池掃除

文字数 5,129文字

この場所には数多くの謎がある。例えば、森の中で響く泣き声とか。例えば、何者かが絶えず唸り続ける本殿とか。
目の前にある、底の見通せぬこの池も、そのひとつ。
見るからに禍々しいこの池は、人をも両断するとどこかで聞いた。この中に今から……そう考えると、今まで相当に訓練を積んできたとは言え、無意識に足が竦んでしまう。
所詮は平和な街の端っこで、交通整理や落し物関連や小競り合いの対応が常だったあの頃と、今を比べてしまっては、そうなって当然とも言えるが。
卯月了は深く呼吸する。呼気と共に、胸に巣食う怯えも出ていきやしないか、と思いながら。
だが、少しは冷静になれたのだろう。後がないことを──やらねばならぬということを、再確認出来た。
──なんであれ、これから先に関わる『糸口』は逃せまい。特に、それが未来ある子供が危険に晒される方法ならば、俺が代わりにやって当然なのだ。
少し緊張の滲んだ声色で、了は言う。
「ロープとかも一応つけておいた方がいいのかな。無事沈めた時、上がれるかは分からないけど……上がる時のために一応」
「了さん……」
募る不安が隠しきれなかった。目の前にいるこの人が、池の中にいる得体の知れない何かに身体を引き裂かれてしまうかもしれない──そんな恐怖が脳裏を過って。
声が震える、情けない、今自分がどんな顔をしてるのかわからない。すぐ目の前の人の顔さえ見られなくて、俯いて、脚を支えているのがやっとで。
櫻堂寺結は立ち尽くしていた。
「俺、支えてます、から……絶対離さないですから……」
──本当は嫌だ。行かせたくない。
自分のせいでまた人が死ぬのかと思うと、心臓を鋭利なもので刺されたみたいに痛むのだ。こんなイカれた空間で、人間でもなくなったのに心だけはあって、
「っ、……了さん、ごめんなさい…ごめん、なさい……」
ロープを握りしめていた結の手が、カタカタと小さく音を立て始めた。
「結くん......」
大丈夫なんて言葉じゃ、更に不安を煽るだけになってしまう。彼を落ち着かせるためにこんな自分にできることはなんだろうか。
そう考えているうちに、了の目には、結の姿がやけに幼く見えてきた。高校生のはずのその少年が、なんだか小さな子供のようで、無意識に頭に手を伸ばす。
「謝らなくていいよ。俺がやりたくてやっていることだし、警察官として……大人として、きみを守るのは当たり前のことだからね」
髪を軽く撫で付けるようにして手を動かす。
──これは、彼に罪悪感を抱かせるためにしていることではないのだ。そんな顔はして欲しくない。
だから、大丈夫。そう言うように、優しい熱を持った手がそっと頭の上に乗って、慈しむように小さく動くのを結は感じていた。
なんだか懐かしい、結はそう思った。
多分、小さい頃の記憶なんだろうけど……あまり思い出したくない。
ああ、なんで優しい人って先をいくのかな。そう思うと、じわりと目の奥が熱くなって、瞬きをするたびに涙が零れそうになる。
──もっと早く、この人と会いたかった。
「……もし、これで失敗したら…俺のこと目一杯恨んでください。……俺からの、お願いです」
「えっ、めいいっぱい恨む……頑張ってみるよ」
できるかな〜……と困ったように了は笑って見せる。やってみるけど、できる自信はないな。めいいっぱい恨むってやつは……。
──あの人たちよりも恨めしい人間なんて、きっと存在しないし、……してはいけない。存在させないために、そのために警察官になったんだから。
了は笑みを深くして結の目を見つめた。
「代わりにもし成功したら、盛大に拍手でもして欲しいんだけど、どうかな?」
明るくそう話しかけてみたのは、結にこれ以上苦しんで欲しくなかったこともある。だが案外、自分の緊張をほぐすためでもあった。死ぬかもしれないこの状況で、さらに怯えるのは悪手に感じられた。
「…、……」
一体、彼はどこまで優しいんだろう。
そんな長く生きちゃいない人生の中で、こんな底抜けに優しい人には出会ったことがなかった。追い込まれてる状況にも関わらず、俺の心配をしてくれている。
そう思うと、やはり、心苦しい。けど彼のために自分が出来ることは──。
「わかったっす。その時はすっげー拍手、かまします」
無理をしてでも、明るくいたい。悲しい顔はもうやめだ。結は眉を下げ、精一杯の笑顔を了へ向けた。
「よし」
了は確認するようにそう言って笑いかける。同僚には散々ガラが悪いだとか子供を泣かせるためにある笑顔だとか言われたこの表情だが、今は変に真面目な顔をする時でもないだろう。
「じゃあやろうか」
上半身を乗り出して了は水面を覗き込む。眼下には、いつも通りの濁った緑色が静かにそこにあった。夏前まで放置されたプールで見るようなヘドロのほうが何倍もマシに見える。そう思い、了は苦笑いを零した。
「相変わらずの汚さだね。上手くいっても、全身藻と泥だらけかも」
軽く明るく、失笑と共に言ってみるものの、結はまだ浮かない顔をしている。拳を握りしめ、言うか言うまいか、迷うように口を開いて固まっている。
了は結のその様子に気づき、次に告げられる言葉を、いつでもいいというような優しい顔つきで待っている。その表情を見て、結の瞳が揺れる。
「……こんなこと言われるの、癪かもしれないっすけど……」
「俺、了さんが無事に帰ってくるって信じてますから。だから、絶対……」
息が詰まる。喉の奥に塊がつっかえたように苦しい。
この世に『絶対』なんてものは存在しない。散々な目にあってきたというのに、未だに希望に縋るこの様は自分でも滑稽に思えた。
それでも、ふ、と胸の内に不安が掠る。
『死んでしまったら、どうしよう』
さっき信じ始めたというのにこの有様、この場所に来てから、抱いた淡い期待をことごとく葬られてきたからかもしれない。
けど、信じることしかできない。それしかできない。
結は血が滲むほど唇を噛み締め、ただひとつ、小さく言葉を呟いた。
「……絶対、帰ってきてください」
突然のあたたかい言葉に、気の抜けた顔になってしまったのを了は自覚した。生きて帰って来てくださいだなんて、今まで言われたことがあっただろうか。
「もちろん、帰ってくるよ。そうじゃないと結くんは気に病みそうだし、家に残してきたおばあちゃんが一人になって心配だからね」
だから大丈夫、と言うように、了は結に微笑みかけた。そして強張った結の顔が少しほぐれたのを見て、改めて池に向き直る。
そうだ、きっと大丈夫だ。
ロープがしっかりくくられているのを確認し、くるりと池に背を向ける。小さく息を吐いて目を閉じ、そのまま後ろの方へと体重をかける。
傾く。体が池の水面へ向かっているのを、三半規管が嫌でも拾う。妙にゆっくりに流れる時間の中、自分の運命を、案外泣き虫な彼と池に預けるように、目を閉じた。
身体が水につく。張力に従った抵抗で、背中に衝撃が走る。妙な浮遊感の後、囲う緑に埋もれ始める。濁った水面にどろりとした波形が広がる。そのまま少しづつ、少しづつ、沈んでいく。
緩慢に沈んでいっていた身体が、突然、引き込まれるようにずるりと一気に、頭まで沈んだ。唐突で息を吸うことも間に合わず、見通せぬ液体は喉の奥へ、そして肺へ入っていく。苦しさにもがくが、声はただあぶくとなるのみ。
死を、悟る。
意識も遠のき、思考も止まり、もがく動きは緩やかになり、驚きに見開いていた了の目には、そっと瞼が下ろされた。
静かに、静かに、受け入れた。
──死ぬ……そうか、死ぬのか。思えば、あのとき。おばあちゃんが来なければ死んでいたんだから、こんなに生きられただけで幸せだったのかもしれない。
心残りは、必ず帰ってくると約束してしまった彼。俺の安易な約束のせいで傷つけてしまうかもしれない。
ああ、ごめんね。不甲斐ない大人でごめん。君の心に傷を残す、そのひとつになってしまう。
でも、それを伝えられない。贖えない。了は薄れゆく意識の中、悔しげにそう思った。
その時。
突然の水流が身体を襲った。右へ左へ、鉛に打たれるように揺らされる。その身の流されるがままにいると、ふと、色のないほど澄んだ水の中に投げ出された。
一切の流れを感じさせない、静かな場所。不思議に息も苦しくない。眉をひそめ了は困惑する。少しでも情報を──辺りを見回したその顔に、やけに大きな影がかかった。
ゆっくりと、目が見開かれる。見たことも無い。聞いたこともない。けれど、眼前を埋めつくしたことに不思議と恐怖は感じなかった。
魚のような姿のそれは、ゆったりとした動作で了の周りを旋回した。大きさから何もかも違う故、その動作は了を中心として大渦を起こす。散った一葉が波紋に踊らされるように、了の身体も目を開けていられないほどに呑まれていた。
勢いが収まった頃、目を開けると、了の手には白刃の刀が一振り、握られていた。
──これは……?
困惑したように了は手元の刀を見る。抜き身の、素人目にも立派なものであるとわかる刀。一体これをどうしろと……。
了が刀を手にしたと見ると、魚はまた緩慢にこちらに背を向けた。尾ひれがゆらゆらと揺れ、姿が小さくなっていく。
すっかり尾ひれの見えなくなった時、こぽり、小さく泡が生まれた。こぽり、こぽり、それに従って無数の泡が続いては大きく渦を作っていく。
やがて上へ向かう水流が生まれた。こちらの都合など考えないようなその勢いに息を詰まらせながら、了は身体の力を抜いた。刀を握る手にだけは力を込めて。
泡に呑まれた視界は白く染まっていく。段々と、段々と、染まっていく。
──まさか、今度こそ本当に死んでしまうのだろうか……。
目を開けていても、閉じていても、視界は変わらない。了は覚悟するように、きつく目を閉じた。
ぴちょん、
水音がした。
ぽた、ぽた、
伝い落ちる音がする。
ひんやりとした空気が肌に触れるような感覚がする。恐る恐る、瞼を上げる。
了は、澄んだ水で溢れた池の中で座っていた。
記憶の中のあの淀んだ姿からは想像もつかない、けれど同じ場所、なのだろう。髪から頬へと伝った水滴が手に握られているものへと滑り落ちた。
それを追うように視線を動かす。刀がある。
今、手の中にあるのは、さっきの刀で違いない。……幻覚ではなかったようだ。
銃刀法違反だ、なんて思いがよぎりつつも、了は手に力を込める。
これを離してはいけないのは、嫌でも理解出来ていた。これは"クダリ様"と呼ばれるものを倒すための、自分たちが持ち得るただひとつの手段なのだから。
すぐ横で、息を呑む音が聞こえた。
そちらを見遣って、了は頬を緩めた。
「……ただいま、結くん」
──夢にまで見た景色。行かないでほしかった人が、送り出した人が、自分の目の前にいる。帰ってきてほしい人が、無事に帰ってきている。
低く落ち着いた耳触りのいい声が結の鼓膜を震わせ、それに揺らされたように、見開かれた結の瞳から、大粒の涙が次から次へと生まれて、ぼろぼろと零れ落ちていく。
「っ、……りょ、さん……」
「りょうさ、ん……!おかえ……り、……うぅ、おかえりなさいぃ……!」
今まで我慢してきた不安やら恐怖やら、緊張が一気に解けて、堰を切ったように雫が伝っていく。地面を蹴り池の中へざぶりと足を入れて、中心に座っている了の方へと駆け出した。
片腕を大きく開いて、飛び込んできた結を受け止める。刀を持つ手を少し下げて、もう片方で彼の背を軽く叩く。
結局君も濡れちゃったじゃないかとか、盛大な拍手はどうしたのとか、言葉が浮かんでは消えた。
今の彼にどんな言葉をかけるのが正解なのだろうか。
顔を埋める少年の温もりを感じて、了は目を細めた。
「ただいま。怪我もなく帰って来れたのはきっと結くんのおかげだね」
──彼と、ここに呼ばれて今まで一緒にやってきた仲間たちのおかげで自分は今ここにいる。
最近見なくなってしまった彼ら……酒に弱い彼女も、探検家のような彼女も、花屋の彼も、本屋の彼も、白い制服の彼も……ひとりでも居なければ今この瞬間にはきっと辿りつけなかっただろう。
「んなこと……ない、です……ほんっとに、そんなこと……」
片方しかない腕で、結は必死に了の体にしがみつく。やっと、やっとこれで、
クダリを殺せる。
もう何も失わずに済むんだ。
奪われた分を奪い返せるんだ。
そう思うと心做しか、自然と口角が上がった。
結の空の袖口が揺れているのを了は見た。そこにあったはずのものは、今もうない。果たして五体満足の人はこの空間に何人いるのだろう。
──もう何も、失う者が出ないように。必ず……倒さないと。
結の背を優しく撫でる片手とは裏腹に、刀を持つ手は決意を表すように固く握られていた。

◎結果
卯月 了──刀の入手
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み