喪失に帰す

文字数 8,360文字

──長い階段を上る。
一歩一歩、足を進めれば終わりへと近づいていく。
見上げれば空、階段の先に何があるのか、ここからでは映らない。
視線を足元へ戻し、また歩き出す。さながら人生のようだ、と彼は思った。
何事においても終わりというものはいつか訪れ、人はそれを死と呼んだ。
この階段は神社へと続いているけれど、このトンチキな場所に呼ばれてから……いや、ここ最近は、より一層、死の匂いが色濃く自分を囲っている気がした。
穴に投げ込まれた無数の死体、丁寧に納められた遺骨、打ち捨てられた生首──友人の訃報。
四方八方を包む囲い。逃げられないのだと、そう言っているようだった。
だがしかし、自分に落ち込む暇はない。
これ以上被害を出さぬように、大切な人を守れるように、待ってくれている人の元へ帰れるように。
陽彦は影の落ちた片の目で、今にして思えば遠くも感じる頃を想った。
──そういえば、ここに来て一番最初に見たのも神社だった。あのときは確か、菊原先輩と来た筈だ。
ふと、武器代わりの棒を握るてのひらに、力が入っていることに気づいた。いやに冷たく感じる空気を吸い込むと、落ちた思考に蓋をして、なんでもないように隣の彼との会話を続ける。
「……ええ、それで先輩と共に神社の張り紙を見て、鐘へと行ってみたんです」
「うんうん。行動あるのみって感じだもんね、陽彦くんは」
美浩は柔らかいトーンで返事をする。その心地よさに、陽彦は知らずのうちに強張っていた頬を緩めた。
「張り紙のとおりに鐘を二人で鳴らして。そしたらいきなり……地震のような地鳴りがして、穴がぽっかりと姿を現したんです」
その話を聞く美浩の脳裏には前に見た光景がありありと浮かんでいた。穴の底の、折り重なるようにして転がっていた死体の群れ。
──山にあったなけなしの花こそ供えてやったけれど、幽霊が存在するのなら焼け石に水ってものだろう。
「穴、ねえ。どんな仕組みなのかな?結構大きかったよねえ」
「ええ、しかも鐘を鳴らすと現れるなんて。想像もしていませんでした」
「だねえ………ああ、やっと階段終わりそうだよ。なんで神社って高台にあるのかなあ」
「たしかに。不敬にならないよう、高いところに祀るという風習からでしょうか」
と、静かに階段を登り終え、二人は石畳のその先の本殿を見つめた。
──その中に鎮座する神は、果たして敬い祀るようなものなのかは不明だが。
自然険しくなる陽彦の視線に気がつき、美浩は僅かに陽彦の方を見て、努めて穏やかに口を開いた。
「物知りだね。それならここは、何が祀ってあったんだろう」
「……元は違う神を祀っていたりしたのだろうか」
陽彦がそう呟いた時、ぐらりと、輪郭がずれるように二人の身体が大きく揺れた。
いや、揺れたのは二人ではなく、彼らの立つ地面だった。がくりと沈むように下がり、それに伴って四つの脚もがくりと折れる。
「うわっ………!?」
「なっ……!」
突然の地震、ぐらぐらと、平衡感覚が失われていく感覚。頭の中まで掻き回されたように、視界が安定しない。
重力に従って地に縛り付けられる身体をなんとか引き剥がし、美浩は動いた。
屋外ならば物から離れるのが定石である、なんてことが脳裏を過りつつも、隣で驚いたように見上げる陽彦の腕を引き、近くにあった鳥居の方へ身体を寄せた。
状況が把握できずぼんやりとしていた陽彦は、美浩に引かれると同時に、ハッと意識を戻した。そして美浩の目的を悟ると同時に、片腕のない彼の身体ごと貼り付けるように鳥居にしがみついた。
声を出すにも、揺れに喉が張り付いて苦しい。だが、陽彦はなんとか振り絞り、傍らの美浩にあらん限りで言葉をかけた。発せされた音はあまりにささやかであったものだが。
「すみません、美浩さん。大丈夫ですか……!」
「おれは平気だけど、これ、なに……!?」
「わかりま、せ………っ……!……とりあえず、収まるまで待ちましょう」
縦に横に上に下に、ぐらぐらと気持ちの悪い感覚にしばらく耐えていると、ぴたり 、地震は止まった。まるで息の根が止まるように。
安堵に息ひとつ、身体を起こそうと美浩は手を地につける。力を入れ、ぐいと立ち上がろうとする
上体を、何かが押さえつけていた。
続けて起き上がろうとした陽彦も、それに気づいたようだった。
「……え?何か、が……」
「ぐっ………!?な、なんで……身体が……っ!?」
幾ら力を入れてもびくともしない。それほどまでに強大な力。余りに不可解で、余りに不思議で、余りに恐怖であった。
焦りに上がった息で、陽彦は跳ねた心臓と共に打開策を考える。どうしたらいい?どうすることが正解だ?
いつになく混乱する頭で、様々な思いが脳裏を掠めてやまない。
ただひとつ、本能的に危険が差し迫っていることは理解出来ていた。
困惑と混乱を交わらせ、陽彦は吐き捨てるように言葉を発する。
「……どうして……何が……ッ」
その声に、途切れ途切れに美浩が応える。鼓膜まで響く心音に負けないように、辛うじて残る思考を吐き出した。
「っ……これ、神社……の、中に逃げたら、いいの、かな………!?」
「……ぐ……っ……、す、すみませ、俺は動けそうには……ッ……」
「おれも、動けなくて……!うわっ!」
なんとか立てたまま抗っていた右腕もバランスを崩し、美浩は地にひれ伏す形で倒れ込んだ。二の腕から先を失った左腕は役に立たず、為す術もないと思い知らされてしまう。
「美浩さんっ!!!!」
ギリ、と陽彦は歯を鳴らした。
──なんなんだ、なんなんだ!
姿も見せぬとは卑怯ではないのか!
「クソっ……」
膝に手を付き、押しつぶす力に拮抗して背を張る。そしてまだ光の映る片目で夜を睨んだ。
ころ、と、その拍子に何かが制服のポケットから転がった。──青い液体の入った瓶だった。
この不思議な重力はあくまでも美浩と陽彦にのみかかっているらしい。……だが、陽彦の思考はそんなことを閃いてはいなかった。それよりも、大切な、希望の一筋を見出していた。
___『狐の窓っつったかな……』
指を組んだ向こう側から、自分を覗いて見せた友の声が頭の中を反芻する。
これで姿を見れたなら、戦えるかもしれない。覚束無い手で瓶を取ろうとした。が、その瞬間に重さに従って肘を地に打ち付ける。拍子に、支配を離れた掌が瓶を叩き割った。
ひやりと背筋が冷えた。たくたくと、地には青い水が広がっていく。ぐ、と歯噛みし、陽彦は指先で地面をこするようにして染料をつけた。
そして、掠れた藍に染った指を、結が己にして見せた通りに組んだ。
それから、まだ視力がある右目の前へ。そして潰されかけの肺から絞り出すように、敵意を零す。
「……お前は 誰だ」
窓の中、指で出来た僅かな隙間の中。
そこに浮かんでいたのは
真っ黒な背景に浮かぶ、大きな大きな目玉。
ぎょろり
、目が合った。
パッ、と、此方を睨む " 誰か " の瞳のその異様さに、陽彦は身を少し引いた。
と、途端、窓を縁まで埋めてしまうほどまでに、ぐっと目玉が近づいた。赤く走った血管、底の無い真っ黒な瞳が、触れられるほどの距離に。
陽彦の姿が目玉に映る。精査するように無遠慮に覗き込む視線は、まるで心の隙間までへと滑り入るようで──
ふ、と身体が軽くなった。美浩は怪訝な表情を浮かべつつも、様子を窺うように、片腕に力を込めて僅かに上体を起こす。
──何があった?今なら逃げられる?
けほ、と長く潰されていた喉から空気が溢れる。大きく息を吸って、吐く。呼吸も、戻ってきた。
もしかしたら大丈夫かもしれない。生きて、帰れるかもしれない。
ならば早く、早くここから離れなければ。傍らの彼にそう言おうとして、向けた美浩の視線が動揺したように揺れた。
そこには、まるで何かに縛られたように、重さに抗う姿勢で固まっている陽彦がいた。
美浩の心の中に、ある思いが浮かぶ。
──今なら、自分だけでも逃げられる?
助けを呼びに行って、そうして彼も助かるかもしれない。
嗚呼そうだ、これならきっと。
合理的じゃないか。
どちらにせよ片腕の自分で太刀打ちできることは無いから。
ねえ、ほら、助けに来るから。
そうして、陽彦の向こうの階段を確認して──
「……、ごめん……!」
鳥居の外。階下にむかって、彼を
蹴落とした。
「……えっ?」
予期せぬ衝撃に、とうに重さから解放されていた身体は、そのまま文字通りに吹っ飛ぶ。
瞬間、宙に浮き、それから石畳に打ち付けられた身体が、重力に従って階段の方へと転がり落ちる。咄嗟のことに何も出来ぬ頬が石の角にぶつかる。
パッと口の中に広がった鉄の味にようやく意識が戻る。尚も転がり落ちようとする身体を懸命に止め、ぎしぎしと痛む膝をつき、自分を蹴飛ばした彼のいる上を見る。ぬるりとしたものが口内を満たしていた。
「なんで、」
呆然と呟くその唇から、赤い液体が零れる。
「どうして、美浩さん!!」
「あー……やっちゃった、なあ……」
ずしりと、美浩の身体にのしかかるような重みが戻る。その感覚に美浩は悟る──どうやら、自分は逃げるチャンスを失ったらしい。
──だって、
だって仕方ないじゃないか。
誰かが怒る、悲しむ。見捨てたって、酷いって、言うじゃないか。
大人が子供を見捨てるなんて、きっとみんな軽蔑する。だから、君を逃がさないわけにいかない。こわい、けど、そうしないともっと怖いから。
ずしりと、今までの比でない重圧が全身にかかる。
みしみしと、背骨の鳴る音が聞こえる。
肺が潰れる。押し潰される。
「ぐ う……っ!」
苦しい。
このまま死ぬんだと薄らとした確信が鎌首をもたげる。
嫌だな。怖いな。死にたくないな。
苦しみと、死への恐れから涙が滲みそうになる。
ああ、ここで、終わっちゃうのかな。
理不尽への怒りも湧いて、それより心底遣る瀬無くて、ただ美浩は指先で小さく地面を掻く。
ぐちゃっ
と、美浩の耳に何かが潰れるような音が届いた。
全身を覆う圧とは別に、痛みが、脚に
悟る。
脚の感覚がない。
判る。
脚 が 潰 さ れ て 消 え た と い う こ と 。
「_________ え?」
足がない。
痛い、熱い、冷たい。
様々な感覚がどっと押し寄せて、最後に激痛が色濃く残る。耳の奥で甲高い音が鳴る。
腕を失った時とは違う。
どくどくと波打つ感覚がある。血が流れているのだと遅れて理解した。
バレるとかバレないとかはもう考えられない。
ただただ、痛みに叫ぶ事しかできなかった。
「────────!!」
鼓膜を震わす絶叫。鳥居の向こう側で血の海を作る彼。
それを見ているだけの、俺。
──何故、俺が無事でいる?
考えるより先に、陽彦は駆け出した。たった今転がった階段を駆け上がり、最上段と、鳥居の間に立つ。そして、そこから見えた美浩の姿に──絶句した。
下肢が赤く染っている。
違う、下肢があったであろう場所、が正しいのか。
そう、脚がないんだ。この出血はその痕跡、重さに潰された?あの何かにねじり取られた?
何にしても──自分の代わりであるのは確かだ。
「だ──」
足が、張り付いたように動かない。
「大丈夫ですか、俺を外へと飛ばしたばっかりに、何故、何故、すみません、貴方が逃げるべきだった!」
痛みに虚ろな美浩の目が陽彦へ向く。
何故?
なぜかって、せめていい子だったって言われたいからじゃないか。
優しい子だったって言われたい、卑怯者とか言われたくない。
ああ、もっと広いコミュニティだったら見捨てられたのに!
早く逃げて。
お願いだから。
早くしないと、
「あ゙き、ひこぐ……はや…く……!」
逃したこと、後悔したくなるから。
「できませんっ!!貴方を置いて逃げることは、すみません、できません!!」
陽彦は声の限りに叫ぶ。言い聞かせるように、己の迷いを掻き消すように。
分かっている。自分だけでも逃げた方がいいと。
分かっている。今、彼を助けて抱えて逃げることなど、到底不可能であると。
分かっている、頭では、分かっている。
それでも、足の向かうは鳥居の先。
へばりついて動かない足を剥がすように、陽彦は一歩、踏み出した。
最初は、歩き出すように。それから、全速力で。
陽彦は俯いたまま走る。どうしても、美浩の顔を見ることが出来なかった。思っていることは、その目に浮かぶ感情は──見なくてもわかる。
……意味がわからない。
……理解できない。
……どうしてそこまで?
痛いほど伝わる、それは自分だって思っていることだから。でも、でも──
──体が、心が言うことを聞かないんだから仕方がないじゃないか!
「助けたいんです、もう、守られるだけは嫌なんです!!」
「っ……あー…もう……」
衝動のままに叫ぶ。イラつきと、痛みと、悲しみと、ぐちゃぐちゃになった心と共に言葉が陽彦の方へと飛ぶ。
「来るな!!」
そう叫ぶだけでも辛いのに。
「ぐ……っ、格好、つけるのも……疲れるんだよ……!早く、早く……楽にっ……ならせてよ……!!」
ぐちゃ、
その言葉に呼応するように腕が潰れた。
飛び散った血が美浩の頬を汚す。しかし、拭うことも、視線を逸らすことすらも、叶わない。
「ひッ……!?」
両腕が無い。
訳の分からないものに潰されていく。
嫌だ、こんなんじゃ、人の手を借りないと生きていけない身体なら、
…………殺してもらった方が、マシじゃないか。
また、肉が潰れる音が聞こえた。
彼の瞳が闇に沈む。
ぱしゃっ、
美浩の方へと歩みを進めていた陽彦の足が、ずっと流れてきた赤い液体を踏む。衝撃で足首まで水滴が跳ねる。
その音に、ハッと、陽彦の身体が硬直したように止まる。やけに冷静な理性が、その場に足を縫いつけ、動かない。
──本当に、この手を伸ばすのが正しいのか?
今彼を助ける手段、この出血量での生存率、姿の見えない敵、どう考えても共倒れがいい所だ。
いつになく肋骨を打つ自分の中心が、この奇怪千万な状況を現実だと知らせてくる。手先は冷えているのに、頭は冴えていて、身体は熱かった。
聞こえるは自分の心臓の鼓動音。
鼻を突くは鉄臭い匂い。
頭をよぎるは、自分を待つ家族の顔。
──この先にある結末を、彼らは本当に望んでいるのか?
美浩は動かない、いや、動けない。
ぐう、と、身体を圧迫される感覚。
脚や腕とは違う、生命の根幹に関わる部分を潰される感覚。
息が出来ない。息が出来ない。思うように吸えない、吐けない、喉の奥で詰まったように、塞き止められたように、ただ無意味に口を開く。
みしみしと、肋骨の軋む音がする。それは次第に大きくなっていく。そしてその臨界点、待ち受けるもの、待ち受けるものの末路。
理解する、己の未来、それが潰えたこと。
ばきっ
べとりとした血が飛ぶ。散る。広がる。
血溜まりの中、残された頭部。
その瞳には、陽彦の姿が映る。
残渣のような命すら尽きた首が転がっている。
マネキンかと疑うようなその様、しかし鼻を麻痺させる鉄の香りとぬらりと月明かりを反射する飛沫が、これが渡美浩の死に様だと嫌という程訴えていた。
愕然とした恐怖を目の当たりにした陽彦の顔は、色を喪ったように白く、目は見開かれ、現実を拒絶するように力がなかった。
その表情を美浩は見ていた。──見ていたのだ。
……陽彦くん。
「ぁ゙……ひ、…こ………ぐ…………………」
声が。美浩の唇の隙間から、洩れた。
「… ………っ、あ? 」
美浩の目が、ゆっくりと見開かれる。確かに、今確かに、自分の口から──声が。
ぼた。
口から、鼻から、あるいは目から? 押しやられた液体が顔を濡らすのを感じる。
生きてる。まだ生きてる、のに、顔以外が動かせない。
そうか。
頭部だけが生きているのだ。
残った首の断面が、存在しない身体が、体液が逆流した頭が、全てが痛い。
「─────!」
もう嫌だ、早く殺して!!!いやだ、死にたくない!!!!でもこんな体で生きていきたくもない!!!
嫌、嫌だ嫌だ嫌だ!!!
藻掻こうにも、動かない。動かせる身体がない。
とうとう頭の圧迫感が強くなる。潰される。踏み躙られる。
美浩はその重量を感じながら、ただひたすら思っていた。
なんでこんな、もっと綺麗に死にたい、誰かに看取られていたい。
魂も、遺体すらも愛でるように、愛されて死にたかったのに。
だから、だから頑張ったのに、皆のために、皆に優しく生きたのに!!
おれは、俺は、
「……い゙ぃ、子…………にィ゙…………じで…、…た、 の_______________」
べちゃ
軽い音と共に、美浩の頭部は形を喪った。
その血飛沫は、陽彦の靴の先にも届いた。
陽彦は、数滴赤く染まった己の足を見る。その光景も、まるで幕ひとつ隔てたように、ぼんやりとしていた。まるで目の前で起こっていることを、脳が、処理するのを拒んでいるようだった。
ただ心は、その片方しか映さない瞳は、しっかりと現実を捕えていた。
放射状に広がる血の海が、頭部がごろりと転がる様が、人間の頭が果実のように潰されるその瞬間が、陽彦の脳裏に焼き付き、離れない。
「──あ゛、あ゛ぁ゛あ゛ぁぁあああ゛!!」
無意識に叫んでいた。
目頭がかっと熱くなり、鼻の奥にツンと痛みが走る。無意識に後ずさるその足は、段差を踏み外して宙を蹴った。
どす、という衝撃のあと背中から下へと落ちる。段差の角が背中を擦る。頭を内側へ丸めて、足を平地につける。動きの止まった身体を、ゆっくりと起こす。
嗚呼、どう足掻いてもこの痛みは現実だ。
ゆらり、立ち上がる陽彦の顔を髪が隠す。
俺は何ができた?俺は 何をしていた?
「みている、だけ」
それは正しいのか?正しかったのか?
「否」
お前はお前の正義に従ったのか?
「否」
では お前のすべきことは?
「…………」
とんとん、と拳で胸を2つ叩く。深く、深く、肺の隅々にまで冷えた空気を吸い込んで、細く長く、息を吐く。丸まって下を向いた背を、起こす。
黒髪が流れ、橙の瞳が真っ直ぐに前を見据える。
「戦い、抗い、諦めないこと」
手の中にある棒を握り締める。ただ折れた柄ではあるが、しかし、武器ひとつ見つからないここでは重宝される、大切な得物だ。
身体の前で構え、神経を尖らす。高鳴る心臓を押さえつけ、ぴんと張った空気を感じ取らんと虚空を睨む。
ぴく、と陽彦の指先が何かに反応する。
僅かに滑らせ踏み出した右足を掛かりに、腰の回旋、腕の振り、全てを使い勢いをつけ、すぐ隣に居た気配に向かって叩き付けるように、振るった。
突っかかるような手応え。確かに何かに当たっている。
更に力を入れ、振り抜く。
食い込んだ刃はその身を真っ二つ──にしたはずだった、もしそれが、手にしていたのが、真剣だったのならば。
心許ない木の棒は、加えられた力に耐えきれず、陽彦の握った場所のすぐ上から、無残にも折れた。
くるくると折れた先は宙を舞い、軽い音を立てて地に落ちた。
「くそ、……っ」
陽彦は顔を歪め、何の変哲もない空を睨む。
姿かたちが見えない敵なれば、ダメージが入ったのかすら定かではない。いや、こちらの得物が押し負けたのだ、大した傷は負っていまい。
──すぐに距離をとり、他に対抗策を見つけねば。
ぱっ、とその場を離れようと地を蹴り、着地
……べちゃり
するはずだった足が、宙に血飛沫と共に消える。
「……は」
踏みしめる足がなくなり、ぐらりと上体が傾いた。
「あ、あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙
あ゛ あ゛ ぐ、 ぁ゛」
それに続けて、力を失った腕がゆらりと宙を掻く。
ぱちゃん、と音がして、真っ暗闇の空を背景に赤い花火が散る。
「 は っ あ゛あ ?????? な なんで なにが う うで───」
ぐう、と胸が圧迫される感覚がする。息が詰まる。肺が潰れる。心臓が悲鳴を上げる。
そして、ぱん と消え失せた。
「────嗚呼」
ごろりと頭部が転がり、視界が一回転する。目の前は自分の血で真っ赤な海になっていた。
そうか、体が潰れても脳内に血液が残っているから意識があるのだな。しかし口から意味のある言葉を零すことはできなさそうだ。
きっとそのうちに視界が霞み、事切れる。
──嗚呼、ここで終りなのか。
父さん、母さん、姉さん、すみません。
沢山愛していただきました。
恩を仇で返すような最期を迎える愚息をお許しください。
誰も守れず、こうして置いて往く僕を。
陽彦の瞳から、何かが零れる。
先輩、申し訳ありません。あなたの笑顔がもう一度見たかった。
先生、申し訳ありません。あなたの右腕になると言ったのに。
結、すまない。僕はいつまでもおまえの支えになろうと言ったのに。
僕の遺していく世界が、不安や悲しみで壊れないよう、希う。
──首の血が乾いた頃、まつ毛はまだしっとりと濡れていた。奥にある琥珀色の瞳はがらんどう。
何も恨まず、憎まず、そこには何も無い。

◎結果
渡 美浩──死亡
反橋 陽彦──死亡



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