第21話 画家になりたい

文字数 2,035文字

 「駄目駄目、絶対無理。そんなお金、家には無いの。この四年分の学費だってようやく貯めたお金なのよ」
 大学3年、卒業後の希望調査のプリントが配布された。K子はムサ美大の大学院に行きたい、と言い出した。
 相変わらずレポートは締切に終われ、駆け込み提出だった。絵は石膏デッサンと模写、裸婦にも取り組んでいたが、公募展には何一つ出品していない。高校と違い、出品は本人次第のようだ。先輩には最高賞をとる子もいるというのに、K子は作品を仕上げてすらいなかった。
「有り得ない話だけど、大学院までいってどうするつもり?やってみたい仕事とかはないの?キャラクターデザインとか、アニメーションとか。そろそろ真面目に就職のことを考えてもいいんじゃない?」
 すると、驚くべき言葉が帰ってきた。

「画家になりたい」

 それまでK子には色々と驚かされてきたが、この時ほど驚いたことはない。頭に血が昇った。私は思わず、ほとんど条件反射のように叫んだ。
「そんな職業、無いから!」
そして、平凡な親なら誰しもが持つ在り来たりの思考よろしく、次の様にまくし立てた。
 たとえ絵を描いて売れたとしても、それで生活を維持できる人はほんの一握りだ、殆どの人は学校の先生だったり、絵の先生だったり、一定の収入を得る職業を別に持ってる、バイトをしながら頑張っている人もいるだろうが、絵の上手い人は世の中ゴマンといる、これといった実績も無いのに画家になるだなんて、そんな大それたこと、、、云々
 とにかく、何でもいいから自分の出来ることを考えて、確実に稼げる仕事を見つけ…と、締めのフレーズに入った時、K子は私をキッと見返し、大きな声で言い放った。
「画家になるの!」
そして、同時にワッと泣き出したのだった。

 私は大学の相談会に参加した。希望者は学部の教授と直接話す事ができる。私立T大学は私の母校でもある。音楽科の教授はとても怖かった。懐かしい学び舎に足を踏み入れると、学内はさらに広く綺麗になっていた。あちこち改築したのだろう。それでも、言いようのない懐かしさが胸にせまる。K子と同じ歳の私が、いつか確かに、この場所にいた。

「なに、お母さんはこの大学の音楽科卒業なの?先生は誰?」
「R先生です」
「ほんと?僕がね、この大学に赴任した時、R先生にお世話になりましたよ。あの先生は厳しいけど、面倒見の良い先生だった、なんだ、そうだったんですか、わはは」
 相談会は木材をふんだんに使った陽当りの良い小ホールで行われた。グレーのスーツを着た白髪混じりの教授は大学の思い出話を始め、予定時間がオーバーしても一向に気にする様子はなかった。
「それで、K子さんね、あの子は真面目でいい生徒です。油彩科で1番です」
「えっ?」
正直、驚いた。もともとK子の学年の油彩専攻生は少ないが、それにしたって1番とは嬉しい。
 実は、ムサ美の大学院に行きたいと言い出して困っている、と打ち明けた。
「僕も、K子さんの指導をしてるA先生もムサ美の大学院卒なんですよ」
 なるほど。大学院は憧れ、だろう。
「もうね、凄いお金かかるよ」
「はい。そんなお金は無いから諦めるように言いました」
 画家になりたい云々は流石に言えなかったが、K子は地道に努力し先生に認められていた。
「なんかあったら、何時でも相談に来てくださいね、あ、ちょっと待って」
 帰り際、K子に付きっ切りで指導しているというA先生を紹介された。
「良かったら部屋見ていきますか?」
アトリエを案内してくれると言う。
 
 A先生は物静かで、洒落たツイードのジャケットを着ていた。アーティストのオーラにちょっぴり緊張する。
 学内の見覚えのない床や壁にコツコツと足音を響かせ、長い廊下を抜けエレベーターに乗り、やっと通されたのは体育館のような空間だ。畳のように大きなキャンバスが所々立て掛けてあった。
「この辺に、あったと思うんだけど」
先生はキャンバスが何枚か突っ込まれている棚から、唐突に一枚の絵を取り出した。K子の描きかけの絵だった。
 白Tにジャージ、まるっきり普段通りの姿の弟が、そこにぼんやり立っていた。足元には餌をねだる猫が纏わりついている。
 その絵は、私が今まで見てきたK子の絵とは何か違っていた。一人の絵描きの持つ、独特な「色」が滲みはじめていたのだ。

「身近な人が1番うまく描けるはずですから」
 いつかギャラリーで出逢った公立高校美術部の先生に言われた言葉を、K子は覚えていたのだろうか。あんなに仲が良かった弟とは、最近ろくに口もきかない。弟は反抗期の真っ最中だ。絵のモデルを嫌嫌引き受けたものの、一度きりで止めてしまった。会いに行ける友達のいないK子にとって、同世代の身近な人は弟しかいない。写真を見ながら描いてはいたが、あるこだわりから仕上げることが出来ないでいた。

 写真じゃなくて、そこにいる弟と、その空気を描きたい

 未完の絵は、口でうまく説明出来ないK子の、誰に向けるでもない精一杯のメッセージだった。
 
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