納骨堂解放

文字数 1,751文字

見知らぬ場所、見知らぬ人々と、ほんの少しの顔見知り。
色々聞きたいことはある。話したい事はある。けれど、先ずは自分の身に置かれた状況を落ち着いて整理したかった。
「...…池が、あるのよね。行ってみようかしら。」
​心静まる綺麗な水辺を求めて、多喜里は少し覚束無い足取りで、池の方へと向かっていった。
しかしそこにあったのは、溜池として作られたであろう、水源のない汚らしい緑の水であった。底の見通せぬほどに濁り、生き物の気配もない。池を囲んでいる石も、幾重にも苔が覆いかぶさり、すっかり灰色の影すら見当たらない。
「あらぁ……」
期待外れの風景にやや愕然とし、多喜里は目の前の現実を暫しぼんやりと眺めていた。
「これじゃお魚さんも泳いでないわね、残念」
濁りきった水面。辛うじて映る、緑がかった己の姿を見て、多喜里は沈んだ気持ちになる。淵を囲む石でさえ、眺めるだけでどんよりするような汚さだ。
「この石だって、迂闊に乗ると滑って落ちちゃいそうだし……」
溜池のような見た目、ならばある程度の深さはあることだろう。何か、深度を測れるものでもあれば……
「……長いもの」
そうだ、長いものだ。ついでに掃除が出来れば尚更良い。即ち、箒のようなものさえあれば!
「掃除用具と言ったら、倉庫か何かよねぇ。確かあっちに、納屋みたいな場所があったはずだわ!」
思いついたが吉日。素晴らしいアイデアに顔を輝かせ、多喜里はすぐさま立ち上がると、用具を求めて納屋へと向かっていった。
しかし、その笑顔は、考えを実行すると同時に消え失せた。
「……なんで?」
薄暗い納屋から引っ張り出してきた箒は、苔から石を剥がすにはあまりにも役に立たず、加えて水深を測ろうにも何故だか使い物にならなくなってしまった。
なんとも奇想天外極まりないことに、水の中に入れた瞬間、ばちん!と何かに挟まれるような音がしたかと思えば、水に浸った部分が綺麗に切断されてしまったのだ。
「いやいやいや、普通に考えてもおかしいでしょ。うわ、キレイにスッパリ……やだ、怖いわねぇ……」
残った柄でどうにか出来ないかと模索するが、悲しいことに表層に傷がつくのみ。多喜里はがっくりと己の徒労に肩を落とした。
しかし、そこで諦めて放棄するほど、多喜里の職人魂は儚くなかった。
「しょうがないわ……別の道具を探すしかないわね」
ここでは引き下がれぬと、多喜里は折れた柄を手に、また納屋へと勇ましく戻って行った。
池へと帰ってきた多喜里が手に持っていたのは、今にもちぎれそうなほどに汚れている雑巾だ。念には念を、数枚を両手に掴んでいる。
そして、決意の表情で石を見下ろした。
多喜里は苔だらけの石を、まるでグラスを磨くかのように丁寧に磨いていく。多少の手の汚れなど気にもせず、池に落ちないように気をつけながら、ひとつひとつ拭っていった。
そうして全ての石をピカピカに磨き上げると、複数枚持ってきた雑巾は全部、苔と泥に塗れてしまっていた。それとは対照的に、多喜里は清々しい気持ちで微笑んでいた。
「うーん、やっぱり汚れはしっかりと注がないとねぇ
……ん?」
──ふと、気付いた。ひとつの石の表面に、奇妙の形をしたくぼみがある。僅かに浅いそれは、どうやら手形のように見えた。
「何かしら、これ……」
多喜里は恐る恐る、その窪みに合わせる様に、そっと手を広げ、重ねてみせた。
くぼみはピタリと、気味が悪いほどに、多喜里の手の大きさと一致していた。背を、悪寒が走る。
これはなんなのか、軽率に手を合わせたことは失敗だったのか──そう考えていると、ふとてのひらが沈んだような感覚がした。
「……え」
見れば、確かに、多喜里の手は、石に飲まれていた。
恐怖、不安──それらを退けて多喜里の心の表層に浮き上がったのは、困惑だった。
──これは、何?
ぐ、と足に力を入れ、反対の手で沈んだ手首を掴む。全体重で引き抜こうとするも、手が吸い付いたようにまるで動かない。それどころか為す術なく、ずぶずぶと石の中へ飲まれていく。
てのひらが、手首が、腕が、肘までが、肩が──
遂に目の前に迫った石の表面に、多喜里はぎゅ、と目を瞑った。
ぬるりとした感覚が頬を撫で、ふと、その感覚が消えた。
恐る恐ると瞼を上げる。
驚愕に見開かれた大きな瞳に映ったのは、奇妙にも広がった場所だった。
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