ゆいくん

文字数 4,412文字

ぽっかりと空いた穴。それは人の手によったものにしてはあまりに広く、また深かった。一端の哀れ儚き人間などは、余りに小さく見えるものだ。
結は、その際に立ち、底を見下ろしている。
「深いな……底なしかぁ……?」
目を細め顔を顰めれば、結は良く見ようと上体を乗り出し、深い深い穴を覗く。
「……つーか、なんでまたこんなでけぇもんが……徹夜しても無理だろ、こんなの」
誰が聞いてるわけでもなく、結は独りごちる。しばらく無言で見つめ、ふ、と息をひとつ吐く。
このまま見ていても状況は何一つとして変わらないのは確かだ。
仕方ない。今日はもう帰ろうか、と。
そう思った時であった。
腹が裂けた。
否、喰われた。
脇腹が大きく抉られたように、穴が空いた。
大口開けて '' それ '' は結の腹を喰らった。
「、え ?」
ほんの一瞬のことだった、その身に起きたことを理解するまでにかかる時間はおよそ、二秒。
零秒。
ごぽり。
鉄の味が口いっぱいに広がる。
溢れて、零れる。次から次へと口の端を伝い落ちる赤を拭うことも出来ぬまま、ゆっくりと、自分の腹に視線を落とす。
一秒。
わからない、わからない。
なんで自分の内臓をこの目で見れてしまうのか、わからない。
二秒。
絵画のように平たく見えていた光景が生々しい現実になった瞬間、聞こえたのは、耳を貫く、けたたましい己の絶叫だった。
「ゔ ァ ぁ゛ あ ア あぁ……ッ!?!」
血の噴き出した腹を押さえようと結は手を伸ばす。
ぬらぬらと光るはらわた。しかしその手は、血腥い内臓に触れる前に、一瞬に消える。
肩から先が失くなって、消える。
「、あ゛ れ……?」
──俺の腕は?
声を上げることもすらもままならなかった。意識が、追いつかない。追いつくこともさせてくれない。
──駄目だ。何が痛いのか、何処が痛いのかもうわからない!
よたよたと、足をもつれさせながら後退をする。踵が地面につかえて、ぐらりと体勢が崩れる。思わず尻もちをつきそうになるが、足を滑らせ支え、なんとか踏ん張り持ち堪える。
少しでも冷静になろうと顔を俯かせる。限られた視界の中での思考、頬を伝うは困惑の混じる汗。
何が、……何が起きている?
誰が自分をこんなふうにしている──?
虚ろな瞳で顔を上げ、前を見据える。その '' 誰か '' を求めて。
誰も居ない。
喉奥に動悸が迫り上がる。どくん、どくんと大きく波打つ。次第、呼吸が浅くなっていく。
びちゃ、と
地面に水溜まりが出来ている。
その元を辿り、未だ血の噴き出たままの左肩を見る。
── ち を とめなけれ ば
理解を超えた事象に混乱している頭でも、それだけは直ぐ、分かった。
断面を押さえつけようと、右手を伸ばす。生暖かい液体が次へ次へと腕を伝う。服が次第に重くなっていく。ぎゅ、とてのひらに力を込め、己を抱き締めるような姿勢で押さえつける。
その温もりすら、今は愛おしいというのに。
無情にも、それすら奪われる。
どん、という衝撃。
理解したくない事実。
右肩に走る痛み、熱。
「 ア゛ぁッあ゛アぁあ゛ァ!゛!」
衝撃による反動、またも足をもつれさせて退る。退る。退る。震える足しか映らぬ、突き抜けた青空を湛えた瞳は、その光彩すらも奪われ曇天の気配を漂わせる。
……痛い。痛い、痛い!!こんな痛いのは、初めてだ!汗が止まらない、呼吸が浅くなる、血を止める術もない。なら、 自分には 何 が出来る ?
出来ないことばかり。不可能なことばかり。ひとつ、ひとつ、排除して。
まともに回らぬ脳の片隅に、唯一、残った。
──逃げなければ。
ここから、逃げなければ。まだ足がある、逃げるための足がある。両腕を奪われバランスを保つことも危ういが、そんな悠長なことを思うことさえ時間の無駄だ。
暗く阻まる視界、掠れる風景、遠くなる残響、未だ溢れる血液、息をする度に走る凄まじい激痛。ふらふらと左右に揺れながら、徐々に重くなる足を引き摺り、その場から逃げようと必死に一歩、また一歩と歩み出す。
がくん と
身体が落ちる。地に堕ちる。
視界いっぱいに広がるのは土、それから広がった血液。
右脚、それから、左脚。
弄ぶように、嘲笑うように、順に千切れてなくなった。
「い゛ッ、ゔ あァ、ア゛ァあ……ッ!!」
逃げる足さえ奪われて、遂にはその場から去ることも許されなくなった。
非情な現実、だからこそ儚いものであろうか。
その姿、如何様にして例える?
地に伏すのは呻きをあげる無力で非力な肉の塊になりつつある人間だ。未だ人間を形取る唯の肉だ。
──生きなきゃ。
生きなきゃ、だめなんだ。
どうしても、生きて帰らなきゃならない理由があるから。
救いたいものだってある。
やり残したことだってある。
「い いや、だ……いやだ……こんな、とこ で……お おれ は、」
こんなところで、終われないのだ。
無い手足を、必死に動かし地を這いずる。まるでのろまな芋虫のように、ずりずりと這いずる。漏れ出、引き摺られる内臓も厭わずに。ただ、前を見据えて。
鮮明さを欠いた視界の中でさえ、結はただ生を望む。
必死に足掻くその背を、何かが見ていた。
何かが狙っていた。
あ、と何かは大口を開ける。
ぎらり、と牙が光る。もしここに誰かがいたのならば、きっとがたがたに並んだそれを見たことだろう。
尤も、その誰かなど居らず、また結を助くものも佇んでなどいないのだが。
「ぎ 、ッあ ァ゛……ッ!?!」
突如として背中に激痛が走る。
大きく肉を抉られ、鮮やかな血と共に噛み砕かれた背骨が顔を出す。
「い゛ィ いだい゛ッ!!い゛やだ ぁ!いや゛だ……ッ!!」
手足がまるであるようにじたばたと、抵抗するように動くも意味も無く。嗚呼、情けない、情けない。
無様で何とも、浅ましい醜態を晒しているものだ。
──いたくて、いたくてもう、だめだ。うごかない。
おれ、まだ まだ、おまえに。
体液でぐしゃぐしゃになった顔面で、光も霞む瞳で真っ直ぐに見据えるのは、僅かな、確かな希望。
ひたひたと、死が迫っている。
きえてしまうまえに。なくなってしまうまえに。
手に入れんと歯を食いしばる。命の際まで諦めてなるものか。
ぐっ、と結は背を反らす。届かない、無い右腕を伸ばすように。
その顔に大きく影が出来る。
ぐわり、と広く口を開けた それ は ゆっくりと 近づ い て
ばくん
腹を喰われ、腕を喰われ、脚を喰われ、背を抉られ、首を失くした、ぐちゃぐちゃになった結の姿。
それを見ているのは 誰 ?
日向色の短い髪、ぴょこんと跳ねた一束。学生服。そして、空色の瞳。
「……へ?」
血塗れの結を見下ろしていたのは、 五体満足 の、結だった。
驚愕に目を見開く。先の体験、光景、生々しさ。あれは全て、夢?
収まらぬ動悸と共に、今一度、地に伏せたその姿を見る。
紛れも無くそれは、確かに自身の成れの果てだった。
「俺、まだ生きてる、のか……?」
ふと、陽彦とのあの会話が脳裏を過った。
『大丈夫だ。あの白い人形の紙、あるだろう』
『あれは本当に効果があるらしい』
『留が言っていた。あれがなければ、俺たちは死にやすくなるんだと──』
初めにここに来た時に、しろから貰ったあの白い人形の紙。
みがわりひとがたと呼んでいた──あれが、身代わり人形が、自身の " 死 " を退けてくれたのだ。
はらり、と、うつ伏せに息絶えた己の輪郭が崩れる。空気に溶け、消えていき、最後に残ったのは千切れた紙切れ。
「……まだ、生きてる」
まだ、やれる。
強く拳を握り締める。確かに、感覚がある。
きっ、と前を見据える。
空色の瞳から発される鋭い眼光は、そこにある 何か
を睨む。
ふ、と
何が見えるわけでもなく、消えた気配を微かにその肌と直感で感じ取った。
視線を下げる。ふたつに裂けた紙片が、土の中に、塵のように落ちている。
場に残ったそれが物語る。厭わしい先刻の思いを。それと同時に、ふわりと柔らかく笑う、しろの顔が浮かんだ。
唇を強く噛む。
自分は、守られてばかりだ。守られてばかりで──何ひとつ、返せた試しはない。それどころか、守りたかったものは全て失くしてしまった。全てを、自分のせいて。
憎いのだ、全部が憎い。
……全部が。
哀愁、自責、無力感。結はその場にしゃがみ込み、ぼろぼろの紙切れに、そっと手を伸ばした。
途端、宙に無数に並んだ白いものが、一緒、ほんの僅かな瞬きの隙間、結の瞳に映りこんだ。
伸ばされていた結の腕が虚空に消えた。
嗚呼、否、今度こそ、
喰われた。
「 は 、 ? 」
消えた左腕を呆然と見遣る。失った先からぴゅ ぴゅと、鮮血が吹く。
気配などなかった。確かにそう ” 確信 ” したのだ。
していたのに。
「 あ゛ぁぐ ぁ゛ッあア ぁあ゛ァ゛ア!!゛! 」
紛いものの痛みではない。正真正銘、本物の痛みをその身に受けた。
冷や汗が止まらない、必死に肺に酸素を取り込む。瞳孔は大きく見開かれ、同時に視界ごと揺らされているような凄まじい目眩がぐらぐらと自身を襲う。
赤が吹き出る腕を無意識に強く掴み、蹲り抱えるようにして、焼けるような激痛に、ひたすら奥歯を食いしばって堪えようと試みる。
……にくい。にくい、憎い、憎い!奪うしか能がない奴らが憎い!軽率に命を奪う無常が憎い!俺の大事なものに触れ、挙句には粉々に破壊した化け物共が憎い!
──けれど。なにもできない、自分が一番、恨めしい。
俯き、歯を食いしばる横顔。その頬を伝うのは後悔と情けなさと、醜い憎しみを混ぜた、けれど透き通った、大粒の涙。
許さない。絶対に許さない。
暗く曇った空の眼に、ひとつ、灯がともった。
嗚呼、──そうじゃないか。
その瞳のずっと奥深く。揺らめくは、憎悪の灯。
奪われたのなら、奪い返せばいいだろう?
勇気は所謂、 ” 衝動 ” だ。綺麗事の裏に隠された、確かな人間の衝動性だ。
殺意は所謂、 '' 本能 '' だ。確かなもの得るために、誰かは何かを、誰かを殺す代償を必要とする。
故に ” 生贄 ” とは、必要な犠牲と代償を対価にし絶対的な 何か を得るのだ。
ただ黙って、生贄などに人はなろうか?反抗的な者ならば、その場で何がなんでも足掻くことは容易く想像がつく。死にたくないから足掻くのだろう。なんとも単純明快な思考だ。
自分は、生贄などには下らない。油断しきったその喉元を食いちぎってやる。
神がなんだ?贄がなんだ?関係ない。復讐だ。この怒りも痛みも後悔も、全て忘れてなるものか。
エゴでいい、なんだっていい。狂気に塗れたって構わない。仮にその目的を果たしたとて、生きる意味などとっくのとうに奪われたのだから。
狼煙はあがった、反旗を翻せ。
紛いの神を、殺すために。

◎結果
櫻堂寺 結──身代わり人形、左腕の喪失
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