ゆびくらべ

文字数 4,737文字

屋台は、活気と熱気と歓楽と結びつくものだ。祭の喧騒と人々の笑顔。子どもらの笑い声と、それを見守る大人たちの微笑ましげな表情。
縁雅の記憶の中のものも、それと同様だった。
「わぁ、見てください比女島さん。屋台ですよ!」
尤も、それを見ていた頃の立場は、今と随分違うようだった。子どものように明るい声色で、縁雅は屋台を指さした。
「ふふ……先生ったら、子どもみたい」
多喜里はその様子にくすくすと笑いつつ、先へ先へと進む。
そしていざ目の前にした屋台に、二人は愕然とした。暖簾に書かれた文字、ぼんやりと立ち尽くす不定形な靄。祭の屋台というには余りに異質で、不可解だ。
「えぇ~っと……」
「なんだか、思ってたのと違うわぁ……」
至極当然の反応。困惑もそこそこに縁雅は、ゆびくらべと書かれた屋台へと足を進める。
多喜里も少したじろいだものの、縁雅の背に隠れるように身体を寄せた。人の体温に安堵したのか、その顔には笑みが浮かんでいる。
「ふふ...お祭り屋台なんて子供の時以来だわぁ〜」
そんな多喜里の微笑みとは反対に、縁雅は悩ましげな表情だ。
──早く離れないと失礼じゃないか? いやこんな何が起こるかわからない状況で離れるのも失礼じゃないか?
その原因は背に伝わる柔い感触なのだが、多喜里は気付いているのかいないのか、離れる様子がない。
縁雅は苦心を表すようにぎゅっと眉根を寄せた。
ベニヤ板か何かで造られた屋台の机上には、何かが入っている正方形箱の横に、簡素な天秤のようなものが置かれている。木の板も立ててられているが、何かが書かれていたような形跡はない。
その異様な雰囲気に固唾を呑みつつ、一種好奇心のようなものに突き動かされ、縁雅は箱と天秤の前に、向き合うように立った。そして、店主の位置に立つ輪郭のない白い靄を見つめた。
多喜里はその場から感じるひたひたと感じる恐怖に、依然として、縁雅の後ろに隠れるようにして、その肩越しに光景をじっと見ている。
二人の様子を見て、靄がゆらゆらと形を変えた。辛うじて分かる程度のあやふやな姿で、傍らに置かれていた木の板を指さす。すると、墨が広がるように中央から絵が浮かび上がってきた。どうやら、遊び方の説明のようだ。
縁雅と多喜里は少しばかりの緊張と共にそれを見る。
箱の中から小包を取り出し、それと釣り合うだけの指を天秤の片方に乗せ、無事一致したら成功らしい。刃物と、血の吹き出した数個の指先がコミカルに描かれている。
「……ふむ……」
ごくりと縁雅の喉が鳴る。
──乗せるものは作り物だろうか?それらしいものは見当たらないが。
針金の組み合わせたような安っぽい天秤を見る。もし、失敗したら……本物の指が……?
いやいや、まさか。
咄嗟に浮かんだ嫌な考えを振り払うように、多喜里へ振り返り、明るく笑いかけた。
「なんか物騒ですが、面白そうですね! やってみようかな」
「えぇ……何だか怖いわぁ〜……気をつけてね、霧夜先生……」
少し引き攣ったような縁雅の笑顔を見て、多喜里の胸の内には不安が増すばかり。……危険な遊びでないことを祈るしかないようだ。
縁雅は木の板と眼下の箱を見比べながら、ほんの僅かな覚悟と共に木箱に手を入れた。ざらりとした布の感覚が手に触れる。巾着のようなその包みをひとつ、ゆっくりと取り出す。持った感触は軽い。
そっと天秤の片皿に乗せる。
ゆらゆらと揺れ、天秤は少し角度をつけて止まった。
縁雅はおずおずと左手の人差し指を差し出し、天秤の受け皿を軽く押さえる。反対側に乗せた小包の重さを感じ取りながら、均衡がとれるよう慎重に力を加える。
どのくらいの重さか、しっかりと感覚を覚えなければ。
──良い大人が何を真剣になっているんだろう。
そう冷静になってみるも、何が起こるんだろうという好奇心を抑えられずにいた。それは背後の、母親のように見守ってくれている存在への安心感故か。
瞬間、喉を掴まれたように息が詰まった。
「──っ!?」
明確に、首を掴む手の感触がある。人間の掌の形で、締め上げられている。
しかし、その第三者の姿は視界の中にない。
痙攣するような絶え絶えの呼吸と共に、反射的に、天秤に置いたものと片側の手で自身の首を探り、 何か に触れようと試みる。
が、指先に伝わるのは己の肌のみ。
「先生……どうしたの?大丈夫?」
突然挙動不審になった縁雅に困惑を滲ませつつ、多喜里はそっと縁雅の背を撫でる。ゆっくりと、ゆっくりと、落ち着かせるように。
気を付けて! 何か、います……!
はくはくと、縁雅は口を動かす。だが、潰されている喉からは、掠れた空気と少しの吐息しか発されない。
辛うじて地に接した爪先が、だんだんと冷えてくる。浮いた踵から力が抜ける。視界が歪む。滲む。意識が 朦 朧 と し て
パッ、と 何か は離れ、途端に呼吸が返ってくる。ひゅ、と平生のリズムが戻ると同時に、溜まっていた苦痛を吐き出すように大きく咳き込んだ。
片の手で胸を抑える。もう片方は、天秤に乗せたまま。
──今ので……均衡を、崩してしまってはいないか……?
確認しようと、折れていた身体を起こし、天秤を見る。変わらず、指で押さえた状態で平行になっている。
ほっと安堵の息をつく。その向こうで、靄がこちらを睨んでいるような気がした。
──何だったんだ今のは。
不足していた酸素に、全身がどっと重くなる。ずきずきと傷んで回らぬ思考とは裏腹に、心臓は早鐘を打っていた。
「比女島さん、い、いま私、首を掴まれて」
靄の厳しい視線は消え、様子を見守るように首を捻ってじっとこちらを見ている。
「……ねぇ、先生どうしたの?私以外に、誰も居なかったのだけれど……」
何も気付かぬ多喜里は、訝しむような目で縁雅を見る。錯乱でもしているのか、と眉を顰めながら。
「……気のせいだったのかな。すみません、緊張しちゃったみたいで」
──気のせいであるはずがない。確かに今……
おどけたように笑ってみせる縁雅の様子を見て、何を思ったか、多喜里は縁雅の背後から回り、そっと隣へ立った。
そして、倣うように、縁雅の指にぴたりと寄せ、人差し指を天秤の皿に乗せた。
「……!」
戸惑いつつ、縁雅はすぐ傍に佇む横顔を見る。その臨む先はふたつの指の一点で、辿るように視線を戻せば、指先から伝わる仄かな温度に安心したのか、縁雅の顔から次第に強ばりが消えて行く。
とくん、とくんと心臓が静かに鳴る。この異常の中での、安寧。
すると、乗せていたふたりの指先が、まるで崩れた菓子のようにぽろりと手から離れた。
「ひッ……!」
「えっ……」
突然乗せられたそのふたつの 物質 に、天秤は左右に ゆら ゆ ら と揺れる。
目の前の信じられぬ光景に、多喜里は後退りしてバランスを崩し、その場にどさりと尻餅をつく。虚空と化した、指があった場所をゆっくり、恐る恐るに握りしめる。
血は出ていない。指先がまるで、木工細工のように簡単に崩れ落ちた。痛みがあるのか無いのかはもはや分からない。其処に在るのは、唯ひとつ、恐怖のみ。
──これも先刻のような幻覚だろうか?
縁雅は離れた指と手の境目を、ただ呆然と、食い入るように見つめる。
断面はある。しかし、それは生々しいものではなく、幼児が絵の具で描いたように、ぐちゃぐちゃだ。
天秤の揺れが止まる。傾きは少しだけ縮んでいる。
未だ足りぬようだ。
多喜里の怯えた表情と、己の先のひとつ欠けた手と、皿の上の指と、未だ傾く天秤。それらを交互に見つめ、ようやく縁雅は現状を理解する。
何ということをしてしまったのだろう。
そのような取り返しのつかない後悔と同時に、上等だという闘争心が仄かに燃える。
ばっと振り返り、縁雅は座り込んだままの多喜里に駆け寄る。
「比女島さん!」
「……っ、すみません、大変なことに巻き込んでしまって……! 手の方、痛みはないですか……?」
起こすでもなく、ただ傍に膝をつき、宥め、眉を下げて謝罪を述べる。
喉が張り付いたように何も言えずいる多喜里の様子に、縁雅は俯き、ぐっ、と拳を腿の上で握りしめる。
「……こうなってしまった以上、私は続けます。少しでも脱出の手掛かりになるかもしれないですし。
……ただ、これ以上比女島さんに何かあっては大変です。どうか貴方は、後ろで見守っていてはくれませんか……?」
返答は待たずに立ち上がり、天秤の方へ向き直る。
多喜里が座り込んでいるうちに、天秤の上に乗った、見慣れたものではない細い指をそっと一つ手に取り、軽く口付けて──開いた己の唇の間に放り込んだ。
縁雅が一体何をしているのか、その背で隠れ、多喜里には分からない。
少しだけ乾いた舌触り。感覚を集中させれば指紋のざらざらとした凹凸が判る。塩っけのある味わい、軽く舌に力を入れ上顎に押し付ければ少し硬く、弾性が感じられる。断面を舐め上げれば、想像していた鉄臭さはなく、まるで金属に触れたようなひんやりとした温度が伝わった。
そうして十二分に味わうと、縁雅は何事もなかったかのように口からそっと、右の親指と中指で取り出し、自分の指と並ぶように皿の上に戻した。
それから何処か覚悟を決めたような、妙に晴がましいような顔つきで、机上の凶器を見やった。
大振りの刃物の柄をそっと握り、持ち上げる。ずしりとした重みが伝わる。ぐ、と力を入れて刃先までを宙に浮かせる。
ゆっくりとひとつ、呼吸をする。細く長い息が全て吐き出されてから、台の上に左のてのひらを上向きにして置く。小指を少し開き、関節に、右手に持った刃をひたりと押し当てる。
──大丈夫。少々やりづらいが、野菜や肉を切る時と同じだ。
斜め奥に押し込むように刃を滑らせ、ゆっくりと体重をかけ──
「……先生、それは駄目よ。貴方、教師なんだから……生徒さんが心配してしまうわ。物も書き辛くなってしまうでしょうし……」
揃った左手で、多喜里はそっと縁雅の腕に手を乗せる。未だ青い顔で眉を下げ、訴えかけるように縁雅の目を覗き込む。
柔らかな静止に、縁雅は目を細めて応える。
「心配してくれてありがとう、比女島さん。でももう、どのみち一本失ってしまいましたし」
「霧夜先生……」
「それに、脱出の手掛かりを掴むためには、これくらいしないと……ねッ!」
ぷつり、と破れる皮膚の感覚。赤いものが小さく覗く。つかえる硬さに負けじと、縁雅は肩を入れて、体重全てを一点にかける。
ごろり、と、屋台の板の上に指が転がる。
切った衝撃で広がった血は、赤く霧散するように、直ぐに宙に掻き消えた。傷口も生々しさが残るものの、もう血は出ていない。
ふ、と止めていた息を一つ吐く。眼前の光景を疑えるほどの理性は、もはや残っていなかった。
熱っぽい呼吸と心臓と共に、縁雅は気の高まり抑えられぬように落とした指を摘み上げ、皿に乗せ、固唾を飲む。
ゆらぁりひとつ、大きく揺れて、天秤が釣り合った。
「……やった……!」
釣り合った天秤を見て、思わず感嘆の声を上げる。
「やりました、釣り合いましたよ、多喜里さん!」
満面の笑みで振り返るその顔は、まるでかけっこで一等賞をとり、浮かれた表情で褒め言葉を期待する子どものようだった。
しかし、そんな様子とは対照的に、多喜里は浮かない表情で、指を数本失って尚笑う縁雅を見つめていた。
が らん!がら ん!が ら ん !
と、祝うようにやけに大きく鐘が鳴る。
驚いたようにふたりは同時に振り返り、困惑したように成り行きを見守る。
ぴたりとその音が止むと同時に、目の前のもやも、天秤も、切り離された指先も、一切合切が姿を消した。
何かがただひとつ、机の上に残されていた。
「……?」
屋台のおまけで貰えるような、プラスチック製の安っぽい、小さいおもちゃのような虫眼鏡が置かれていた。
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