懸隔に帰す

文字数 5,447文字

僅かな月明かりを頼りに、多喜里は夜の池へと、何かを瞳の奥に揺らしながら足を運ぶ。
ふと、視線の先で、池の周りを当て所なくうろうろとしている人影に気づいた。何処か足元の覚束ないその様子を見て不思議に思いつつも、横顔がはっきりと見える距離にまで近づく。
「あら先生、こんな所で……どうしたの?」
「……! 比女島さん」
声の主に気付き、縁雅は振り返る。既に空洞となった右の袖が、一拍遅れてゆらりと揺れる。
それとほぼ同時に、残っていた左腕が、てのひらの何かを隠すように、上着のポケットに押し込まれた。
「こんな真っ暗な中じゃあ、誤って池に落ちてしまうかもしれないわ。……何か探し物?それとも、待ち合わせでもしていたのかしら……?」
「いえ……」
縁雅は気まずそうに池の水に目を遣る。藻の集まって積もった緑の水は、夜の中では殆ど闇と変わらない。深い黒々とした汚濁は、己の心の奥底を映しているようだった。
風もない水面は揺れひとつも湛えない。しばらくそれを見つめ考え込んでいたが、意を決したのか、ゆっくりと顔を上げ、縁雅は多喜里に視線を合わせる。
「比女島さん。ここにいれば、貴方に会える気がして」
「……え、……わ、私?」
予想外の返事に、多喜里は少しだけ目を見開く。
「はい」
驚きと困惑を感じ取り、縁雅は寄る辺ないように顔を下に向けた。暗さが影を落とし、俯き気味の縁雅の表情は分からない。だが、
「貴方に謝っておきたくて」
そう告げる声は疑いようもなく震えていた。
まるで母親にたしなめられ、気持ちの行き場のない子供のような様子だ。
「……」
多喜里は縁雅の傍へ歩み寄ると、もうそこにはない右手をとるかのように、袖を持ち上げる。
「……先生に、何か悪い事をされた記憶はないのたけれど……」
目線を袖先に落としたまま、静かに語りかける。
「でも、きっと何か後ろめたい事があったのかしら……?話してくださる?……怒ったりすることは、多分ないでしょうから」
そういって、顔を上げて、安心させるように僅かに微笑んでみせた。
「多喜里さん……」
縁雅は眉を下げて顔を上げる。
──そんな風に微笑まないでくれ。
全て見透かしているような。
その上で全て受け容れているような。
あなたがそんなだから僕は──
残った左腕をその手に重ねようとし、躊躇う。
代わりに身体の横で、固く握りしめた。
「……私は以前、小説を書いていましたね。完成したら貴方に読んでほしいと。読んでもらうことで、真に完成するのだと」
少しずつ、奥底で固まっていた感情を吐露していく。
手足はすっかり凍えるほどに冷えているものの、既に無い右手だけは、仄かに彼女の体温が伝わってくるように感じられた。
「あれはすべて、私の亡き妻──眞優に捧げるためのものだったのです」
「……そう、お嫁さんの」
別段、驚くようなことではなかった。縁雅が男手ひとつで娘を育てていることを、此処に来る前から多喜里は知っていた。
「……そんな大事なものを、私なんかに読ませようとしたの?」
震える声で、未だに顔を上げない縁雅に、宥めるように言いつつも、多喜里は少し悪戯っぽく笑った。
「大事なものだから、誰かに──多喜里さんに読んでほしかったんです。……貴方は彼女によく似ている」
「そんな……それは、どの辺が?」
「……誰をも包み込むような……相手の汚点を見透かしておきながら、それでも手を取ろうとするその献身的なやさしさです。今だって──」
言葉を続けようとし、ハッと縁雅は我に返る。
慌ててパッと顔を上げ、続けて発されそうになった言葉を飲み込み、焦ったように謝罪を口にした。
「すみませんっ……、気持ち悪いですよね。だから謝っておきたかったんです。少しでも、多喜里さんを妻と重ねていたことを」
「......買いかぶりだわ」
多喜里の声が僅かに沈む。謙遜するようにそう言った。決して縁雅を咎めるでもなく。
少しだけ俯いて、彼女は続ける。
「私、先生が思っている程……良い人じゃないもの……」
空っぽの右袖が乗ったままの指先に、力がこもる。
「相手に尽くすのも、見透かすのも……そうしないと、上手く生きていけないから。経営する身として、必要な事だったから。……今だって、そう。本心はいつも隠し通したまま……体裁を整えるのに必死なのよ」
「多喜里さん……?」
初めて耳にする彼女の弱音に、縁雅の目は戸惑ったように揺れる。
「それは……どういう」
「……ねぇ、先生?」
多喜里は問いかける。
口元には笑みを浮かべたまま、しかしその目はやや真剣に。
「貴方の目に、私はどんな風に映っていたのかしら?」
「…………」
そんなの、今話した通りだというのに。──己の行き過ぎた想いが、彼女を追い詰めていたのだろうか?
縁雅は頭の中でぐるぐると回る思いに答えを見つけられず、言葉を濁した。
「……あぁ……そんな顔なさらないで」
多喜里は、悲痛そうに眉根を寄せている縁雅の左手をとり、指の足りない己のもう片方を重ねた。
「責めてる訳ではないわ。ただ……本心を打ち明けてくれた先生の為に、私も本当の事を話そうと思って」
そう言う多喜里を、縁雅は今にも泣きだしそうな顔で見つめている。触れた手は温かかった。右手に感じたものよりも、想像したものよりもずっと、それは “ 生きた ” ものに感じられた。
「……」
多喜里は手に取ったまま、僅かに微笑む。
「…………」
笑みを浮かべたまま、しばらく見つめる。
「……はぁーー……」
多喜里はそのまま俯き、縁雅が聞いた事のないようなほどに低い声で、ひとつ、溜息をつく。
「……? 大丈夫ですか?」
その急な変化に眉を下げ、心配そうに覗き込む縁雅を、ジロリ、と、多喜里は見た事もないような、睨みつけるような目付きで見た。
「……いやぁ……」
「いい加減、 “ 女のフリをする ” のにも疲れたと思って」
そう言って、縁雅の肩をトン、と軽く叩き、半歩下がり、少しばかり距離を取った。
それは、出会いから今までの全てを突き放す様に。
「……へ?」
耳を疑うような台詞に、縁雅は思わず素っ頓狂な声を上げた。
──彼女は今、何と言った? “ 女のフリをする ” 、と、言ったのか……?
多喜里の顔からは見知った微笑みはとうに消え失せ、冷ややかな眼差しだけが縁雅を見据えている。
「はぁ……どうせ今は客じゃねぇし……変な気を使わずに、最初からこうしておけば良かったんだ。いいか、よく聞け、貴様の本心を打ち明けた、その度胸に免じて教えてやる」
真っ直ぐに己を見る多喜里のその表情に、縁雅は握り締めた手の中が湿っていくのを感じる。
──彼女のことを知りたいと思っていた。けれど、今はその先が紡がれるのが怖い。
脚下にある薄氷が今、割れようとしている。
「​──性同一性障害。俺は、男だ」
その見透かすような、彼女──否、彼の瞳に、もはや温度は感じられなかった。
「……そう、だったん……ですね……」
驚愕に一瞬目を見開く。だが慎重に、傷つけぬよう、己の培ってきた日々の中から言葉を選んで、並べる。
「話してくれてありがとうございます。……言いづらいことだったでしょう」
彼の苦悩に気付けず、気の利いた言葉ひとつ述べられない己を、縁雅は恥じた。同時に、感じた衝撃と感情の混濁を表に出さぬよう、必死に己を抑えた。
「へぇ……お前はそういう反応をするんだ。いや、流石教師と言うべきか……人ができている。己の妻と重ねていた相手がこんなのだったっていうのになぁ」
特段興味も無さそうに、多喜里は縁雅から視線を外し、淡々とした口調で話す。
「……いえ。常に本心を押し隠して生きてきただなんて、お辛かったですよね」
口に出す言葉とは裏腹に、縁雅は己の声が震えるのを感じていた。先程までのものとは、全く異なる心痛。
突如冷水を浴びせられたような、冬の日の寒さにも似た痛み。
──ああ、本当に……
彼女にそっくりだ。
縁雅は冷えだした左手を上着の内ポケットに入れた。
「あ?……はぁ……今更そういう気遣いは要らねぇよ。聞き飽きた」
気色悪い。そう言わんばかりの顔を多喜里は浮かべる。
「本心を隠し通して生きることなんぞ、慣れればどうってことない。……お前なら知ってるだろ?何年も教師やってれば、俺みたいな子供だって見てきた筈だ
「……周りの人間はな、俺達の事を憐れに思うばかりで、手を差し伸べる事は絶対にない。絶対に、だ」
「だったら、」
思わず発したその声の先に上手く言葉を探すように、縁雅は一度喉を湿らせ、それから口を開いた。
「そう思っているのならどうして、今更私に話してくれたんですか。どうしてさっきは、私に手を差し伸べてくれたんですか」
「……此処で話しておかなければ、後悔する。そう思ったからだ」
多喜里は僅かに沈んだ声で静かにそう言うと、水面の方へ歩み寄った。
「あっ……」
縁雅は内ポケットの中で握りしめていたものから手を放し、彼を引き留めようとするが、すんでのところで、指先は服の端を掠めただけだった。
「……」
多喜里は、眼下に揺らめく己を斜に見た。
水面に映った顔。柔らかく揺れる髪、穏やかな曲線を描く瞳、鼻、口。たおやかな女性の像、大嫌いな自分の顔。それは決して、微笑みなど湛えていない。
──あぁ、あの日もこんな表情だったのだろうか。
「……嘗て、俺には大切な人が居た。女として生きる男の俺を、家族以外で唯一、理解してくれた人だ
「彼女と一緒に居る時は、本当の自分で居られた。……小説家だった彼女は、足繁く俺の店に通ってくれていた。沢山、沢山の時間を過ごしたんだ
「……俺は、彼女の事を愛していた。クソみたいなこの世界で、心から好きになった唯一人の女性
「……でも、
「ある日、彼女が婚約者を連れてきた。……信じられなかった。今迄、そんな話一度もしなかったから。ショックで頭が真っ白になっていた俺に、彼女、何て言ったと思う?
「…… " ごめんね " ……だって
「その時に気付いた。あぁ、結局彼女も他の連中と同じなんだって
「その目が、あまりにも憐憫に満ちていて​──それで俺は、惨めになって……悔しくて、恨めしくて
「​──池に、突き落としてやった」
「……! そんな……」
──なんてことを。
そう口にしかけ、縁雅は思い留まる。
多喜里の顔は、決して晴れがましいものではなかった。
言い淀んだのは縁雅なりの配慮だったのであろうか。……どれほど多喜里の気持ちを考えたところで、それは一方的で押しつけがましい、ただの憐憫にしかならないけれども。
「……俺が此処へ来てからも、池ばかり彷徨いてた理由が分かるか。……忘れないようにする為だ。あんな事を言われても、あんな顔をされても……嗚呼、今も尚……彼女を愛している俺がいるんだ
「沈みゆく彼女の顔が、今でも忘れられなくて……今も、ほら……水面に​──
「​──彼女、が……?」
水面に、多喜里の姿はなかった。
在るべきその場所には、死んでしまった筈のあの女性が、微笑みを浮かべて、そこに居た。此方を見ている、その表情が、あまりにも優しくて​──
多喜里は、無意識に、彼女の方へと手を伸ばした。
虚ろな光が、多喜里の瞳を滑っていく。
ゆれる、揺れる、ゆられる、波ひとつないそこに浮かぶ変わらぬ笑みに、揺れる。
ずる り 、
引き込まれるように身が躍る。落ちる。
在るはずのない影を追って。
視界が反転する。落ちていく。何よりも憎かった己の女々しい顔が、細い肩が、重く伸し掛る胸が、水面へ触れる。
波紋が生まれ、在るはずの無い影が揺らめく。その顔が意地悪そうに歪んで見えて、それから消えた。そしてその頃になってようやく気付く。──嗚呼、自分は此処で終わるのだと。
伸ばした手の先が、腕が、肩が、胸が、半身が、頬が、目が、口が、耳が、腰が、腹が、腿が、足が
消えた。
飛沫ひとつなく、 '' そこ '' に喰われて、消えた。
『──……』
肉の一欠片も失った、魂の残滓はもの思う。
──あぁ、最後まで惨めだったな……。
薄れゆく意識の中思い浮かんだのは、今も尚愛しい彼女ではなく、何故か最期の時に自分と共に居た、縁雅の顔だった。
彼はまだそこに居るのだろうか。どんな顔で、この水底を眺めているのだろうか。……そんなことを考えながら、透明な両腕を、遙か上方で揺れる水面に向かって伸ばした。
その心の全てが消えていくまでの間、 " それ " はただ、胸の内に浮かぶひとりの顔を抱き続けた。
小さな波紋がひとつ、生まれて広がって、霞んでいった。ぼんやりとそれを見ていた縁雅は、ハッとして足を踏み出す。
しかし今更、踏み出したところで何になろうか。
「──多喜里さ……っ」
縁石に手をつき、慌てて水面を覗き込む。嗚呼、そうした時には、既に。
「……ぁ、……ぁぁ……」
呆然と、血の一滴すら残らぬ無情な鏡を、縁雅は声にならない声を漏らして見つめる。
「……ど……うして……」
脱力感。それから、無力感。
彼への理解も、救いの手を伸ばすことも、その腕を掴んで引き止めることも、出来なかった。……分かっていたとして、出来ていただろうか。
思考が上滑りしていく。何も考えられず、ただぼんやりと、情けない顔の己と、その奥に眠るであろう多喜里を見ていた。
どれくらいの時、そうしていただろうか。
ぴく、と縁雅の手が僅かに動いた。
──寒い。
否、もはや温かさも冷たさも感じられなくなっていた。
浅く、長く、息をする。
多喜里が最期に残した手の温もりも、眼差しの冷たさすらも、淀んだ水底へと消えてしまった。
もう、戻ることはない。

◎結果
比女島 多喜里──死亡
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み