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文字数 1,708文字

   第一章 Xデーに備えよ

 物語はひとまず異変を何か月か遡った時点へと時計を戻す。
 やがて来ると巷間で噂され続けてきた運命の「Xデー」を乗り切ろうと、あらんかぎりの知恵を絞り出し、この日本を救おうとする人々――。彼らは霞が関では傍流であり、誰もが無名にすぎない。その中でも特に若い人々の力が結集された奮闘記である。
 塚本(つかもと)悠生(ゆうせい)は「Xデーについて考えてくれ」、「仲間に加わってくれ」という唐突でもあり、かつ奇妙でもある要請に応えて、思いがけずも協力することになった。
 彼は霞が関の中央官庁街でも研究所勤務だから、内部的にはいわゆる〝本店〟の出世コースから外れた立場である。研究所の扱いは子会社ほどかといえば、もっと酷くて〝保養所〟だと陰口を叩かれることがよくある。
 ただある意味で羨望を受けている部署でもある。〝本店〟勤務のキャリア官僚たちはまさに昼も夜もなく働かされ、仕事内容に嫌気が差したり、過労ゆえに体を壊し、愛想を尽かして辞めていく者が数多いからだ。
 塚本自身は就職時から研究所勤務を希望していた。面接試験では総合職に相応しく〝本店〟勤務を勧められた覚えがあるが、少し体力がありそうに見えただけだろう。彼ははにかみながら固辞し続け、研究所に滑り込んだ。
 研究所では現在は予測調査のグループに所属していた。有識者に何度も問い合わせをして、未来予測を収束させていく。その手法には伝統的にデルファイなどという大仰な冠が被せられていた。しかし実績上、どこがデルファイの神託だというほど当たらない。いわゆる有識者たちは専門分野の狭い知識にこだわり過ぎていて、茫漠たる未来を見通すにはあまり当てにできないのだ。
「数字に強ければよさそうだね」
 グループ長の虎谷(とらたに)がそう言って持ちかけるものだから、塚本は迷いなく二つ返事同然で引き受けた。その仕事のほうが、タコツボ住まいの有識者たちの相手をするよりも、かなり面白そうに感じられたからだ。
 国の借金が千兆円といえば十六桁にもなるではないか。日常生活から遥かにかけ離れた数字だ。一億円の札束は厚みが一メートルほどになる。千兆円は単純計算では、札束を一万キロメートルも積み重ねた高さに相当する。成層圏が五十キロメートルほどまでだから、その二百倍である。
 ただ、虎谷との二人での納得は、単に数字という問題だけで一致したのではなかった。塚本は大学の数理系を出たが、やがて数式だらけの問題を離れ、情勢変化に人はどのように対応すべきかや、ひいては権謀術数や陰謀にどう立ち向かうべきかといったテーマにまで広がっていたからだ。
「しかし、あまりお役に立てないかもしれませんよ」
「ま、論文を書く訳じゃないしね。君のセンスを生かしてくれればいいんだよ」
 虎谷は彼を二十代のうちに海外留学にも派遣してくれた。アメリカでこの分野の最先端の知識を身につけることができたし、特に行動するための科学といったセンスを磨くのに非常に役立ったから、塚本は常に虎谷に恩義を感じているのだ。
「こんな状況で最高の対処法は、逃げるに如かずですよ。家族と全財産ともども国外へ逃げます。ただ逃げられる人はごく僅かだから、まともに考えるのはえらく難問ですよ」
「だろうなあ。誰も解けん問題かな」
「……次善の策で妥協、かもしれませんね」
 いや、次善の策さえありえないかもしれない。この困難な状況下で新自党の奥野(おくの)春蔵(しゅんぞう)総理が長期政権をいつまでも握り続け、その経済政策である「オクノミクス」によって、事態をさらに悪化させるかと危惧されるのだ。
 しかもたとえ政権が変わっても、もし新しい首相に主体性が欠如していれば、ずるずると同様の政策を続けかねないのである。
「先方では何年か続けていて、年ごとにメンバーを入れ替えているそうだ。今回もその延長にすぎんから、あまり荷が重いと考えなくてもいいだろう」
 道を挟んでほんの隣地に位置する財務省の建物に通うだけである。普段から眼下に見下ろしてきたあの古びた建物が、この難問を解決せねばならない中枢だ。しかし霞が関の上層部はすでに奥野総理によって人事権を握られてしまい、無力感が充満しているのも事実なのだ。
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