夢想に帰す

文字数 2,752文字

固く閉じられた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
覗いた世界は、飽き飽きするほどいつもと変わらない。
ここに来る前の、世界。
アパートの目の前に立っている。見慣れた灰色の扉が、冷ややかな視線でこちらを見ている。
──こんなところで、自分は何をしていた?
思考に靄がかかったように、記憶がはっきりとしない。ここに来る前は何をしていたっけ。考えると、ズキリと頭が痛む。
思わず額に当てた手をどかし、改めて目の前に佇むドアを見る。
──用事で外に出て、その帰り?家に着いていたのかな。
そう思えば、そんな気もしてくる。ポケットに手を入れれば、硬いものが当たる。銀色のシンプルな鍵を取り出し、部屋の扉に差し込む。少し固い手応えを感じながら回す。ガチャン、開いた音が響いた。
ゆっくりとノブを回し、向こう側へと押す。部屋の中は明るく、一瞬、目が眩んだ。
一歩、踏み出して、どこか違和感を覚える。
やけに、周りのものが大きい。
いや──目線が低いのか?
玄関横の靴箱の上、置かれた小さな鏡を見る。
見慣れた顔ではない、むしろ懐かしい……あどけない表情に、それを包む艶やかな黒髪。
これは、中学生の──いや、小学生の頃の自分だ。
呆然と立ち尽くしていると、真っ直ぐ伸びた廊下の先、リビングへ続くガラス戸の向こうから物音がした。
誰かが立っている。すりガラスに影を作っている。
『おかえり』
暖かい、低い声が響いた。
大好きな声。
ドアの向こう側から、ずっと聞きたかった声が聞こえている。心臓が早鐘を打ち始める。期待感とは裏腹に、指先が冷えていく。
「……た、ただいま」
頼りなく掠れた声で、やっとそう返す。
やっと会える。やっと抱き締めてもらえる。
ずっと会いたかった、ずっと撫でて欲しかった、自分の名前を呼んでくれる存在。
凍りついたような手をどうにか動かし、取っ手に震えた指先を引っ掛ける。ゆっくりと握り込み、下げた。
「……ただいま、お父さん」
ドアが開く。自分よりもふた回り以上大きな背格好、奥から差し込む真っ白な光のせいで顔は上手く見えないけれど、この匂いは、間違いない、父さんの匂い。
リビングに、光の中に足を踏み出した。
父さんに触れたくて。その温かく大きな身体に触れたくて。まるで幼い子どもがするみたいに、地面を蹴って父さんに向かって飛び込む。
──父さん、父さん、父さん……。
大好き。
少し硬い感触がして、抱き止められる。腕を回したまま視線を上げるが、やはり父さんの顔は見えない。真っ暗な洞窟のように、そこだけが落ち窪んでいるように、隠されているように黒い。
ざらりとした不安感が心の表面を撫でる。思わず腕に力を込めるが、それを察したかのように、大きな手が優しく髪を撫でた。
胸中を侵食し始めた黒いものが、その感覚だけで霧散するように消えていく。そんな些細なこと、どうでもいいというような気持ちになって、目を瞑る。
いつまでもこうしていたい。
……こうしていたかった。
どこかで、ヒビの入る音がした。
自分が、喉から手が出るほどに羨んだ時間。父の黒い写真を手に持って、黒い車に乗らなくても良かった過去。
それが欲しかった。自分を偽らなくてよかった世界が欲しかった。
父さんも居て、母さんも居て、その間に自分が居て。
ただ普通の " 家族 " でいたかった。
そんな、" 今の自分 " が生まれなくてよかった世界を、どれほどに望んだだろうか。
下ろした瞼の視界には影が落ちて、ただ温もりだけがある。もし今、目を開けてしまったら、この場所は消えてしまうのだろうか。
消えてしまう?ここが現実だろう。ここが正しい世界だ、何を考えている?
小さく入ってしまったヒビが、音を立てて広がる。
足元がぐらつくような感覚がした。不安定な地面、足場、世界。一刻も早くここを離れなければ。ここを離れて……
……何処へ行く?
あんな現実に、帰る理由は?
自分を呼ぶように、頭をぽんぽんと叩かれる。
目を開けて、その顔を見ようと視線を上げる。相変わらずの真っ黒い顔。なのに何故か、笑っているのだと分かる。
それが酷く不気味なものに思えて、無意識に身体を引く。
が、身体が、全く動かない。
" 父さん " の背中に回した腕は、まるで接着剤で止められたように剥がれる気配がない。
それどころか、腕の感覚すら鈍くなっていく。 " 向こう側 " で自分の腕が、今どうなっているかも分からない。
腹の底が冷えてくる。それすら知らぬ顔で、細い指は自分の頬を撫でる。
逃げ出そうにも、身体は強張ったように動く気配がない。足は地面に張り付いている。こちらが藻掻いている間にも父さんは頬を撫でている。ぞっと背筋が冷えて、逸らすように視線を落とした。
指先が頬から離れる。大きな掌が、自分の頭の上から、迫ってくるのを感じる。身体が震える。
『   』
ふと、誰かに名前を呼ばれた。父さんとは違う、柔らかな声色。そして背中から、挟むように優しく抱き締められた。
──今の声は、
母さん……?
今から思い返せば遠いその声。変わってしまう前の、優しかった頃の母さんの声。
温もりがじんわりと身体に伝わってくる。あたたかさが心に沁み込んでいく。
そうだ、父さんが死んだのも母さんが狂ったのも悪い夢で、この幸せな世界が現実なのかもしれない。
こっちがいい。これが、現実がいい。
ああ、幸せだ。
戻る理由なんてあるのだろうか。暗い、たったひとりの部屋に。薄汚れたあの場所に。
……ああ、ひとつ心残り。
ありがとう、彼と友達になってくれて。
ここを出たら行こうって言っていた映画、僕は凄く楽しみだったよ。生きていて初めての友達だったかな。
でもごめんね。
彼は存在しないんだ。
──でも確かに、彼は嬉しかったはずさ。
母さんがそっと身体を離す。そして優しく手を握った。
『ほら、ご飯ができるわ。あっちに行きましょう』
促すように、父さんも手を繋いだ。ふたりに挟まれる形で、間に立っている。見上げれば、ふたりがこちらを見て笑っているのがはっきりと分かった。
「……うん。おなかすいた」
ご飯は何かな、好きな物がいいな。
ああでも、もし嫌いなものでも、また明日作ってもらえばいいか。
『なんでも作ってあげるわよ。──蓮』
ああ夢を、夢を見ている。
幾見遥 は夢を見ている。
それを、選んだ。
『…………』
幼い娘は手を伸ばす。指先に、ふらりと蝶が一匹、留まった。それを見て娘は笑う。歳に似合わぬ、大人びた微笑み。
『おねむりなさい、おねむりなさい』
ゆっくりと、歌うように語りかける。まるで母が、愛おしい我が子をあやすように。
『夢をみましょう、すてきな夢を。醒めない夢を、美しい夢を』
『おねむりなさい。夢をみなさい。永遠に続く、幸福な夢を』
灰の色をした髪の隙間から、空虚な瞳が覗く。
『かわいい、かわいい、わたしの子』

◎結果
幾見 遥──死亡
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