穴解放

文字数 2,490文字

人間など優に呑み込んでしまいそうな大きさの、青銅の釣鐘。四本の柱に四本の梁、簡素な屋根に繋がれた鎖で下げられている。突く為の棒、撞木は、何本もの鎖を四方に張って支えられ、握り手である綱は手で握りきれぬほどに太い。
「……張り紙の通りにつくんなら、一回、三回、ほんで五回……やな」
紅緒は棒に手をかけ、若干緊張の滲む顔で陽彦を見る。早く済ませてしまおう、と言わんばかりに、その目には恐怖が滲んでいる。
陽彦はその表情に気づき、少し驚いた。緊張に強ばった紅緒の顔は、どうしても記憶の中の姿からは程遠く感じられた。
──この異常な状況でも変わらず笑顔だったのは、やはり気を張っていたからだろうか。
気づけなかった自分の不甲斐なさに、陽彦は僅かに眉を顰める。
「ええ、そうしましょう」
平静を装った声色の陽彦でさえ、緊張している。
じんわりと滲んだ手汗が、少し上擦った返事が、それを物語っていた。
「まずは一回、ですね」
震わせまいと腹に力を入れているのだろう、陽彦の声は、やはり、平生と比べれば何処かおかしかった。紅緒もそれを感じながら、それに緊張を煽られながら、じっと目の前に垂れ下がる綱を見つめる。
緊張するのも当然だ、なんせ、何が起こるかわかったものでは無いのだ。
しかしいつまでも立ち止まっていては埒が明かないと、紅緒は綱を勢い良く掴んだ。
「……鳴らすで」
綱を頼りにぐわんと身体を後ろに倒し、太く重たい棒を思い切り下げ、強く鐘を一度叩く。
──……
荘厳な音が響き、痺れる程に頭蓋を揺らす。腹が打たれるような余韻が細く続き、やがて消えた。
「……、何も起こりませんね。そう書いてありましたし」
陽彦は、ふ、と息をついた。
「代わりましょう」
強ばった顔でそっと避けた紅緒を横目に、一度制服のスラックスで手汗を拭い、綱をしっかりと両手で握る。
ちらりと、横に立つ緊張した面持ちを見て、それから力を込めた。
「三度鳴らせば……鈴が鳴る、か」
すれ違った視線に、紅緒はこくりと頷く。
拍子に身につけた鈴が凛、と音を立て、やがて静かな空気に飲み込まれていく。
「頼んだわ、……気をつけて」
「では、いきます」
両足を縦に開き、身体を横に向けるように綱を引くと、その重さが丹田にまで伝わる。
──先輩、よく引いたな。
ローファに皺を刻み、三度、鐘を撞く。
耳を割るような音がびりびりと空気を震わし、感覚も無くなるほどの痺れが腕を満たした。
──りーん……
その残響が消える頃、まるで鐘の音に応えるように、何処からか、鈴の音が返ってきた。
ふと力を抜いて、陽彦は余韻にも微動だにしない綱から手を外した。
「鈴、鳴りましたね」
遠くからかすかに聞こえた鈴の音に振り返るも、その元が何処にあるかは掴めない。じっと耳を澄ますが、もう残響すら聞こえない。陽彦は肩を竦めながら紅緒を見やった。
「せやね、ちゃぁんと聞こえたわ」
──『五度鳴らせば応えよう』
さて、お次は五回。何が起きるか分からないのは此処からだ。
──大切な後輩を危険な目に合わせる訳にはいかない。
くるりくるりと袖を巻きつつ、紅緒は綱を掴む。
「ここまで来たら鳴らすしかあらへんやろ、次はウチが叩く」
「結構重かったでしょう?」
「しょーーじき重たいな……身体、持ってかれるかと思ったわ」
「……俺が鳴らします、転けても大変ですし」
「は?いや、危ないやろ……こーいうのは、菊ちゃん先輩に任しとき!」
おどけた明るい顔つきで、紅緒はとんと己の胸を叩く。その様子に陽彦は少しだけ表情を曇らせた。
何が起こるかわからない。
しかし、何かが起こるのは確実である。
──故に、自分の目の前で彼女がもし危険な目にあったらと思うと譲れない。
他人には、心配してくれる人のことを考えろなんて言っておいて、呆れるほどのとんだ自己犠牲の精神ではあるのだが。
「俺に、任せてくれませんか」
少しでも心が伝わるように。陽彦は真っ直ぐに紅緒の目を見つめる。
駄目押しのもうひとつ。
「……ダメ、ですか」
気合十分に綱を握り締めていた紅緒は、かけられた声に振り向き、ため息混じりに言葉を返す。
「……あんたソレ、わざとやっとるん?」
さて、いざ鐘を鳴らそうと意気込んだところで、何とも言えない表情で自分を見つめる陽彦に、紅緒は、ぐ、と唇を噛む。
譲らない、という心持ちで見つめ返すがしかし、ダメですかと真っ直ぐに問うその姿に何だかむず痒い心地になり、諦めたように、あぁもう、と額を押さえた。
陽彦はそんな心中など知りもせず、真剣な顔つきで紅緒の嘆息に真剣に返した。
「む、何かおかしかったですか」
「……妥協案や、二人で鳴らす。……それやあかん?」
「……一緒に、ですか。それなら、まあ……」
完全に納得のいかないようで、陽彦は苦い顔をする。
「せっかくの提案、分かりました。一緒に引きましょう」
「ん!分かればええんよ。そうやね、力も二分の一でええから楽ちんやんな!」
「いえ、半分よりもっと楽ですよ」
綱をゆらゆらと弄る紅緒に、陽彦は笑顔を見せる。
「準備できたら言ってや、五回も鳴らさなあかんねん……どこの誰だか知らんけど、全く骨折れることさせるわぁ」
「本当ですね。なかなか重労働をさせる」
深く息を吸い、吐く。覚悟を腹に溜め込んだように、陽彦は口を開いた。
「大丈夫です。いきましょう」
「ほ〜ぉん、なかなか頼りがいあること言うやん」
茶化すように言い、紅緒は綱を強く握る。
その身体を支えるように、陽彦は後ろに周り、紅緒の握る上を持った。
合図の代わりに視線を送る。ぱちりと視線が合う。お互いの覚悟が伝わる。
大きく後ろに反り、紅緒の「そいっ」という掛け声と同時に一度、二度、鐘を打つ。
二人の息遣いが、図ったように揃う。
音が鳴り響く。
三度、四度。
五度。
重なり合った五つの音が共鳴し、耳の奥をくすぐる不思議な響きを生み出している。そしてそれはやがて消え……ず、まるで応えるように何処から、耳に残るそれと何ひとつ変わらない音色で、五つ、鐘が鳴った。
それと同時刻、地鳴りのような腹に響く音と共に、ある場所の地表が、薄い菓子のようにがらがらと崩れた。その中から顔を出したのは、深い、深い、穴だった。

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