至正に帰す

文字数 5,701文字

酷く大きな鐘。美しい装飾で囲まれた模様に反し、ぽっかりと空いた口は、どうにも心の深層の恐怖を誘う。
「成る程……ここが例の。それで?何度鳴らせば良かったのでしたっけ」
舞湖は、隣に立つ彼の、赤く腫れた左手の指に視線を移す。
「とりあえず、三回。そしたら鈴が鳴るってさ」
一臣は鐘に触れられる距離まで近付き、模様を探るように目を凝らし、力なく下げた左はそのままに、右手の指でゆっくりとなぞる。
舞湖は軽く頷く。
「分かりました。手掛かりがあるのならば試す他ないでしょう」
ではどのように そう口を開き、喉奥から空気を発した
その時。
がら
と 何か乾いた音がした。
まるで、木の板同士がぶつかりあったような。
「何?一体どこから……」
困惑と疑念を滲ませた顔つきで、舞湖は辺りを見回す。一臣も見渡し見渡し、音の出処を探る。言葉に出来ぬ不安感に駆られ、そっと舞湖の傍へと寄り、人差し指を己の唇に当てた。
その合図に反応し、舞湖は口を噤む。ただその場に立ち、何処からか聞こえるその音にじっと耳を澄まし、警戒する。
未だ音は止まない。
遠くから聞こえているのか、酷く微かで、切れ切れだ。
がら がら がら がら ……

がらん

と一際大きく音が耳殻を叩いた時。
一陣、風が吹くような響きが聞こえた。
それに声を出す間もなく、舞湖の腹が、血を上げた。
鎌で斬られたかのように、服も、肌も、臓器までもが裂け、宙を赤い水滴が舞う。
「っ、ぁ゛っ……!?」
突如走った鋭い痛みに、舞湖は咄嗟に腹を押さえる。
生温かいものが手に触れる。指の隙間からぼたぼたと零れ落ちる。
鮮烈な赤。闇にも紛れず瞳に焼き付くその色が
身体を裂かれるようなその痛みが
どうにも現実だ。
「……何、……これ……」
震える手を、腹から離し、見つめる。べたりとついた赤に、舞湖の顔が血の気を失っていく。
「……は?」
一臣はすぐ横で崩れ落ちそうになる舞湖の身体を支え、伝う鮮明な色に目を見開く。
疑問が、一臣の頭を余すところなく埋める。
俺は、この目でちゃんと見てた。マコちゃんの横にいた。
誰かが近づいた?
いや何も、何も感じなかった。
何が起きた。
何 が どうやって その腹を 裂いた ?
疑問が混乱に変わる前に、一臣は思考に蓋をする。ただ冷静に、平静に、やるべきことを考える。
「マコちゃん、落ち着いて。大丈夫、まず血を止めよう」
真っ白な顔で俯く舞湖をその場に座らせ、一臣は言葉をかけ続ける。
多分、時間はない。この選択が合っているかも分からない。出来ることは 早く 俺に 何が
──焦るな、俺。
呼吸ひとつ、一臣は自身の右の袖を丸々千切り、舞湖の腹にぐいと押し当てる。
触れたそばから、それはみるみるうちに染まっていく。舞湖は未だ訳もわからぬままその様子を凝視していた。
平生の舞湖からは考えられないが、酷く動転しているせいか、礼を述べる余裕すらない。ただ、ぐるぐると思考のみが巡る。目に映る色が、恐ろしい光景を記憶の海から釣り上げた。
──池で切り落とされた右の手だってそうだ。
ここには何かがいる。
得体の知れないものが悪意を持って、自分たちに害を及ぼそうとしている。
だったら、それは一体……?
段々と、舞湖の目が虚ろになっていく。ぼんやりと、意識が遠のいていく。
「今は何も考えない。目の前のことに集中して。ボーっと考え事してたら、意識飛ぶよ」
「分かった?」
一臣は空いた手で舞湖の肩に手を乗せ、真っ直ぐにその灰の目を見る。
考えろ、考えろ、考えろ。
どうするべきだ。何をするべきだ。
早く動け。 '' あれ '' よりも 早く、早く。
そもそも、 '' あれ '' は何に反応している?呼吸?気配?生命?
それとも、音?
それを確かめなければならない。
ぱちり、と顔を上げた一臣の瞳に、それは映る。
鐘だ。
──どうにか、鳴らせないか。
走って向かうにも、その隙にまた斬られるかもしれない。それに、舞湖のこの様子を見る限り、離れるのは得策ではない。
限界まで回した脳がじくじくと痛む。鈍いその感覚に耐えながら一臣は得策を探す。
ふと、自らの足元が目に付いた。
パッと履いていた下駄を手に取る。そしてそれを、鐘に向かって思い切り投げ放った。
真っ直ぐ、そして勢いよく、下駄は手から離れ空を切る。
美しい直線を描いて投げられた下駄は、鐘に触れるや否やのその刹那、また風を切る音と共に、見る影もなく細かく切断された。
はらはらと儚く、木片が地に落ちるその光景に驚く間もなく、続けて何度も何度も空気を斬るような音が聞こえてきた。
「……ッひっ!?」
信じ難い光景に動きが止まる。時が止まったような刹那、先に動き出したのは一臣だった。
「ダメか」
そう独りごち、一臣は未だ虚空を見つめ続ける舞湖を勢いよく抱き上げた。
「いっ……」
つきりと走った腹の痛みで、舞湖はハッと意識を戻す。流れ出る血で服が濡れるのを感じながら揺られ、舞湖は一臣の考えを悟った。どうにか下ろしてもらおうと模索するが、指先までも硬直するような痛みに、身動ぎするのがやっとだった。
せめて言葉で、と舞湖は声を絞り出す。
「いけません、鬼冢さんっ……私のことは置いて逃げてください……!まだ辛うじて足は動きます……!」
「ヤだね」
一臣は間髪入れずそう答える。それが当然であるが故に。それが必然であるが故に。一瞥もくれず、ただ前だけを見て足を動かす。
ひゅんひゅんと、皮一枚に風が鳴る音が一臣の耳に届く。しかし振り向かず、止まらず、走り続ける。
僅かな段差、隆起、それに片方だけ脱げた下駄。それらの要因が重なって、ほんの少し、
ほんの少しだけ、スピードが緩んだ。
舞湖を守るように走るその背を大きく、風の鎌が斬った。
「……ッ……!」
背中に大きく亀裂が入る。
び しゃ り と闇夜に赤が散る。
一臣はなんとか声を堪えたものの、その表情は苦悶に歪む。かくりと力の抜けた膝を立て直し、足を止めぬようまた一歩、踏み出した。
自らを抱える背中越しに、パッと舞う鮮血を見た。舞湖は、今にも溢れそうな涙をめいっぱいに湛えて声を震わせながら叫ぶ。
「今っ……今、背中に……!」
「……離して!人ひとり抱えて、まともに走れる訳がないでしょう!?」
腕の中から逃げようとする舞湖を、一臣は押さえつけるように手に力を込めた。
「大丈夫。走れるから」
背中に血が伝うのが分かる。気づけば下駄も脱げていた。地の感触が直に足を刺す。決してやさしい道ではない。
しかし、それでも走り続けた。
ただひとつ。求めるただその 一文字 のために。
一歩、一歩、駆ける。決して離さぬよう、腕の中の存在を護るよう、決して失わぬよう、駆ける。
背中を伝う血が熱い。まるで神経が剥き出しになったかのように感じる。ヒリヒリと痛む、まるで焦げるように。
それが手を貸してくれたのだろうか。
はたまた自らの内の直感か。
身体を大きく右に捻り、半身になる。と、皮一枚の直ぐ傍を風は斬り裂いた。
「はは、すげー」
ぽつり、一臣は他人事のように呟いた。
__次はきっと、こうはいかない。
呼吸を忘れていたかのように、大きく息を吸い、また大きく息を吐いた。
足の裏は次第に擦り切れ、心臓は早鐘を打っている。
勇を鼓すよう、気圧されぬよう、いつもの自分を見失わないよう、
口元に彫りつけたような笑みを浮かべた。
足に迷いはない。
どれほど駆けたか、離れたか、もう少し行けばいいだろうか、もう少し行けば逃れられるだろうか、そんな思いが一臣の頭を巡る。いや、もう少し、まだ少し、もっと先へ──
がくり、と身体が下がった。そのまま地へとなだれ込む。心は前へと言っているのに、どうしてだか前に進めない。何故?何故?何故?何故?困惑と共に、理解する。右足の膝から下が、あらぬ方向へと曲がっているのだ。
「っぁ゛、……っ…!!」
辛うじて繋がっているが、骨は露出し、血は噴き出し、赤黒い肉が顔を覗かせている。
そう だ、そりゃ、そうだ。こうなる 。
迫り上がるように息が上がり、全てが硬直したように思考が止まる。
無意識に、地についたてのひらに力を込める。ぐっ、と地面を押す。それに一臣の身体は応えなかった。
もう、立ち上がりはしなかった。
いや、立ち上がれはしなかった。
──終わりか。もう足も動かない。この身は何にも応えない。
何も、出来やしない。
呼吸音が耳に届く。
浅く、熱く、繰り返す、弱々しい音。
それでも尚、生きようとする音。
ちかり
朦朧とした一臣の瞳の奥で、ひとつ、光が弾けた。
舞湖は一臣の取った行動に目を見開く。
自らを守るように覆い被さる身体に、喉の奥が詰まる。
「……、何を、してるの……
ど どいてっ……!!ぁ、 あなた、が っ 死んでしまうでしょう っ……!?」
「うん、俺、死ぬのかな」
「そんな、こと……!」
呑気な声色でそう言う一臣に、口では抗するも、腰が抜けてしまった舞湖は動くことが叶わない。
辺りを見ようと僅かに首を回した舞湖の瞳に映ったのは、
血の気のない顔で 微笑む 、一臣だった。
──ここで死ぬ。
そんなことくらい、分かる。
呼吸も整わぬまま、意識だけがはっきりとしている。腕に伝わる熱に対して、自分の身体だけが冷えていく。
──マコちゃん、
君がここにいるおかげで、俺は間違わない。
躊躇うことなく身体が動く。
こんなにも、他人のために。
この感謝は届くだろうか。
届くことはないだろうな。
徐々に血液も体温をも失っていく一臣の背を、鞭打つように、
否、
鎌振るうように、何度も何度も風は斬る。その度に鮮血が飛ぶ。一臣の顔は歪んでいく。
あと少し。あと少しで、命尽きる、その予感がある。
一臣は少し大きく呼吸し、舞湖に向け囁いた。
「立てるなら、逃げて。分かった?」
「そんなの……認められるわけ……だって、だって、貴方も一緒に……」
ああ、まだそう言うんだね。でもね、君は ” 良い人 ” だから、自分のために逃げていい。
俺は、逃げる訳にはいかないから。
口に出す気も、気力もない。
「舞湖」
「一人で行けるね?」
諭すような優しい声色。普段通りに、ゆっくり、安心させるように彼女の頭を撫でる。
「後で、ね」
残った力を振り絞り、一臣は己の身体をぐっと持ち上げ、舞湖が逃げられる隙間を作った。
舞湖は、喉の奥まで出かかった言葉を飲み込み、腹の痛みに耐えながら這い出た。
「──っ、遅れないで……遅れないで来てくださいッ!!」
地に手をつけて、ふらふらと立ち上がる。震える脚に鞭打って、地面を踏みしめる。
一瞥すらもなく、舞湖は一臣に背を向けて、聖域のある方角へと駆け出した。
小さくなっていく背中を、一臣は地に伏せた姿勢のまま、視界の端で見送った。
──これで良い。
今まで、全てはこの時のためだった。
俺のこれまでと、これからが、
今から報われる。
これは、裁きだ。
取引と言ってもいい。
俺はこの命をもって、
”正しさ”と、無罪判決を得る。
やっと。
やっとだ。
ようやく、 赦 される。
一臣は、安堵に包まれていた。背の痛みも、脚の痛みも、この胸に受けた一文字の熱に較べればなんてことはない。
目が霞む。まともに映らない視界の中、
今の己には少しだけ小さな、
手の届かない背中が、並んでいるのが見えた気がした。
風音がする。
なあ、神様。
できればさ、後ろのあの子を逃がしてやって。
良い子なんだ、すごく。
あの子だけじゃない。
その思いすら虚しく、目に見えぬ刃は既に事切れかけている身を斬り裂く。
祈りも、願いも、夢も、全てを斬り裂き、儚く散らす。
” 良い人 ” は、生きるべきだ。
死ぬべきは ” 悪い人 ” だ。
そうだろ?
なあ、生かしてやって。
それがもしダメだったら、
俺も一緒に、天国連れてってくれよ。
細く、長く息を吐く。次の呼吸がないことを悟りつつ、一臣は目を閉じた。
一陣。
瞬きの間もなく、その身は最早原型なく、
てのひらに収まるほどの大きさの無数の肉片に成り果てた。
「…………はぁ、…はぁっ……!」
風の鳴る音が、舞湖の頭の中を巡る。
一歩、一歩、足を動かす程に、少しずつ、少しずつ、己が嫌いになっていく。
切り刻まれていく姿を前にして、何も出来なかった。
不甲斐ない、情けない、自責で潤んだ瞳は視界を歪ませる。
私のせいだ。
彼の優しさに甘えてしまった。
はじめから一人でここに来ていれば。
彼は……私を守って、死んだ。
今からでも引き返せないか。もしかしたら、助かっているかもしれないじゃないか。
逃げる思想を、力の抜ける脚を、舞湖は歯を食いしばって奮い立たせる。
誰か人の居る場所へ、あの風を遮れる場所へ、
今にもつれて転げそうな脚を、ただがむしゃらに動かす。
裂けた腹はひどく痛み、荒い息遣いに合わせて血を吐き出す。その度に弱い自分が諦めてしまえと唆す。
それでも、止まれなかった。
──生きて帰らなければ。
自分の帰りを待つあの小さな背を想えば、震える足でも、いくらでも地を掴むことができた。
正しく、強く在りたい。
あなたの理想の姿で在りたい。
今はきっと、何一つとして叶えられていないけれど。
あの人がくれたこの命で、今度は誰かを守ってみたいから。
──だから大丈夫。 “ まこ姉 ” は、負けないよ。
零れ落ちそうな涙は、決意と使命に瞳を燃やしている。
清く、正しく、美しく。
あの日在ろうと決めた己の背が先を行く。それは四角く縄で囲まれた場所へと消えていく。
ああ、もうすぐ、辿り着く。
その手が縄へと伸ばされる。
指先が触れた。
触れたと同時に、身体が傾いた。
ぐ ら ぁ り
斜めになった視界に、舞湖は困惑する。身体を元に戻さなければ。もうすぐなのに。もうすぐなのに。
その時、視界の端に見えた。
崩れ落ちる自分の腹から下が。
喉の奥から恐怖と困惑と痛覚が声が込み上げる。しかし、舞湖はそれを発することは出来なかった。
とさ、と、身体より先に何かが落ちた。
涙に濡れたその頭部が、続いて胸が、そして下半身が、どさりと落ちた。
美しい断面で斬られたその身体は、縄へと手を伸ばした姿勢で地に寝そべっていた。

◎結果
鬼冢 一臣──死亡
六田 舞湖──死亡
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