朝は大きめのスーツケースを引きずってきていた。
 近藤は歳より老けて見えるほうだが、それでも店へ買い物に行くと、お客は彼より年上が半数以上だろう。そんな印象が日常になってしまって、この国はすっかり老いぼれてしまったのだ。
 人の流れは主に商店街すぐの横道に入り、今日はあるスーパーへと向かっていた。入店制限が行われているのか、長い行列ができて、整理券を配っているようだ。毎日のようにとんでもない値上げが続いているから、買い物をするのも一苦労だ。
 その少し先の同業店は入口をブルーシートで塞がれ、規制線までが張られている。一昨日ちょっとした騒動があったと報道された店だろう。道理で道の角々には警官が点在しているではないか。
 近藤は食料の買い入れは後回しにする予定だったため、予約してある店へとまず向かった。途中の店舗はシャッターが下りたままのところだらけである。若い人向けのファッション店などは開店がもっと遅いのが通例だが、普段開いているはずの店も臨時休業の張り紙が出ている。
 コンビニのガラス越しには商品がほとんど消えていて、からっぽの棚ばかりが目立っていた。ステンレスパイプの素通し型シャッターで閉ざされた店でも、その奥のショーウィンドウのマネキンが片付けられ、ゴーストタウンかと見紛う殺風景さだ。
 そこで働いていた従業員たちは、今どうしているのだろうか? まだ自宅待機程度か? それでもパート従業員やアルバイトたちは無給になってしまう。もしこの状態が長引けば、失職者が激増するだろう。日本経済の大異変が起こりつつあるのかもしれないが、その最大の皺寄せは、いつもながら非正規雇用者たちに集中的に押し寄せかねないのだ。
 一億人が総買い物難民と化して、見慣れた牛丼屋チェーンまでが臨時休業していた。二十四時間営業の外食店では、即応して値上げするタイミングがなく、客とトラブルになりやすいという問題に直面したらしい。それゆえ営業体制を検討中とのことだ。
 近藤が目指していた店が商店街で中ほどにある角地に見えた。貴金属やブランド物の買い取りを本業とする有名チェーン店だった。彼自身の日常には縁などありそうにない業種だった。
 入口の自動ドアを通ると、中はソファをしつらえた小部屋で、「ご来店のお客様は番号札をお取りください」と女性の合成音声が流れた。奥に通じる自動ドアがもう一つあって、先客は特にいない。待ち人数が一人だと表示されているプリンター式の小さな装置から番号札を引き抜いた。
 奥の部屋に先客がいるのかもしれないが、音が全く漏れてこないからわからない。座り込んだのが待合室という訳だが、天井の二隅に当然ながら監視カメラが設置されているし、店外にもプラスチックフードで隠したカメラがあったと思う。
 ほんの五分余り待ったところで、奥のドアが開いた。高齢で身なりのよい男性客が出てきた。彼はポーカーフェースというべきか、近藤に軽く目を合わせた程度で、感情を読み取られることもなく出ていった。
「次のお客様、どうぞお入りください」
 と合成音声が近藤の番号を告げて招き入れた。自動ドアを通ると、三十過ぎぐらいの店員が丁重そうな物腰で立ち上がり、カウンターと透明アクリル板で仕切られた向こう側で頭を下げながら椅子を勧めた。
「予約しておいた近藤です」
「ようこそいらっしゃいました。アメリカドルのご購入でございますね」
 店員は主任だとの名刺を差し出し、特に客を値踏みする様子もない。どんな客が訪れたかはとっくにカメラでチェック済みに違いない。努めて明るい目をして、にっこりと営業用に微笑んだ。
「どこの銀行でも両替してくれなくってね。金券ショップでもドル札が滅多に入らないらしい。困ってたら、お宅で手に入れられるとたまたま聞いたんですよ」
「そうですか。今朝のレートは一ドル二百十三円余りになります。百万円以下のご購入に限定させていただいておりますが、それ以上は三百万円までは即日で十円高、さらにそれ以上ですと翌日のご予約で、また少々お高くなります」
「もうそんなに高くなりましたか。昨日の市場レートは二百円の手前だと思ったのですが」
「恐縮ですが、当店は銀行とは違います。午後にはさらにレートが上がりかねませんので、今ならお得だと存じます」
 交換手数料が一ドル当たり五円近く、それ自体が銀行より割高だ。しかも通貨の交換レートは日毎に決めるのが習慣のはずなのに、この店は午前と午後で変えているのだ。
「まだドル高が進みそうですか。よくわからんのですが」
「一年もしないで一ドルが一万円超えだという予想まで出ております。だったら今日のレートならただ同然ですが、どうなさいますか」
 常人には信じがたいレートだ。もし一ドル一万円なら、以前に百円ほどで慣れ親しんできた為替レートの百倍である。そうなったら、輸入品の価格が百倍にも高騰してしまう。しかし物価が百倍にもなるハイパーインフレだとすでに噂されていた。しかもそれが非現実的な予想でないかもしれないから、今はまさに異常事態なのだ。
「しかし、予想というのは当たるものでもないでしょう」
「ご卓見です。当店が高いと思われれば、安いところをお探しになられてもよろしいのですが」
 店員は自信さえ漂わせながら微笑み、このチェーン店が唱える価格の決め方なるものを説明し始めた。
「すでにあちこちに問い合わせてこられたように、銀行でも外貨を買えません。売ってくれないというより、彼らも今や外貨をほとんど調達できないのです。近藤様はプライスリーダーという言葉をご存知ですか」
「ああ、大手企業など、価格決定権を握っている企業とかブランドとかだね」
「そのとおりです。現在は何でも高値気味で販売する業者がプライスリーダーになりえます。なぜなら安値で販売しようとする業者は、次に売る商品を調達しようにも、調達競争で負けざるをえませんし、そんな業者は調達資金もすぐに尽きてしまうんです。お帰りにスーパーマーケットでも覗いてみられませんか」
「スーパー、かね?」
「そうです。安く売る店は、入荷した商品自体がもともと少ないです。それがあっという間に売り切れて、今ごろ行っても閑古鳥が鳴いています。一方、高値の店には在庫品がまずまず豊富にあります。しかもお客としては、結局その店で買うしかないため、そこがプライスリーダーになっていくんです」
「うーん……そういえば、そうかもしれないね」
 近藤は口ごもったが、店員側はそれを見透かしたかのように、さらに理路整然と畳みかけてきた。
「はい、そして翌日は安値側の店も、結局、高値側の価格設定にならうのが得だということに気づきます。そんな日常が続いていくのが現在の状況なんです。特に政府が物価の間断ない上昇を密かに望んでいる場合などは、十中八九そうなり続けると言ってよいでしょう」
 店員はことさらにキリリとした面つきで、親指を天井に向けた。その親指が指し示すように、政府は極端な物価上昇を望んでいる……。近藤自身もその指摘がおおむね妥当だろうと同調したいし、実は霞が関でも公然の秘密として語られ続けてきた策謀でもあった。
 物価を百倍にすれば、破綻寸前となっている国の借金問題を根本的に解決できるのだ。千兆円を超える借金が、百分の一ほどの負担へと、実質的に減価してしまうからだ。それをやってのけんとする悪政は、まさに戦後間もなくのハイパーインフレを真似ようとする企みであり、奥野総理による新自党政権が研究し尽くしたはずの〝いつか来た道〟である。
「ああ、敗戦後、膨大な戦時国債を紙クズと化すのに成功しましたな。悪辣極まるというべきか、国を救ったというべきか……。日本政府は救われたが、国民は貧困のどん底に突き落とされました。全く酷い目でしたね」
「そのとおりです。ここへおいでになるお客様には、その話をご存じの方が多いのです。そして外貨や貴金属をお求めになります」
「じゃ、外貨と金塊ではどちらのほうがいいのかね」
 初老とも見える客は、貴金属を指摘されて一瞬、迷うような表情を返した。
「もちろん外貨をお薦めしますよ」
 店員は当然のごとくと即座に答えた。
「なぜ?」
 これは普通の素人には理由を思いつけそうにない問題だった。近藤は僅かに目を泳がせそうな表情を返した。
「実は貴金属の価格は、世界的な金融危機の際には、たいてい危機前にピークを打ってるんです。そして危機が襲うや、懐具合に困った人たちが貴金属を処分して、どんどん値下がりするんですよ。外貨と比較すると、資産保全の効果がだいぶ落ちます。ただ、戦争のときだけは別で、必ず価値を保つ貴金属をお薦めしますが」
 ひときわ真面目な表情をしつつ、店員は説明してくれた。もっともな理由を付けて外貨を推奨してくれるのだから、顧客はその店員と店に誠実な印象を感じて、ますます信用してしまうだろう。店用のマニュアルがあるにしても、理路整然側の勝利である。
「なるほど、よくわかりました。では、米ドルをお願いしましょう。百万円で買える範囲で」
「それはありがとうございます。新札はございませんが、百ドル札を中心に、使いやすいように十ドル札と一ドル札を適当に組み合わせてよろしいでしょうか」
 店員は心の中でガッツポーズをしたに違いないが、外向きは物柔らかな表情のまま、顧客が書く必要のある用紙を差し出し、それとともに身分証明の提示を求めた。
「マイナンバーでね。書類は税金の関係だろうね」
「さようです。売買益があった場合に記録が必ず残る仕組みです。それから販売記録の書類をお渡ししますが、大切に保管なさってください。外貨を売却される場合、当店で購入されたお客様には、いつでもその日の販売価格で引き取らせていただきます。レート的にお得になります」
 よそで入手した外貨はそれより安値になるらしい。そんなアフターサービスも用意して信用を得ている店なのだ。
「それはどうもありがとう」
 取引を支障なく終えて、近藤は店員に丁重に送られつつドアから出た。待合スペースにはすでに次の客が一人待っていた。近藤と同じくスーツケースを持参していたから、近辺での買い物も兼ねているのだろう。「お先に」と軽く目礼しつつ店を後にした。ここでは誰もがポーカーフェースを決め込むのが自然なようだった。
 商店街の人通りはまだ普段よりかなり多めだったが、今日の目玉商品だと目星をつけていたスーパーへ寄っても、買い得の商品はとっくにかき消え、店内はすでに閑散とした状態だった。特価のワゴンや商品棚がぽっかりと空きスペースだらけになり、いつも積んであったはずの米の十キロ袋なども全くない。
 仕方がないから別のスーパーを物色した。たとえ最も安い店で売り切れてしまっても、それが生活必需品なら、客はどこかの店で買わざるをえなくなる。ほぼ二割高といった店にもちゃんと客が訪れていて、レジに行列ができているのだ。近藤もそこで買うしかなかった。米など保存の利く食品をいろいろ買い溜めしてくれと妻に頼まれたからだ。
 そして高めの店であろうと、表示どおりの価格でいったん売れてしまえば、翌日はそれが当たり前の値付けになる。よその店がそれにならっても十分に売れるからだ。他方、即座に売り切れて、品切れだらけになる店は、安い価格で仕入れ続けられる訳もなく、結局のところ市場の価格形成にほぼ寄与できないことになってしまうのだ。
 要するに需給逼迫の折には、高い価格を付けた店のほうが、商品を豊富に仕入れられ、たいていの客がそこで買わざるをえない状態に陥る。するとその高値がすぐ当たり前と化してしまい、高い側がプライスリーダー化するのである。
 近藤は暫く以前の会議での議論を頻りに思い出しつつ、駅への道でごく小さく呟いた。
「あのとき塚本(つかもと)君の言ってたことが、やはり正しかったようだな」
 それは近藤にとって苦い同意だった。しかも彼らが辛うじてこの情勢をおおよそ予測しえていたとしても、これから先はもっと途方もない事態に見舞われるに違いないのだ。
 日本国民は、そして日本政府は、この難局を果たして乗り切れるのだろうか? 考えようとしても、彼とその仲間たちにとって、それはあまりにも負担の重すぎる問題だった。
 しかも永田町も霞が関も、国賊同然の奥野総理に忖度する者どもが山ほど巣食っていて、日本をますます不幸にしかねないと予感するのだ……。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み