第7話 家庭教師

文字数 1,977文字

 それまで通っていた学習塾を辞め、家庭教師に来てもらうことにした。塾には、体よく追い払われたような気がした。発達障害の可能性を示唆されたのは大きな出来事だが、私にはそのことを感謝するゆとりが無かった。

 最初の面談に来たのは、紺色のスーツを着た大柄な男性だった。この先生には、不思議と初対面で人を引きつけるものがあった。
 温かさと明るさ。そして沢山の生徒と接し、励まし、目標へと導いてきた自信と信念が、オーラとなって発散されている。
 その差し向かいに座るK子が発散するものと言えば、悲しいかな、自信のなさ、戸惑い、そんなものばかりだ。
 進路希望を確認し合い、成績表も見せた。「なるほど、うん。美術の高評価は今後もキープしよう!」いつも初対面の人にはカチンコチンのK子が、先生の明るさにつられて笑っていた。私は嬉しくなった。
 契約書を作成する段になり、2階の部屋に引っ込んだK子に聞こえないよう、小声で事情を説明した。アスペルガーのこと、知能指数のこと、特別支援学級のこと、すべて話した。

「お母さん、絶対、大丈夫です」
 話を聞き終わり、先生は断言した。これには吃驚した。
「でも、学校では…」信じられなくて、話を続けようとすると、先生は、首を横に振って遮った。「大丈夫です」
 誰もそんなふうに言ってはくれなかった。不安で押し潰されそうな気持ちでも、K子の前では普通を装ってきた。けれど、私はきっと誰かに、こんなふうに励まして欲しかったのだ。
 緊張の糸が切れ、嬉しさのあまり目に涙が浮かんだ。そんな私に、先生は再度、はっきりと宣言した。
「K子ちゃんは普通学級で卒業出来ます。何にも心配はいりません。頑張りましょう。」

 家庭教師には、一般教師とプロ教師がある。一般教師はアルバイトの学生だ。当然プロ教師の方が料金は高い。
 K子に勉強を教えるのは一筋縄ではいかないことを熟知している私は、バイトの学生教師では不安だったが、とりあえず「一般教師」「女性」「数学」で申し込む。学習塾も高額だが、家庭教師となると1教科だけでもその上を行く。他の教科にあてる予算はない。どうかどうか、良い先生が来てくれますように。

 決まった先生は
「H大医学部4年 女性 プロフィール/ボランティア活動をしています」
なんだか凄い人が来ることになった。今更ながらちょっとビビっていた。
 私はなんとなく、眼鏡をかけ、髪の毛を無雑作に結び、地味な色のセーターを着込んだ女の子を想像していた。ところが、やって来たのはツヤツヤの長い髪をなびかせ、ショートパンツを颯爽と履きこなす綺麗な女子学生だった。賢そうな目、笑うとエクボが出来、花のように可愛らしい。赤いカーディガンもよく似合っていた。私のH大生に対するイメージは激変した。
 「ほら、ご挨拶して」K子は案の定、カチンコチンだ。慌てて頭を下げたが、なんだか動きがギクシャクしている。これは、勉強どころではないだろう。

 授業が終わり、手作りのスイーツとお茶を出した。得意のキャロットケーキだ。ヘルシーなので女子には評判が良い。ティーカップはイギリス製のウッドアンドサンズをチョイス。先生は、厚く切ったケーキを美味しそうに頬張った。「甘いもの、好きなんです」デイジー模様のカップからお茶をひとくち飲み、ちょっと照れたふうに言った。それでいて落ち着いた態度は、普通の学生とどこか違う。「絵になるなぁ…」
 隣のK子はと言うと、よほど頑張ったのだろう、顔が火照っていた。「過集中」と言う症状で、アスペルガーの子は疲れやすい。無言でケーキをパクついていた。
 聞いても分からないかも、と思ったが、私は先生の医学部での専攻を尋ねた。
「作業療法です」やっぱり分からなかった。どうやらリハビリテーションの一種らしい。説明を聞くと、なんと発達障害の子供の訓練を専門に勉強しているとのこと。
「もう、就職も決まっています」
驚いたことに先生は、先日私達が訪れた心療内科に勤務することが決まっていたのだ。
「あの、先日そこ、行きました」
「えーっ、ホントですか?」先生も驚いていた。別に専攻が理由でマッチングされた訳では無いらしい。これは、凄い偶然ではないか。
 なんだか、運命が良い方向に動き出しているような気がした。きっとこの窮地を乗り越えられる、運命の神様はK子に味方してくれている、そんなふうに思えた。
「すごいね、ねっ、K子」
 私は、はしゃいでいた。K子はまだポカンとしている。ケーキだけでは足りなそうなので、普段は滅多に出さないカップ麺を「食べる?」と差し出すと、それも平らげた。食欲は生命力でもある。きっと、頑張れる。

 K子のあの病院に対する不穏なイメージは、これで随分と払拭されたに違いない。
 先生との出会いは、たちこめた暗雲から地上に差し込む、一条の光のようだった。


 

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