第2話 トンネルの入口

文字数 1,918文字

「ハイ、笑ってー」
 一張羅のスーツを着込んだ夫が、カメラを持って声をかける。
 同じく一張羅のスーツにパールのネックレスという出で立ちの私は、校門の前で娘のK子と並んで写真に納まった。K子はまだ式の緊張が取れないのか、真新しい制服のせいなのか、踏み出す足もどこかぎこちない。
 夫が学校の式に同席するのは珍しい。やはり、嬉しかったのだろう。まだ肌寒い青空の下、校庭には、そこかしこで記念撮影をする家族連れの笑顔が溢れていた。

 私立T高校は中学、高校、大学を併せ持ち、高校から美術と音楽を本格的に学べる芸術に特化した学園だ。K子はその美術科クラスに晴れて合格し、待ちに待った入学式を迎えた。
 K子の顔は強張っていた。嬉しい気持ちはあっても、自然な笑顔を作ることが出来ない。デジタルカメラの画像を確認すると、口元は辛うじて笑っているが目に表情は無く、顔の筋肉が退化したかのようだ。
「これは、リハビリが必要だわ」
そんなことも、クスリと笑える。この青空に負けないくらい、私の気持ちは晴れやかだった。

 思えば、中学の3年間は長くて暗いトンネルのようだった。ふらふらとトンネルに迷い込んでしまったのは、小学校六年生の終わり頃だろうか。
 K子は親友に、一方的に嫌われてしまったのだ。

 親友のNちゃんは、一年生からの仲良しで、よく家に遊びに来ていた。一緒に絵を描いたり、庭でラズベリーの実を採って食べては「変な虫がいたー」と、キャーキャー言って遊んでいた。それでも、ふと気がつくとK子は独りの世界に入リ込み、友達の存在を忘れて何かに夢中になる時があった。そんな娘を気にかけ、私はよくオヤツ作りを兼ねた遊びを提案した。
 いろんな形のクッキー。タコ焼き器でなんでも焼き。チョコ焼き、グミ焼き、形の崩れた失敗作も楽しい。男の子もちょくちょく遊びに来たし、弟も仲間入りして家の中は賑やかだった。
 高学年になり、NちゃんはポータブルCDプレーヤーを家に持ち込み、一人で聞いていることがあった。K子は男の子とDSのゲームに夢中だ。始まると中々止めない。私は時々、退屈そうなNちゃんに話しかけた。
「何聴いてるの?」
「ドリカム」
「吉田美和さん、歌上手いよね」
「うん。コレいい曲だよ」
音楽に興味を持つ年頃だ。普通なら、友達同士でそんな会話になるところだが、K子はJポップに全く関心がない。相変わらずのポケモンフリーク、どちらかというと男の子との方が話が合うようだ。オリジナルキャラクターのショートコミックを描くことも日課になっていた。
 この年頃の女の子は、急激に大人になる。未だに子供のまま、ちっとも変わらないK子と、変わりつつあるNちゃんとの関係に、私は一抹の不安を抱いた。
 それは、思ったより早く、思ったより残酷な形で現実になった。

 Nちゃんは、クラスの別の女子グループのメンバーになり、グループリーダーはNちゃんにK子との会話を禁じた。グループには掟があり、掟は絶対だ。女子の間で、当時そんなことが慣習化していた。
 空気の読めないK子にしてみれば、晴天の霹靂だろう。理由も分からず、6年来の親友に突然シカトされるようになった。納得出来なかったK子は、こともあろうかNちゃんをストーカーしてしまったのだ。先生から話を聞き、私はショックを受けた。何故、そんな真似を…。
「だって、Hちゃんがそうしろって」
その子と一緒になって、廊下や水飲み場、トイレまで後ををつけた。そんなことをしても、ますます嫌われるだけだ。K子には、それが分からなかった。
 結局、担任の先生が間に入り、問題は解決した。K子ちゃんはNちゃんをしつこく付け回さない。人の嫌がることはしない、という当然の判決だ。
 でも、掟は?グループに入ったら古い友達と口をきいてはいけないなんて、そんな馬鹿な話を学校は黙認するのか?何のための教育?
 私は憤りを感じたが、一連の騒動を通し、Nちゃんが自分の意志でK子を見限ったのは、変えようの無い事実だった。

 K子は、傷ついた心のまま中学校入学を迎えた。

 新しい通学路、新しい校舎、新しい玄関に靴箱、暗い色の制服。一緒に通える友達もいない。重い鞄を抱え、一人で歩く学校までの道のりは遠いだろう。
 見慣れないクラスメイトの顔、顔、顔。
 話し声。
 K子の頭の中は混乱し、萎縮していたに違いない。
 それだけではない。当然のことながら、授業内容も格段に難しくなった。まず英語、古文といった異世界の言語に躓き、数学の文字式にもなかなか馴染めない。
 
 この頃、通っていた学習塾に呼び出され、「お嬢さんはアスペルガー症候群だと思うので、然るべき病院で検査を受けてみてはどうか」と告げられた。
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