幻影に帰す

文字数 3,986文字

「うわ、結構すげーことになってんな……」
井戸をまだ見ていないことを思い出し来てみたものの、ひどく古びた、まるでホラー映画にでも出てきそうな気味悪い様相を見て、後悔の念が湧き上がる。
大和の顔が歪む。恐怖は特に感じなくとも、その井戸の薄汚い様子には、どうしても多少の嫌悪感を抱いてしまう。
夜に訪れてしまったことがまた不気味さを更に増しているように感じる。闇に溶け込むように地から姿を出す井戸は、やはり言い様もなく恐ろしい雰囲気を湛え、また近づき難い。昼にくればよかった、など今更考えても遅いようなことが胸中に浮かんだ。
「まぁ色々見てみるしかねーか……。とりあえず、こいつ……鶴瓶、っつったんだっけか?」
縄の行く先を目で辿れば、どうやら井戸の底まで降りているようだ。さてどこから見たものか、と大和は腰に手を当てひと呼吸挟んだ。
その背後、ざく、と苔を踏みしめる音が小さく響いた。しかし、大和の耳には届いていなかった。
ざく、ざく、ざく
人影は段々と近くへ。
ざく、ざく、ざく
そうして人影は大和のすぐ傍へ。
「院瀬見くん……?こんな夜中に、なに、してるの……?」
「うぉ゛っ、!?」
大和の声に驚き、声をかけた人物の肩も跳ねる。反射的に一歩下がるも、靴の底が苔で少し滑る。かくりと曲がった脚に力を入れ、なんとか持ち直した。
疑心混じりの声をかけたのは、朱里だった。
少し離れた場所を歩いていた朱里は、井戸辺りにいた人影を見つけた。こんな夜中に誰が、と警戒心と少しの好奇心を持って、気配を隠しつつ近づいたのだ。
そしてその人物の正体に思い当たり、朱里は小さく「あ」と声を漏らして、声をかけたというわけだ。
しかし、まさか大和はそんなことを想定していたなどということもなく。気味悪い井戸の前、月のない夜、そして意識の外からかけられた声。
「……び、ビビった……黒川、か……」
安っぽい小説ですら使わない、ありふれたホラー仕立てに内心冷笑しつつも、反して動悸は止まらない。
後ろに居たのがもし、包丁を持った殺人鬼だったら……なんて後から思ったが、朱里の姿を見て一先ず安堵の声を漏らした。
「お、驚かせてごめんね……?何してるのか気になって……」
謝罪の言葉を紡ぎつつ、朱里は井戸にちらりと視線を投げた。苔や蔦に覆われ地面とほぼ同化してしまっているのが見て分かる。出来れば触れたくないとばかりに、朱里の顔は歪んだ。
「俺の方こそ変な声出しちまってすまねぇな……」
大和は申し訳なさそうに、気まずそうにそう言った。一瞬愛想笑いのようなものを浮かべたが、直ぐに真面目な顔に戻した。
「何してたか、と言われるとまだ何もしてねぇが……井戸の方見てなかったんで、一応調べとくかー、的な」
言うなり身体ごと向き直り、鶴瓶の方に視線を戻す。縄はたるみ、その先にあるであろう桶は底の闇に呑まれている。
「……なんかあるよな、この中……」
桶の有無だけでもまず確認してみるか、と縄を引こうと手を伸ばす。が、ふと、その先になにか危険な生物など、危ないものがくっついている可能性が脳裏を過った。その場合、傍に居る朱里に迷惑をかけてしまうのが最悪の展開だろう。
ちらりと大和の投げた視線を受け、きょとんと不思議そうに朱里は瞬きした。
「黒川、引っ張ってみるからちょっと離れてろ」
朱里は大和に促され、そっと動いて距離を置いた。
ざわざわと、何処からか吹いた風で草木が揺れた。その音に、朱里はびくりと肩を弾ませる。
やはり、夜になんて行動するんじゃなかった。嫌なことを思い出す。
ぎゅっと自分の腕を握りしめる。
──大丈夫。この場で自分を害するものは、いないから。
じっと自身の足元を見つめ、朱里は暗示のように心の中でそう繰り返した。
そこから少し離れた場所。大和はぎゅっと縄を握った。力を込めて、地を踏み締めて、引いた
その背を、とん、と誰かが押した。
ぐ るり と 体勢を崩した身体は縁石を超え、深い深い井戸の、ぽっかりと空いた夜の口へと呑まれていった。
「​──は」
大和は、何が起こったか分からなかった。
けれど、すぐに認識した。
落ちている。
背中が押されたような衝撃も、ふわりと宙に浮いた自分の身体も、真っ逆さまに落ちていく感覚も、嘘ではないらしい。
落ちていく。
「な、なん、で」
辛うじて絞り出したその言葉も、果たして声になっていただろうか。
そう、なんでかわからない。
朱里以外の人間が背後に居たのは見ていない。だから、押されるようなこともないはずなのに​──いや、それとも、朱里が自分を押したのか?
時の流れが随分とゆっくりに感じられる。
落ち続けている。
分からない、否、今はそんなことはどうでもいい。落ちていく。落ちていってしまう。
たるんだ縄を思い出す。そうだ、たるんでいた。底があるのだ、この井戸には。底に、そこに、到達すれば。
そうすれば、自分は。
ようやく、焦燥、恐怖、慄然。生まれて当然の感情が指先までを支配する。体が動かなくなる。
あぁ、落ちていく。
石のように固まってしまって動かない身体とは反対に、頭は酷く冷静で、大和は何処か、己を俯瞰するように感じていた。
死ぬ。
そう覚ったせいか、判ったせいか、何やら走馬灯のように全てが思い出された。
大切な友人の顔が過る。
大学を出て自分の家に寄り、ゲーム大会をしたのが楽しかった。
憎き担当の顔が過る。
自分の人生の中で、魔王と呼ぶべきはこの男だった。全ての歯車の狂いは、この男のせいだったのかもしれないのだから。
​そして、妙に白んだ病室の風景が過った。
"彼女"は真白のベッドの上で、窓の外の向日葵を眺めていた。こちらに気づくと、静かに笑って、また楽しそうに、新しい物語を。
そんな彼女に今の自分が、許して欲しい、と言ったら、いいよとは言われるだろうか。
──きっと、言われないんだろうな。
望むなら、誰かにこう言って欲しかった。大和は悪いことしてないよ、と。
それでも、自分は悪いことを犯したのだから、そんなことは叶ってはいけないのだ。
そうして、なるようになれ、と思って。考えるのをやめて、瞼を閉じてしまった。
そして、気づいたのだ。
何時までも、この身に衝撃が無いことに。
おかしい。
この状況はおかしい。
その時、大和の手首を誰かが掴んだ。
掴んで、そのまま
折った。
「────」
脳天まで走る痛みに声をあげようとした口は、また誰かによって塞がれた。
次は足を。また手首を。腹を。肩を。
首を。
触れている手の数は、明らかに二つではない。
幾つも幾つも幾つも幾つもの手が、大和の身体を掴んでいる。
…… … ……、 ……
折られる。折れている。痛みは確かにある。けれど常闇、音すら響かず、ただ、大和は苦痛に身を跳ねさせるのみ。
落ちていく。
大和は底なしの落下の中、遂には身動ぎすることすら叶わなくなった。
無音。
「……院瀬見くん?」
ふと顔を上げると、朱里の視界の中から大和の姿が消えていた。きょろきょろと辺りを見回すが、居ない。
すぐに、ああ、井戸に降りたのか、と思い当たる。
それならそうと言ってくれれば、と思いながら、朱里は少しだけ井戸に近づいた。
「院瀬見くん」
呼びかけた声が井戸の中で僅かに反響する。しかし、それに応えは無かった。
まさか、降りたのではなく、体勢を崩して落ちたのか?
「ねえ、院瀬見くん、大丈夫……?」
変わらず、返事がない。そうだ、例え降りたにしても、その音があれば気づいたはずなのだ。言い様のない不安が朱里の胸の内に広がる。
どうして?どこに?疑問符は広がり、留まるところを知らない。
最悪の想像が脳裏を駆ける。
ああでも、目を離していたのは大した時間じゃない。まだ、大丈夫 かも しれない。
助けないと。
『命』とは、粗末にしていいものではないから。
その思いに呼応したのだろうか、一瞬、" あの子 " の顔がフラッシュバックした。それに困惑し、束の間思考が止まる。
どきり、と大きく心臓が鳴った。
──なんで、きみが……いや、違う。今、あの子は関係ない。目の前のことに集中しよう。
今この状況で降りることは得策ではないだろう。人ひとり抱えて登るなど無茶もいいところだ。
「……」
朱里は少し迷って、人を呼びに行こうと決断した。
誰を呼ぶべきだろうか?
朱里の脳裏に数人の顔が浮かぶ。誰に頼れる?
いや、とかぶりを振って、それを払う。
──そんなこと考えてる暇はない。誰でもいい。出会った人を呼びに行こう。
そうして朱里は、井戸に、背を、向けた。
向けてしまった。
嗚呼、果たしてその選択は正しくなかった。
突き立てられた。その背に、深く、深く、刃物が埋まった。
「──ッ!?」
背中が、熱い。
これはなんだ?なんなんだ?
あの日。前髪を伸ばすと決めたあの日と同じ熱さ。いや、それ以上に、熱い。
熱い。熱い。熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
熱い。
燃えるような感覚とは裏腹に、指先から段々と血の気が引いていく。
ふ ら り と 体がよろめく。
よろめいた背に、また刺さる。
心の中にある一文字が浮かぶ。
嫌。命を無駄になんて、クダリとかいう神への  になんてなりたくない。だって、あの子と約束したんだ。きみの分まで、って。
こんなところで。
足を踏み出す。勇んで、勇ましく。
心の中では。
ぐにゃりと歪んだように、力が抜けて膝が折れる。
痛みと辛さと歯痒さに、自然目の奥までも熱くなる。
ああ、もう、だめ?
身体が血に染まるにつれ、弱い心も諦観に染まっていく。
視界が揺れる。
──ママ、パパ、お姉ちゃん、今、会いに逝くからね。
とさり、と
口元に僅かな笑みを浮かべて、朱里はその場に頽れた。
熱い呼吸も、冷えていく身体も、それを見る者はいなかった。否──見るものはいた。ただそれを、 だけは見ていた。

◎結果
院瀬見 大和──死亡
黒川 朱里──死亡
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