第23話 モノローグ 夢の現実

文字数 1,210文字

 翌年、彼女の娘は研究生として大学に残ることを許された。
 その費用を捻出するため、彼女は仕事を始めることにした。
 夫は残留を了承しなかったのだ。
「お金は私がなんとかするから、認めてやって下さい」
 そう言って説得したが、長く専業主婦として家にこもっていた彼女に出来そうな仕事など、そう無い。レジの扱いには自信がないし、蕎麦屋みたいな所で、忙しい上に空腹を抱えたお客相手に丼を運ぶのも気がすすまない。学校のPTA活動を通して、彼女は自分の動作が緩慢であることを自覚した。何をやるにもおっとりし過ぎている。
 世の働く女性達は、それがどんな職種であれファイターだ。俊敏さは毎日の戦いで身についたものだろう。彼女の年齢から参戦するには実力不足が目に見えていた。
 結局、昔取った杵柄、出張教師としてピアノを教えることにした。パソコンに強い下の息子がサイトとチラシを作ってくれたおかげで、少しは生徒が集まった。娘本人はパソコン作業が嫌いで、あてに出来ない。
 もともと子供好きの彼女、レッスンは楽しかった。収入はそのまま利益にという訳にはいかないが、研究生の学費くらいにはなった。
 しかし、思わぬ事態が発生した。形として一旦大学を卒業した娘に、国民年金の支払い義務が発生したのだ。区からは研究生は学生と見なされなかった。その年は滞納届を提出した。
 
「社会に出て働くって、大変なことよね。みんな偉いわ」
 自分の無力さを思い知った彼女は、家族の生活費を稼ぎ続ける夫と、若かりし日大学に通わせてくれた両親にあらためて感謝した。結局ピアノ以外、自分の出来ることは何一つ無いように思えた。
「私も、娘のことはとやかく言えない…」

 彼女の打算は、娘が大学の四年間で少しは大人になり、何とか生きる道を模索してくれるだろうと考えたことだった。
 確かに学歴はついた。娘は望み通り普通の子として社会で生きる権利を手に入れたのだ。しかし、皮肉なことに、学校生活は着実に彼女の娘が社会的アウトローであることを示していった。

 研究生として大学に残ったのは娘一人だ。友達付き合いというしがらみから開放された今、心おきなく絵に没頭している。美術展にも足繁く通った。教育大を卒業した親友とは、時々連絡を取り合っているようだった。
 相変わらず後片付けは苦手で、何でも直ぐ忘れた。「片付け」という行動が、脳にインストールされていない。コミュニケーションも然り、学習して何通りかのマニュアルをアドリブに変えられないのだ。
 ASDの特徴は消えない。彼女とて時にはイライラすることもあった。だが、娘には美点が有る。根に持つ、と言うことが無い。根気強く注意し、励まし、フォローした。親子関係は良好だが、反面、娘の自立はまだまだ先のように思われた。

 就労に苦労するというASD。
 グレーな存在であるアスペルガー症候群の人たちが抱える生きづらさを、理解し、寄り添える人は少ない。

 
 
 
 
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