現世に帰す

文字数 19,573文字

静かな場所。ひとのいない場所。空虚で音のない空気だけが耳を貫くようにキンと響いている。
石畳は靴越しでも冷たく感じられる。赤い鳥居はもうその鮮やかさは見られない。
黒い雲渦巻く空を見上げながら、たったひとり、来るはずの人を待って深く、呼吸をしている。
──もう少しで、悲願が果たされる。指先が冷えるほどの緊張を堪え黒く淀む瞳は、その時をずっと待っている。
焦る気持ちを呑み込み、早まる脈打つ心臓を抑えるように、左手を胸に当てて強く握り込む。爪がてのひらに食い込む。つきりとした痛みが走る。
けれどどうにも落ち着けなくて、握り込んだままの拳を見るように、視線はつ、と下へ向いた。
視界の端に、動くものがあった。階段を登って、こちらに近づいてくる。
その人影は、抜き身の刀をしっかりと右手に握っていた。階段を登りきり、鳥居をくぐる。その顔は浮かないものだったが、視線の先に見知った髪色を見つけて、少しだけ歩調が早くなった。
「結くん、もう来てたんだね」
了は、随分と早く来ていたらしい結に笑顔を向けた。大人として余裕は見せておかないと、歳下に気を使わせてしまうといけないから──これからすることを思えば、余計に。
「ああ、待って下さい卯月さん」
少し遅れてついてきた、もうひとり。縁雅には、先を行くふたりの背が、とても遠く思えた。
……卯月了。確か警察官と言っていたか……。
彼とちゃんと話をしたのはおそらくこれが初めてだ。
警戒──などとは言っていられる状況ではないはずだが、それでもやはり些か緊張はする。
──何せこれから、彼に命運を託すと言っても過言ではないのだから。
そんな不安を振り払うように鳥居をくぐる。不安がっているばかりでもいけないだろう。これが上手くいけば、私たちはようやくもとの世界に帰ることが出来るかも知れないのだから。
──帰ったら、まずは言い訳を考えなくちゃなぁ。
そんな呑気な考えが脳裏をよぎる。今頃、生徒の皆はどうしているだろう。娘は私がいないことにもう慣れているだろうか。
失踪していた扱いになるのなら、警察からも取り調べを受けるだろう。そうなれば……。
──職を失うのは、不便だから嫌だなぁ。
縁雅は、空になってしまった上着の袖を撫でた。
物思いに沈んでいた結は、ふたりの気配に顔を上げる。そして、こちらへと歩いてくるふたりの方へ近づいていった。
「了さん、先生。なんかじっとしてられなくて……先、来ちゃってました」
二人の顔を見て、結の顔には、思い詰めたような先程までの表情から一転して、安堵したような笑みが浮かんだ。
あの時は独りだったけど、今は違う。自分と一緒に居てくれる人と、抗うための武器がある。
「……俺はいつでもいけるっすよ、準備万端っす!」
結は、に、と歯を見せ、持ち前の自信に満ちた笑顔で自分の闘志を示してみせる。
「やる気満々だね。でも、あまり前に出すぎないようにね。攻撃されたら大変だから」
了は前のめりな結に、釘を刺すように言う。長いこの場での生活で、警察としては鈍ってしまっているが、それでも平均よりはまだ動けるほうだ。そして何より、今、了の手元には武器がある。丸腰の未成年を前に出すなんてことは、了にはできなかった。
そして、前に出せない人はもうひとり……。
「たしか霧夜…...先生。ですね。たぶん最初の顔合わせ以来ですよね?一応警察官をしている、卯月了です。交番勤務ですが。よろしくお願いします」
了は敬礼をしようとして手を挙げ、官帽がないことに気がつき下ろす。その代わりに、手を差し出した。
縁雅の担う役割は、戦闘ではない。だからこそ、自分が守らなければ……そう思考をめぐらせた。
「ええ、こちらこそ。よろしくお願いします」
控えめに微笑み、残った腕で握手に応える。
この剣呑な場に似合わない、普段の挨拶のようなやり取り。外で彼に会っていたら、このような会話をしていたのだろうか。
──そうだ、彼だって結くんだって、他の皆だって、こんなことに巻き込まれなければ今頃、普通に日常を送っていたはずなのだ。
縁雅はまっすぐに了を見て、覚悟を込めて握り直した。
「絶対……生きて帰りましょう」
「もちろん。今生きている人は全員……無事に帰って貰うつもりですから」
声に出すと、より一層、自分のしようとしていることの責任がのしかかる。ここでのことをなかったことには出来ないが、生きている者は元の場所に戻って、少しでも以前に近しい日々を送ってもらいたい。
自然と、了の手に少し力が入った。
「すいません、少し力が入ってしまいました」
そう言って、了は手を離した。喧嘩腰なわけではないんですよ、と言うような苦笑と共に。
結は、縁雅と了のやりとりを傍らから見つめていた。挨拶に握手、大人だな、なんて今の状況に似つかわしくないことを思う。
「…、……」
二人の言葉に応えるように、結は口を開く。……『生きて帰る』ということに少し引っかかりを覚えながら。
「約束、……っすよ。何がなんでも生きて帰るって」
無謀だろうか。それでも、信じたい。
「──絶対に、帰ろう!」
結の言葉に深く頷き、縁雅は懐から小さな鈴を取り出す。握り潰せそうな小さな小さな鈴。けれど、これに自分たちの未来がかかっている。命運がかかっている。
──幽霊の巫女さんが言っていた。
この鈴を鳴らせば、笑っても泣いてももう後には退けなくなるのだ。
「──……」
深呼吸をひとつ、顔の前に鈴を掲げ、ゆらりと揺らした。
ちりん。澄んだ音が、しかしやけに小さく響いた。覚悟を決めた結果にしては呆気ない音で、短くそれは鳴って、すぐに止んだ。
しん、とまた。静寂がその場に戻る。
ああ、なんだ、また何もなかった。いちから調べ直しだ……と、
落胆が首をもたげた、その瞬間。
ぎぎ、……背後で、音がした。扉が開く。鍵穴もなく、固く閉ざされていたあの扉が。
誰の姿もない扉はひとりでに開く。右、左。両開きの戸が、完全にその中を顕にした。真っ暗闇のその本殿のはらわたが覗いて、
ぱっ。
続いて、ぷしゅ、と何かが弾ける音。音の方を見て、縁雅は、温かくて真っ赤な液が己から漏れ出ていることに気づく。
「────へっ?」
思わず素っ頓狂な声が出る。痛みすら感じる間も無かった。
縁雅の太腿が、鋭利な何かで裂かれたように、大きく傷口を開いていた。
どくん、どくん、と心臓の音に合わせて、じわじわと痛みと血だまりが広がってゆく。
「っ、あ……ぁ……」
迫り来る恐怖。
訳が分からなかったが、ただその感覚だけは理解できた。
ぞわりと背筋を這うそれを感じながら、縁雅は二人の方を向いた。すぐ近くに、迫っている──彼らに危険を告げんと声をあげる。
「……結くん! 卯月さん!」
結の瞳には、空に舞った血飛沫が映っていた。まるでそれは映画のワンシーンのように、ゆっくりと時間が流れる。赤色を反射したその空色は、もうかつての純真無垢は見る影もない。
腹の底からマグマのように、怒りがふつふつと湧き上がる。と同時に、分かった。
間違いなく、″あいつ″が来たのだと。
──待ち侘びた!ようやく、殺せる時が来た!
「やっと会えたな……!相変わらず狙うとこ下手くそで、笑っちまうぜ」
挑発するような口ぶりで、縁雅と了から離れるように、じり、と一歩ずつ距離をとっていく。……正しくは、引き離すように。
「やれるもんならやってみろよ!奪うことしか脳がないお前なんかに、俺たちは負けてやらねえ!」
"あれ"に言葉が通じるかはわからないけれど──結は大声で、あるいは己を鼓舞するように叫ぶ。そして地を蹴り、境内の奥へ行くように勢いよく駆け出した。
──あいつが姿を見せるなら、少しでも時間を稼いで、二人の攻撃の隙をつくったほうがいい。その為に、残ったこの足があるのだから。
飛び散る赤に気を取られていた了は、視界の端を動く明るい髪色にハッと意識を戻した。
「霧夜先生は安静にしておいてください!」
コンマ数秒、結の後を追うように、刀を握り直して駆け出した。
「結くん、先行しちゃダメだ!素手なんだから一旦下がって!」
了には結の意図がわかっていた。──囮になろうとしているんだろう。
──あの子を囮に攻撃すればきっと上手くいくだろう。だけど、それは『警察官』がすることじゃない。できるなら結くんにも霧夜先生にも、これ以上怪我して欲しくないんだ。
今更後を追って追いつくのだろうか。"あれ"の次の攻撃までに、助けに行けるのだろうか。
了は浮かんだ弱音にかぶりを振った。
──いや、そうじゃない。間に合わせるんだろ、卯月了!
遠ざかる背を見ながら、縁雅はがくりと膝をついた。血は止まらない。服に黒ずんだ染みが広がっていく。徐々に失われる体温に焦りを覚えつつ、何も出来ない自分をひどく恨めしく思う。
生徒たちと同じくらいの年齢の子どもが──陽彦くんと仲の良かった彼が、その貴重な命を張って囮になろうとしているのに。また、自分は見ていることしか出来ないのだろうか?
歯がゆさに押され、縁雅は立ち上がろうと身体に力を込める。
「……くっ、……」
しかし、切り傷の走った脚は力なく、身体を起こすことさえできない。
──考えれば考えるほど、今の己では足手まといにしかならない。目を逸らしたい、事実。紛れもないそれを突きつけられ、縁雅はぐっと眉根を寄せた。
先頭を行く結は、自分を止める声を微かに聞いた。
──ごめんなさい。でも、ここで止まったら。
″友達″に合わせる顔がないんだ。
こんなことしかできない、その悔しさに唇を噛む。じわりと舌先に鉄の味が滲んだ。
……少しでもいい、誰かの役に立ちたい。誰かのためになるならなんでもいい。なんでもいいから。
「あ、っはは……!奪い損ねたもんにやり返される気持ちはどうだよ」
「──所詮全部真似事だ。そんなんで神様気取りもいいところだな!」
ふ、と振り返ろうとして、
強烈な衝撃と、ばきんと何かが折れた音。目を見張る余裕すらなく、身体は大きく後方へと吹き飛ばされた。
「が、ッ…は……!」
宙を舞った結の身体は木の幹に勢いよく背中をぶつけ、そのまま地へ伏せるように落ちる。
「、ひ …ゔ …ッぐ……ぁ゛……」
「結くん!」
了が悲鳴のような声をあげる。駆け寄ろうと一歩踏み出した、了の脚が止まる。それは鼻につくすえた匂いのせいでもあり、視界の殆どを埋め尽くす、奇妙な"なにか"のせいでもあり。
今まで感じたことのない威圧感、空気感。押し潰されるような存在感。
了は強張った顔のまま姿勢を正し、刀を持ち直す。そして、瞳に映る"それ"に、切っ先を向けた。
「だ、ダメだ、結くん……卯月さん……」
今にも戦わんと構える了の姿を見て、縁雅はそう零す。敵いっこない。人間が相手取っていいものじゃない。倒すどころか、対等に渡り合うことすら無理なんじゃないか。
──なんだ、"アレ"は。
了が睨みつける先に釘付けになってしまったように、縁雅は目を離せなかった。
己の矮小さと愚かさを思い知らされた。あんなものを相手にしようとしていたなんて、冗談じゃない。
異形。
まさにそう形容するのに相応しい──否、そうとしか形容しようのない化け物。
視界に入っているだけで思考をかき乱され、恐怖に身体が凍り付く。心臓が早鐘を打つ。今すぐここから逃げろ、と。しかし身体は動かない。言葉も、その先を紡ぐことが出来なかった。
そんなふたりの様子など露知らず、結はただ身を穿つ激痛に耐えるように歯を食いしばっていた。
「……ッゔ、………」
遠くから、了と縁雅の声が聞こえた気がした。今はもう誰も声を発していないのだが、反響するようにぐわんぐわんと、結の耳の中でこだましている。
とんでもない鈍痛が身体中を襲い、息が詰まったように上手く呼吸ができない。嗚咽混じりの呼吸を繰り返し、必死に肺に空気を取り込もうとする度に、槍を突き刺すような痛みが内側から走る。
瞬く間に視界がぐにゃりと歪む。物が見えない。酷い眩暈で、目を開いてられない。立ち上がれない。
──何が起こった?
世界がぐるぐると回る中、起き上がろうとゆっくりと目線を上げて、見た。
……腕、肩、胸、胴、首。
正面に見えたそれを、端から端まで目で追う。決して、大きいとは言えない。自分の身体の二倍ほどの高さだ。だがそれよりも、その様相が、容貌が、異様としか言えなかった。
右手を、地についている。しかしそれは果たして右手と呼べるかもわからない。幹が絡まり合うように、腕やら脚やらが螺旋を描き、注連縄のような太さになっている。
3本の"幹"で身体を支え、落ち窪んだ双眸でこちらを見ている。
頭、首、腕、腕、脚、肩、脚、胴、それは、まるででたらめに組み合わせた玩具のような、気味の悪い、生き物の姿だった。
──これが、"クダリ"と呼ばれるものの全貌だった。
結は大きく目を見開き、ひゅっと息を呑む。起き上がりかけた身体は中途半端な体勢で硬直していた。
何とも言い難い不気味な姿から、目が離せない。離すことができない。
せめてと足掻くように、地をこすって握り込められた拳に、小さな感覚を覚えた。貼り付けられたように動かせなかった視線が、ゆっくりと下に落ちる。
正体は、小指に巻きつけていた紫の髪だった。これは、これは……。
──今、自分がするべきなのは、絶望することなのだろうか。
「……違う、…」
俺から全部を奪っておいて、存在できると思うなよ。殺してやる、絶対にお前は、お前だけは──!
結はふらり、と立ち上がり、目の前の脅威を真正面から受け止める。大きく息を吸い、口を開く。……気味の悪いその耳に届けてやらんと、息む。ごぽりと喉奥が鳴って、唇の端から血が溢れて溺れそうになる。それすら些末であるほどの、覚悟と、それから。
「──お前…だけ は、殺 し てや る !」
ゆら、ゆら、ゆら。三本脚では胴を上手く支えきれないのだろう、重量に振り回されるように、揺れながらぺたぺたとそれは動く。触角のように無造作に生えたいくつかの腕が、それに合わせてゆらりと動く。
一、二、三。
瞳にはその場にいる命が映る。等しく、矮小な命が。
その中で、それにとって一際気に入らないものがあった。例えるなら、汚れのついた紙切れのような。ほんの少し、しかし心のざらつく、不快感。
窪んだ眼窩で見開かれた目が、まっすぐに結を捉えた。
──結は確信した。こっちを見た、と。
人では無い身に成り下がった存在であるなら、それがお前にとって一番嫌らしい存在であるなら。
全てが好都合だ。
痛む背中。軋む骨。ふらつく足元。コンディションは最悪であるが、問題ない。
不思議ともう怖くはなかった。なんだってできる気がして、思わず笑みが零れた。
離れた場所からこちらを見る心配げな顔を安心させたくて、声を上げて叫ぶ。
「──了さん、先生!!……あとは、よろしくっす」
そうして身をかがめた。化け物が最期まで自分を見てくれるように。
そうだ、俺の役割は生かすことだ。時間を稼ぐことだ。頼りになる"大人"たちのために。自分にできることは、それくらいしかない。
ぐっと地面を蹴って、駆け出そうとして、
その身体は、上からの圧力によって地に伏せられた。
呆気ない音がした。平凡で凡庸な、果実の潰れるそれような。
飛び散った肉片と鮮やかな赤色の飛沫が地面を濡らす。先程まで人間の形をしていたはずだったそれは、無様な成れの果てとなった。
「ぇ、……」
了はその瞬間を見ていた。つい先程まで質量を持って存在していた少年が、今この瞬間にこの世界から消えたのだと、足元まで飛んだ飛沫を見下ろし、ようやく気がついた。ありえないほどあっさりと、文字通りに、散ってしまった。
「結くん」
ぼとり、未だ膝をついたままの縁雅のすぐの前に、落ちてきたのは
紫の髪が小指に巻かれた前腕。
少し遅れて転がって、血にまみれてこちらを見ているのは、
濁り淀んだ青色の目。
何をも見ていないその瞳の先に映ったのは、共に居た彼らの姿だった。
何も映さない瞳と、“目が合った”。
震える手で触れたそれは、まだ温かくて。
ぬるりと指先から伝わる熱が、それが先ほどまで生きていた一部であると嫌でも理解させてくる。
「ぁ……」
己の意に反して口の両端は吊り上がり、恐怖に硬直していた身体が僅かに動くようになっていたことに気付いたのは、その直ぐ後だった。
一方、了は依然として、血溜まりを、結の居た場所を見つめていた──睨んでいた。
──護りたかったはずの『子ども』が真っ先に死んでしまった。明るい未来が待っていたかもしれない、子どもが。
血が沸騰するような感覚がする。背筋を蹴りつけるような焦燥感で居ても立ってもいられなくなっていることを自覚する。
自分を落ち着かせようと深呼吸をする。だがそれも焼け石に水で、すぐに怒りが思考塗り潰す。
その矛先は、いとも簡単に命を奪うクダリと、それから、誰も護れない自分自身だった。
「これ以上っ、奪わせてたまるか!!」
刀を下げると足に力を入れ、思い切り踏み出す。そのままの勢いで近づき、切っ先を思い切り持ち上げようと手に力を入れる。脳内には、目の前の化け物が真っ二つになる様相が鮮明に浮かんでいた。
あと、一歩。もう少し。たった数十センチで、果たされる。幾人もの命と無念を乗せた悲願が。
そのとき、了は誰かの足音を聞いた。あのもったりした三本足のものでは無い、人間の足音。
今にも向かってくる人影。それは了よりもひと回り小さく、その手には、刃の輝く包丁がきらめいていた。
切っ先が狙うのが……了の腹部であることは、その場にいる誰もがすぐに、わかった。
「っ、銃刀法違反、……って人のこと言えないか」
──避けられる?いや、無理だろう。刀で受け止められることに賭けるしか……
息をつく間もない距離だが、了はその場に立ち止まって、無傷でいなすという僅かな可能性に賭けることにした。
気が付けば刃が深々と脾腹に入り込んでいた。
了のものではなく、縁雅の臓物に。
「あ、────」
危ない、と言おうと思った頃には、既に身体が動いてしまっていた。鋭い痛みを腹に感じたときには、もう手遅れだった。
「霧夜……先生、……」
なぜ庇ったりなんかしたんですか?
どうしてこんなことになったんだ?
了は浮かんで尽きない疑問を口に出そうとして、やめる。言っても仕様がない、それよりは、どうにか、すぐに手当を……。
狼狽えた瞳で自分を見る了を、縁雅は脂汗を浮かべながら見た。
──庇うつもりなんてなかった。
そんな、あの少年たちのような自己犠牲の善性を謳うつもりは毛頭ない。ただ、この状況で武器を持った彼が動けなくなるのは非常に不都合だと思っただけだ。
「……あっ、ははは、あははっ!刺さった!」
楽しそうな声が空虚に響く。長いサイドテールを揺らし、緑髪の少女は笑った。
「狙ったのはあんたじゃなかったけど。まーいっか、減ればいいもんね」
独り言にしては大きな声でそう呟いて、少女──四条留は、包丁の柄を更に深く沈めんと強く握った。
「っ、……ぅぐ……」
抵抗しようと手を伸ばすが、力が入らない。血を流しすぎたか、と縁雅は歯噛みする。
「やめ、……留さん……」
「あは、やめないよ。なんでやめなきゃいけないの」
痛みに奥歯を食いしばりながら、縁雅は蚊の鳴くような声を絞り出す。身を穿つ激痛と、血の少なくなった脳で、縁雅は思い出していた。
──いつか亡き母が言っていたことだ。
──人にしたことは必ず自分に返ってくる。だから人には優しくしなさい、と。
これから命運を託す卯月了のため、文字通り命を懸けたということにしておこうか。
それとも今まさに、己が他者にしてきたことの報いを受けているとでも?
分からない。
分かるのはただ、留が力を込めると同時に己の中から温かい命がごぼごぼと音を立てて溢れてくる感覚。
それだけだった。
「だって、あんたたち、敵でしょ。クダリ様のこと、殺そうとしてるでしょ」
「そんなのさぁ、無駄だって。敵いっこないよ」
「わかんないかな、もう何人も死んでるのに。ほら、さっきだって」
ちらりと、留は視線を横に投げる。その先には、やけに美しい青の瞳の、人間の残骸が転がっている。
「何したって殺されるだけなんだからさぁ。無駄なことしないで、あんたも信仰しなよ、暴力的なまでの強さ。芸術的なまでの異質さ。ああそれとも、あんたも死んで、あの方の糧になりたいんだ?」
「……ちが……、う……」
彼女の声がやけに耳奥に響く。歪な残響を伴って、脳をぐるぐると巡る。意識が朦朧としているようで、いやにはっきりするような。
──、一瞬。
揺れた彼女のサイドテールが、別の色のものに見えた気がした。
少しでも距離を取らせようと、了が縁雅の肩に手をかけ、己のそばに寄せるように引いた。
──刃物を抜くと一気に血が吹き出すはず。だから、素早く応急手当だけなんとか出来れば、……助かるかもしれない。それまでクダリが待ってくれるかは分からないが。
柄を握りしめていた留の手の中から、ずるりと包丁が抜ける。支えを失った刃が、柄の重さに耐えきれず、少しだけずれた。
留の瞳が見開かれる。了の姿を、縁雅の姿を、はぐれた子どものような色を浮かべた目で見つめる。その口から、小さく言葉が滑り落ちた。
「なんで、」
「なんでそんなことするの」
あたしには、そんなことをしてくれる人はいなかったのに。
どがん、と、衝撃。留の姿が反対に折り曲げられるように、ぐっと反るような体勢になった。無論、自らそんな体勢を取ったわけではなく。
背を思い切り、あの化け物に殴られたのだ。
口から鮮血が飛ぶ。散る。生きていては見ることのない量の液体。
辛うじて立ち姿を保った少女は、今にもくずおれそうなその格好で、胸に溜まった不平を我慢しきれないというように、赤いあぶくの混ざった声で洩らした。
「な……ッで、…んで、…よ…ッ」
「ちゃ、…と、…たじゃ、…」
そうだ、ちゃんとしたじゃないか。ちゃんと、この化け物の、味方のふりをしたじゃないか。
全ては死なないため。生き残るため。こんな世界で産まれ落ちて、誰にも救われずに生きてしまった自分を"自分自身が救う"ため。
なのに、全部。
無意味だった。
「な…んで、よぉ…ッ!」
もう一撃。今度こそ、正真正銘の"留め"の一撃。耐えきれない衝撃に皮膚が裂ける。肉が見える。骨が突き破る。
こぼれた人の欠片ごと、縁雅に凭れ掛かるように倒れ込む。身体は千切れたように上下ふたつに分断され、半ば開かれた口からは、未だ鮮血が流れていた。
「ぁ……」
べっとりと生温かい血を遺して、縁雅の腕の中から留"だったもの"が、地に落ちる。ぬるりとした感触が手に残っていることを、縁雅は感じた。
ああこれは、自分のものではない、
母の抱擁のような。
妻の手のぬくもりのような。
まだ、生きていた名残りのある、温かい、
──血。
脳内に蘇る光景。流れる髪、白い肌。振り返る瞳にこもる情。それが浮かんで、霞のように消えた。
亡き妻を垣間見たのは束の間、自分の足元には少女だったものが転がっている。
「…………ああ」
眼前の惨状とは裏腹に、心はすっと鎮まってゆく。彼女のはぐれた子どものような瞳が、己のそれと重なったからか。己を害する脅威が突然とはいえひとつ去ったからか。……あるいは。
縁雅も了も、同じ場所を見て固まっていた。血溜まりと肉片の転がるその一点を。了の手に少しだけ力がこもる。
──今度は、留ちゃんが味方にやられた?
宙ぶらりんに残った最期の言葉の意味も理解しきらぬうちに、了は、縁雅の反応と目の前に広がった血で、先ほどまで生きていた少女の死を実感した。──彼女も、もしかしたら救えた命だったのかもしれない。
もしも俺が引き剥がしたのが留ちゃんの方だったら、クダリが放った一撃は彼女に当たっていなかったかもしれない。今なお、生きていたかもしれない。
はなから敵と決めつけていたけど、彼女にもなにか事情があったのかもしれない。まだ高校生くらいのように見えた。
護るべき命の選定なんておこがましいことは出来ないが、確かに自分は覚悟を持ってこの道を、警察官になることを目指したはずだった。将来がある子を護るためならば、喜んで身を差し出す、そんな覚悟を……。
「…………」
──いや、今は目の前の命を最優先に考えるべきだ。
了は振り切るように頭を軽く振って、上着として纏っていた半袖のシャツを脱いだ。丸めるように折りたたんで、縁雅の傷へぐっと押し当てる。
「ッぐ、……」
縁雅の声が耳に届くが、了は表情を変えずに手に力を込めたままだ。
完全に流血を止められなくても、勢いさえ殺せればいい。あとは俺がクダリさえ倒せば、病院だってどこだって行けるようになるはずだ。
その根拠は何も無いけど、……先生だけでも、助けなければ。
「自分で傷口を抑えられますか?」
「うん……何とか。でも、卯月さん……」
今からでも逃げられるのではないか、
……なんて、愚問か。
縁雅は問おうとしていた言葉の先を紡ぐのを止め、代わりに深く頷いた。
「すぐに……戻って来ます」
今にも崩れ落ちそうな縁雅を地に寝かせ、了は敵の姿へ目を向けた。
クダリは吹き飛んだ、留の遺体の一部を弄んでいる。何に触れているのか、それがなんなのかわかっていないように、ただ感触だけが欲しいように手の下でぐちゃぐちゃと潰している。あるいは、何もかもを無くそうとしているのか。
行動自体は許せないが……とにかく、今がチャンスであることは間違いない。早く決着をつけなければならない、その思いと共に了は刀を握り直し、また駆け出した。
お願いだ。倒されてくれ。これ以上、誰も死なないように、大人しく……。
間合いに入る。クダリは近づいた了の存在に気づいたか、緩慢な動作で顔をこちらへと向ける。
落ち窪んだ瞳と目が合う。それを怨みと睨みつけ、瞬間、左足でブレーキをかけ、駆けた勢いを利用して、側面から叩きつけるように刀を振るった。
刃が沈む。化け物の腕……腕の集合体と言うべき箇所が、だるま落としのように胴体からずれる。断面から、赤い血が噴き出した。がくん、とバランスを崩し、持ち直すように残りの二本でよたりとたたらを踏む。
それでもその巨体からしたらただ一部分。少し怯むように身体が引かれる。だが敵意の方が勝ったか、残ったもう片方の腕を了に向かい振りかぶった。
眼前に迫る太い腕に了は目を見開く。反射神経ギリギリで、身体を横に逸らす。
「ぃ゛ッッ……!!」
完璧には避けきれず、肉が抉れ、ぱっくりと裂けた隙間から血が吹き出した。奥歯を噛み締め、肩の痛みを逃そうとするが上手くいかず、流れ出る血液と共に足の力が抜ける。意志と関係なく動きが止まる、その恐怖が体を支配し始めた。
──確かに、斬れたのに。断ち切ったのに。まだ、足りなかったのか。見た目の通り化け物だな……。
このままもう一撃来たら、受け止められる気がしない。避けることもできないだろう。
わかっている、自分だったらこの機を逃さない。必ず、追い打ちをかける。あの様を見ただろう、徹底的に潰すはずだ。
だから尚更、まずい。頭の中では動け動けと命じる言葉が反芻しているのに、身体がどうしても言うことをきかない。辛うじて立っている今も、倒れ伏す寸前だ。
数々の犠牲を出してこの場まで来たのに、……ここで……己の至らなさのせいで、終わるのか?
ゆらりと、了は顔がかげったのを感じた。視線をあげると、自分を見下ろす存在が眼前にあった。濁った双眸が、実食するように、見分するように、じっとこちらを見つめている。
腕に腕の絡んだ木の幹のようなそれが、了の上に思い切り振り下ろされた。
「──させる、か!!」
怒号と共に、人影が躍り出る。
力強く地を踏み鳴らし、勢いのままに化け物へ全身全霊の体当たりをかました。
橙の髪が揺れる。クダリともつれ込むように倒れたのは、先刻、見る影もなく潰されたはずの少年だった。
「!! ──結くん……!」
「結、くん……!」
ぐらり、化け物は体勢を崩す。身に受けた衝撃に耐えきれず、巨躯は為す術もなく地に伏せた。起き上がろうと地面に腕をついているものの、それだけでは支えきれないらしい。
結は体当たりの勢いのままに何度か地を転がり、くるりと身体を立て直すように素早く起き上がった。
結は険しい顔で前を睨みつけながら、身体中に残る奇妙な感覚をふと思った。力を入れているのに、どこかへ逃げてしまっているような。だがそれも直に戻ってくる。痺れが徐々に消えていく様にも似ている……。
──この感覚は以前と同じ、『あの紙』のおかげだろう。一度ならず二度まで死ぬとは正直思わなかった。運も実力のうち、ということだ。
口元が薄く歪められる。対象的に、瞳は翳った。
「良かった……」
縁雅はぽつりと、安堵からそう零す。腹部を抑えつつ、ふと思い出した。いつかに、結に自分の身代わりを渡したのだ。心許ない、あの小さな紙人形を。
あれが彼を守ってくれたのかもしれない。きっと本物だったのだ。しろさんにお礼を言わなきゃな、とぼんやりとした考えが浮かんだ。
了は、未だに目の前の光景を受け入れられずにいた。
──信じられない。死んだはずじゃ?
──でも確かに、殺されるのを待つだけの俺を助けてくれたのは結くんで間違いない。間違いない、……。
「っ……」
誤魔化しきれない痛みの中、肩を押さえてなんとか足に力を入れる。
「結くんが、……生きてて、よかった……」
──彼が助けてくれたこの機を逃してはいけない。倒した後、俺の身体がどうなったっていい。そこで命尽きたとしても、それで……!
結が振り向けば、縁雅と了の姿が目に入る。よく見ずとも、酷い傷を負っていることは一目瞭然だ。
自分が動けない間、戦ってくれていたための傷だ。
早くケリをつけないと、死ぬ。それくらいは、馬鹿な自分にでも理解出来た。
感謝と悔しさを込めて、結は声をあげた。
「了さん、先生!遅れて、……すみません!!」
少年らしさを僅かに残した声。澄んだ青い瞳、橙の髪。縁雅の意識は依然、朦朧としていたが、彼の声を姿がはっきりと捉えられた。
「無事で良かったよ……助けてくれてありがとう」
了は少し笑う。──死んだ人が生き返る。何が起きたっておかしくないとはいえ、超常現象に違いない。それを目の当たりにし、恐怖が少し麻痺したような、ましになる感覚がした。
「結くんも戻ってきてくれたし、……みんなで帰れそうで嬉しいな」
呟くように了がそう言った背後で、ガタンガタンと、周囲のものを蹴散らしながら、化け物がゆらぁり立ち上がった。肉に埋まった瞳が、行き場を失ったように少し揺れて、──己の下にいる、ちいさな生き物を見た。
真っ向からその視線を受け止め、逸らさずに、了はゆっくりと立ち上がる。右手に握ったままの刀を軽く振えば、体液が放射状に散らばった。斬れ味が悪くなってしまっては困る。
小さく息を吐き、刀を構え直す。裂かれた方の腕は力が入らず、ほとんど添えているだけだと言っていい。この巨体相手に、どこまでその形でやれるか。.....いや、 " 護る " ためなら、腕なんて構っていてはダメだ。使い物にならなくなってでも、倒さなければ。
「今度は、倒れてくれよ……」
頬を冷や汗が伝う。振り切るように、了は再び、クダリに向かって走り出す。勢いをそのままに、刀を構える。腕が引き攣るような痛みは無視して。
かつてないほどに近づいた了は、化け物の裂けた口から紡がれる何かの言葉を聞いた。それはお経のような、懺悔のような……平坦な言葉の並びだった。
──何を言っているのかは分からないが、元は本当に良い優しい神だったのかもしれない。もし本当にそうならば、眼前のこの化け物の、……クダリのためにも、これ以上ことを起こしてしまわないように──了は、祈りにも似たその思いを、刃に乗せた。
振り上がる刀を、化け物は辛うじて害為すものと認識していた。あれに触れては危ないと──防がなくてはならないと。化け物の腕が、文字通りの唸りを発する。ぐわりと持ち上げられたかと思うと、鎌のような形へと変化した。
そして、己の懐へと潜り込んだ了に向かって、思い切り振り下ろした。
了は避けられなかった。いや、避けなかった。振るう刀と同じ速度で迫る鎌。貫く痛みを想像しつつも、了は動かなかった。今まで助けてくれたひと、散っていってしまったひと。彼ら思えば、もう、足は竦まない。
届け。貫け。穿て。これの命を、奪え。
袈裟斬りに近い形で振り抜いた刀に、確かな感触。
ぼた、真っ赤な雫が落ちた。
化け物の腕は、了の腹を深く抉っていた。
了の手の刀は、化け物の向こう側へと貫いていた。
『■■─■■■───!!!』
化け物は大きく口を開き、咆哮した。裂けた唇の隙間から歯が覗いている。その声は、辺り一帯に質量のように響き渡った。
耳障りな咆哮に、びりっと鼓膜が震える。結は咄嗟に耳を塞ぎ、思わず目をつぶるも薄らと開けた視界で確かに映った。
了の振るった刀が、化け物を斬り伏せた一瞬を。
濁っていた青に、微かな光が射し込んだ。
ああ、だけど。それだけ残った傷も大きかった。
倒せた。そう確信するも、了の脚は喜びよりも先にがくんと折れた。腹に走った一直線の熱。続いて、決壊して、何かが外に溢れ出る感覚。
するりと、刀が手の中から離れて、地面に落ちる。
視界には、巨体の一部と真っ赤な血と、内部にないとおかしいはずのぬらぬらした臓物。そこに、かたかたと揺れながらかすかに光を反射する刀が加わった。
押さえようと腹に手を伸ばすが、その輪郭は二重で、肌には届かない。グロテスクな肉を見て、ぐらぐらと揺れる頭で、思い出した。
『腸壁はくっついているから全部出てくることは無いらしい!』
驚くほど場違いな、けどまぁ、多分この場には相応しい。意気揚々と焼肉を食べながら知識を披露した同僚の、あの得意げな顔。彼が言うにはつまり、何をしてもこの気持ちの悪い肉は外に出ることはない。
──身体の構造に感謝したのは初めてだ。こぼれ落ちなくてよかった……。
妙な安堵と、今は遠い懐かしい顔に少しだけ力が緩む。深く長く、了は息を吐いた。そしてそのまま、崩れるようにうつ伏せに倒れ込んだ。
「ぅ"っ……、卯月さん……」
断末魔が傷に障る。だがそれよりも、彼の身体から溢れる温かい血肉、鮮烈な赤。そこに視線が引き寄せられて。
縁雅は了のもとへ向かおうと手を伸ばし、重い身体を引きずって、少しずつ近づいていく。血の道ができる。赤い軌跡を残しながら、縁雅は這う。やっとのことで了の横に転がり、絶え絶えに言った。
「大、丈夫…ですか」
声のする方へ少し顔を動かす。ぐわりと揺れる了の視界が整うまで数秒、出血で白い顔をした縁雅の輪郭が浮かぶ。
"無理はしないでください。俺よりもご自身の心配をしてください"
そう言いたいのに、発声しようと力を入れると、燃えるような内臓がさらにずきずきと痛む。それで身体が強張り、上手く声が出せない。
「霧夜、さん……無理、は…しな…で…くださ、…い」
──喋っちゃだめだ、傷口が更に開いてしまう。
そう言おうと思って、他人に言えることじゃないなと、縁雅はぎこちなく苦笑する。
静かに、静かに、時が流れていく。それに従って広がる血が、ふたりから体温を奪っていく。
咆哮が響き続けている。止むことなく響き続けている。身体を分断された化け物は、バランスを失って思い切り倒れ込んだ。人間ひとりよりも、何倍もの量の血が溢れ出した。ばたばたと化け物が暴れる。死にゆくことを理解し、藻掻くように。そして、救いを求めるように手を上に伸ばし──力尽きた。
頬を地につけたまま、了はその様を横目に見ていた。誰も彼もが怨み憎んだものの、その最後の姿。
──憐れだ。力尽きる様を見て心を痛めてしまうのはおかしいのだろうか。憎んでいるのに、目の前で苦しむ所を見てしまうと、心のどこかでどうしても、もっと他の道があれば、と考えてしまう。
「っ、了さん……!!」
嘘だ、こんなの嘘だ。ここまで来て、また人が死ぬのか?自分の目の前で、人が死ぬのか?
結は転がるように了と縁雅の元へ近づく。傍らに膝をつき、伏せたまま苦しそうに喘ぐ了の身体を支えるように仰向けに起こした。
了さんも、先生も瀕死だ。どうして自分だけ。
どうして自分だけ、いつも────。
いつの間にか光の戻った透き通る青色の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れ出していた。
「ごめんなさい…、…ごめん、なさい…」
「ぁ、ゅ……い゛く…」
薄ら開いたまぶたの隙間から、橙髪がぼんやりと見えた。その表情は、今の了にははっきりと見えない。だが、頬に当たる水滴で泣いているのだと気がついた。
──クダリ様に一矢報えたというのに、どうして泣いているのだろう。
……そうか、きっと嬉し涙だ。やっと戻れるんだから。
「な、んで...謝る...の。も、と...よろこ、で...いい...ん...だよ」
笑むように、了の口の端が緩んだ。いつか結に向けた、不安がる子どもを安心させるような微笑み。
「…一緒に……戦っ、て…くれ、て…あり……がとう…。霧夜さん…も、ありが……とう…ござ、い…ました……」
「ふ……たり、に…助けて…もら、た…から…倒せ……た」
ふ、と息を吐くような笑顔。呼気と共に、喉の奥からじわじわと鉄臭い匂いが湧き上がる。ついには口内を侵食して、その不快さが鼻先から感じられる。
「お、れは……なんにも………何も力になれなかっ、た……」
──おかしいな。憎かったものがいなくなったのに。恨むべき対象が消え去ったというのに。
全く、嬉しくないんだ。
本当はもっと喜びたいのに、涙ばかりが零れ落ちて。ここに来てからずっと泣きっぱなしで、本当に情けないんだ。
言いようのない虚しさが、ずっと胸の中心に巣食っている。悲願を果たしたはずなのに、どうして。そう言っていても、本当は理解していた。
見ないふりをしていた事実。復讐に染めて、目を逸らしていた事実。
クダリが死んでも、舞湖も陽彦も帰ってこない。
その事実が虚しくて、ただ辛くて、悔しかった。
俺は、俺だけが、なんの被害もなくここにいるんだ。
地に額を擦り付けるように、結は声を絞り出した。
「、っ…了さん、せんせ………ありがとう、ございました……本当に…ほんとに……」
「お礼を言わなくちゃならないのは、……僕のほうだよ……」
縁雅はぼんやりと呟くように言った。ずっと血を流し続けたせいだろう、身体の感覚はなく、もう何も見えなかった。
だが、きっと全てが終わったのだろう。だから私も、せめて言葉を残さなければ。
喉を素通りする空気に咳き込みながら、ようやく言葉を紡ぐ。痛みさえも、もう感じなかった。
「君たち二人だから、出来たんだ。見届けられて……良かった。卯月さん、結くん…………ほんとうに、……あ……り、がと……」
わずかに上下していた胸が、少しずつ、止んでいく。緩慢な動きになっていく。
──頭痛がする。がんがんと、硬いもので殴られているような感覚。それは、この非日常に心が遂に愛想を尽かしたからか──失血によるものか──瞼は重い。早鐘を打っていた心臓は、少しずつ、少しずつ、止んでいく。静かになっていく。身体の輪郭がなくなり、質量すら失っていく感覚がする。……なくなっていく。
酩酊するように視界が回る。ぐる──ぐる、──身体がふわりと浮かんで、
……地面に叩きつけられるような、強い衝撃が、彼らを襲った。
何事かと、また、何かが現れたのかと、そう身体を強張らせながら顔を上げる。辺りを見回す。そして、目を見張った。
──見慣れた景色だったのだ。
怪我は、あの場所で失った身体は、変わってしまったものは──?
全てが、戻っていた。まるで迷い込むその直前まで、時間が巻き戻ったかのように。

「えっ」
今まで、確かに自分は死にかけていたはずだ。出血で意識が朦朧として……四肢だっていくつか失っていたはずだ。
だが、今。こうして立っている。学校からの帰路に。
──全て夢だったのだろうか?
手帳や携帯電話を開く。どれも日付は、確かにあの日のものだった。
「…………」
あの世界はどうなったのだろう?
結くんは、卯月さんは。
彼らも自分と同じように、どこかで戸惑っているのだろうか。
……紺野さんは元気かな。陽彦くんはちゃんと家に帰れただろうか?
比女島さんのバーに寄って帰ろうかと思い、やめておくことにした。
……確かめることが怖かった。
また私は喪ってしまった。温かな血を、母に似た温もりを、味わう前に。
あの世界での日々が、飢え渇いた心のなぐさめになるだろうか?
少女の血の感触がまだ残る左手を見つめる。その手は赤くない。
それでもきっとまた、赤く染める日が来るのだろう。
「……帰ろうか」
……娘が家で待っている。
あの女の面影を残した、かわいいかわいい我が娘。
鴉の声と血のように赤い夕焼けを背に、霧夜縁雅は歩き始めた。

今はもう懐かしい景色が、そこにあった。
随分長い夢を見ていたような、余韻の残る自分の胸の中と頭の中には確かにいたはずだった。
けれど、見渡してもどこにもいない。
俺の隣にいた優しい人も、俺の背を押してくれたあの人も。
やっぱり夢だったのではないだろうか。
──ふと、下を向く。食われた片腕が戻ってきていて、ずれる首ももう取れない。何かに魅入られた自分の存在自体も、不思議と抜け落ちてしまった感覚だ。
けど、確かに『それ』は夢じゃないものだった。
小指に巻かれた、紫の糸。
そっか、──全部本当だったみたいだ。
背後に感じる視線を感じながら、振り向くことはしなかった。振り向いたら、気がついてると思われるから。この場から逃げ出すように歩き出そうとするが、一歩を踏み出せない。その一歩がまるで決別を意味するみたいで。
なにかやることが、あった気がする。
暫く、ぼうっと虚空を見つめた。
あ、 そうだった。
「いかなきゃ」

腹に手を当てる。内臓どころか切り傷すらない。肩も元通りで痛くない。先程までは立ち上がることすら出来なかったはずなのに、平然と道端に立っている自分が信じられない。
「…戻ったんだ。本当に」
「よかった……」
大きく息を吐いて思わず座り込んだ。顔を覆う手がなかったら通行人に涙を見られてしまっていたかもしれない。
あそこに連れて行かれる前からの知り合いで、最近見なかった人達は戻ってきているのだろうか。結くんと霧夜さんは無事戻れただろうか。花屋の話をしていた彼や、文化祭の話をしてくれた彼は?
様々なことが浮かんでは消える中、安堵のせいか涙が止まらない。
夕日が沈みきった頃、落ち着いてきてから自分が何をしに外に出ていたのか、あの場所へ連れていかれる前のことを思い出していた。確か……コンビニに行こうとしていたんだったか。おばあちゃんになにか頼まれたのかもしれない。
スマホを確認するが、特にメモはないようだった。
「日付や時間もあの時のまま。さっきまでのことがなかったみたいだ。……さすがに色々すぎて思い出せないなあ。一旦戻って聞こう」
数年ぶりにも感じるおばあちゃんの家への帰路に懐かしさを感じ、軽く見回しながら歩く。ふと、暗くなったのもあるのかほとんど人の気配がない公園が目に入った。
嫌な思い出が詰まっているせいか、いつもは巡回で寄る度に少し嫌な気分になる場所だ。だが、今はそれを上回る体験を経たからか幾分かマシに感じた。そのまま去ろうとするが、視界の端で、長く伸びた影の暗がりで何やら揉めている様子の男女を見つけてしまった。
どうしたものかとポケットを漁ると休暇をとる時に返し忘れた警察手帳が出てきた。自己紹介の時にも役立ったことと同時に、巻き込まれる直前にコンビニついでに返しに行こうとしていたことも思い出した。
「この手はあんまり良くないけど……使うか」
少しでも警察官に見えるようにその場ですぐ外せそうなピアスやバングルを外して髪をくくり直す。警察手帳を片手に持って彼らに駆け寄った。
「──すいません、一応警察です。何かありましたかー?」

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
…ぱちり。

気づけば俺はいつもの家に居た。

何一つ違和感の無い体。時間の経っていない時計。夢だったのか……?

…いや、そんなはずは無い。彼らと過ごした時間も、不思議なあの場所での出来事も、全て、全て覚えている。

ぐるぐると悩む頭を横に振り、顔を洗う。うん。
いつも通りの俺だ。それだけ分かれば、今はそれでいいか。

「っし、仕事行かなきゃ。」

あの場所のこと、忘れたりなんて出来ないけど、それに囚われてしまうのも癪だし。…俺にはもっと忘れちゃ行けないことがあるじゃん。

ぎゅっと固く靴紐を結ぶ。またいつもと変わらない一日が始まる。

結び終わり、荷物を手に取ろうとした時、狭い玄関に置かれたボロボロのバイク用ヘルメットが目に入る。

「……俺、今日も頑張るよ」
手を眉の傷跡にあててそう呟く。これも、いつもの事。……そう、いつもの事だ。

そして大きなリュックを背負って、イヤホンをして、いつもの音楽を流す。そして、勢いよく扉を開き、大きく1歩、踏み出した。

今日も頑張って走るから。
約束は守るから。
もう、二度と君を傷つけたりしないから。

今日も元気に走り出す。

「行ってきます」



夜を歩いている。

目的も分からず、私は1人歩いている。

歩いている。

歩いている。

歩いている。

____________________ ✧

ふわりと、意識が浮上する。

歩いていた。
いつかの日と同じように。
不思議な世界に迷い込んだ、あの夜と同じように。

ぱちりと、意識が覚醒する。

見慣れた、家へと続く道。ぽつぽつと街灯が立っていて、そのぼんやりとした燈に小さな虫が集まっている。

「…………あれっ、わたし……、?」

さっきまで……、さっきとは言っても、意識がぼうっとしてしまっていたから、本当に“さっき”なのかは分からないけれど。私は、確かに此処じゃない何処かにいた。

きょろきょろとあたりを見回す。その動きに合わせて、左腕にかけられたビニール袋がくしゃりと揺れる。

______そうだ。私、生クリームを買いにコンビニまで出ていたんだった。お母さんが、喫茶店のシフォンケーキに添えるのを切らしちゃったって言うから、それで。

記憶が鮮明に蘇ってくる。
コンビニの帰り道。街灯が数度点滅をして、あたりが闇に染まったと思ったら、地面が沈んで、気付けば知らない和室に居た。それからは、怖いことが、たくさん。

「わるいゆめ、だったなぁ……」

いやに冷静な思考が巡る。長く、仄暗い悪夢だった。そう、思うことにした。

解っている。夢と片付けてしまうには、鮮明すぎる出来事だった。かといって、あの現実を証明できる術もない。私の感覚を信じるなら、全ては、ちょうどこの時点に巻き戻っているらしい。

ほら、右手で辿れば……、失われたはずの左手だって、元の通り。動く。しっかりとビニール袋を下げている。

「これなら、喫茶店のお給仕もできますね」

確かめるように、言葉に出す。胸に、じんわりとした安堵が広がった。

帰り道を見つけてくれた人がいるのなら、感謝をしないと。あとは、あそこで出会った皆さんが、この同じ空の下に戻ってこれていますように。

小さな祈りを空に捧げて、前を向く。

帰るんだ。帰れるんだ。お父さんとお母さんの待つ、あたたかな我が家へと。

______そして、平凡で平穏な日常へと。

「はやく、ただいまって言わなくちゃ」

○全員分の絵

結局、クダリとはなんだったのか?

ある場所では神と揶揄された、継ぎ接ぎの人紛いの化け物の正体は、なんであったのか。

あれは、思念体である。
この地で散っていった者たちが死に際に抱えた無念の結晶である。

善と悪の狭間で揺れた彼の、
清く正しく生きた彼女の、
思い出を紡ぎ続けた彼の、
己を隠し通した彼の、
二律背反を抱えた彼女の、
内外の解離を憎んだ彼女の、
自己愛を献身の支柱とした彼の、
最期まで高潔で在り続けた彼の、
身の内を好奇心に喰われた彼女の、
得られぬ愛を乞うた彼の、
欠如に怒りを抱いた彼の、
不安定な居場所にふらつく彼の、
時間にひとり取り残された彼女の、

その残滓である。
けれど、命尽き、肉体こそ喪われど、存在は彼彼女らが覚えている。記憶している。その脳に、絶えることなく刻まれている。

今ない影に追い縋る彼に、
己の正義を貫き通す彼に、
苦痛に喘げど打ち負けない彼に、
純真無垢故に苦しむ彼女に、
想いを引き継ぎ前を向く彼に、

門出の言祝ぎを、これからの行先に祝福の祈りを。

紙片に始まり、至正、幻影、比類、懸隔、喪失、夢想、固執、長夜を辿り、現世へと帰する。

永世の庭にて紡がれた十の語りと、十九の結末。
これにて閉幕。
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