第14 夢の世界から

文字数 1,999文字

 K子は幼い頃から絵を描くことで友達を作ってきた。絵がいちばんのコミュニケーションツールだった。ノートの上に生き生きと拡がる、不思議なキャラクターの織りなす夢の世界。
「わぁー、凄い」「見せて見せて」「ポケモン好きなの?」
「うん」
 余計な言葉は必要無かった。友達は珍しげに近づいて来て、去っていった。
 中学生ともなると、必要なのは夢の世界より気の利いた会話なのだ。

 私は子供の頃、K子のように絵を描いて空想の世界に遊ぶのが何より好きだった。母と姉は食卓テーブルでいつも長いことお喋りしていたが、私は食事がすむと部屋に引っ込んで何やら描いていた。彼女達の「雑談」にはまるで興味が無かった。
 「お買い物」も苦痛だった。母は年に数回、デパートで子供たちの新しい洋服や靴を新調する。品物を物色する間、母と姉は二人でずっと喋っていた。私は独りで売り場の隅のベンチに座り、絵を描いて待っていた。
 変わった子、と言われた。

 雑談なんて、沈黙を嫌う人が振りまくどうでも良い話、そんな風に思う時もある。誰かの噂とか話題のテレビ番組とか、あまり興味が無いことが多い。
 私は小説や歴史、音楽が好きで、話を聞いたり話したりすると脳内に夢の世界が広がり、わくわくする。
 でも大人になると、時には「世間話」に付き合わなくてはならない。黙っていると気にする人もいるものだ。
「何か、怒ってる?」
慌てて笑顔を作りかぶりをふる。
「ううん、ちょっとぼんやりしてただけ」話に参加出来なくても、相槌くらいはうつ。そのくらいの配慮は身についた。社会で孤立するのは辛い。

 夢の世界の住人であるK子は、雑談が出来ない。人間界では、話を振られたら返すのが礼儀だ。トレーニングのつもりで適当な話題を振っても、返事は無かった。
 興味のないことには反応出来ないし、それが初対面の相手となると尚更だ。
「感じの悪い子」
と取られても仕方がない。なのに、自分だけが無視されるのは辛い。
 周りの子たちが仲良く話していると、急に孤独のバリヤで覆われている自分に気づく。その時はもう遅い。自らが張り巡らすバリヤから出られないのだ。
 美術科の生徒たちは、こんなK子を受け入れてくれるだろうか。絵を通してシンパシーを感じ合える相手もいるのではないか。私はそう期待していた。
 クラスメートは全員が腕に覚えのある、お絵描き自慢の少年少女達だ。K子は「もっと画力をつけたい」と、自主トレを開始し、ノートに延々と縦線と横線、曲線を描いた。隙間なく線を描き込んで真っ黒になったノートを見て私は「大丈夫かなあ?」と心配になった。本人は至って真剣だ。

 アスペルガー症候群にはコミュニケーションの他にも、問題があった。
 環境の変化に弱い。中学校入学の時は、直前の友達とのトラブルもあり、鬱状態に陥ってしまった。
 今回の高校入学では、私は嬉しさのあまり有頂天になっていた。あの、サバンナのような環境から、ようやく抜け出すことが出来たのだ。画材の準備、制服やジャージの注文、春休みは忙しく過ぎた。  
 その間もK子はアートスクールに通い続けていた。デッサン以外にも油彩や水彩、レタリングなど色々な課題が出て、ブランクは無かった。
 だから、気が付かなかった。

「何を描けばいいのか、分からない」
K子は、描けなくなっていた。
 突然のスランプ。受験後の燃え尽き症候群か、五月病か。いや、学校には行けている。遅刻したくない、と朝一番に登校しているくらいだ。では何故?
 鉛筆一本で、次から次へと新しい命を絵に吹き込んでいたK子が、何も浮かばない、描きたいものが無い、とぼんやりしている。信じられないことだった。
 ある時、K子が熱心にスマホを見ていた。見ているだけ、というのは珍しい。この頃のK子は、憑かれたようにスマホのゲームばかりしていたからだ。
「何見てるの?」
「授業で油彩を描くんだけど…」
エスキンス(下絵)の締切だというのに、題材が決まらず、窮して画像を検索していたのだ。「はぁ〜?」
 K子が選んだのは海に沈む夕日だった。何だか花札の構図に近い。あれは、月だった。K子の好きな札だ。それにしても海なんか好きだっけ?
 油彩は、取り敢えず描いてみました感満載の、K子らしさの微塵も感じられない作品に仕上がった。暗い海に真っ赤な夕陽が映り、尖った波には油絵の具が盛り上がって固まっていた。
 「こんなに絵の具が…」
 私立高校の学費の高さに身の縮む思いだった私は、不本意ながらそんな感想を抱いた。しかし学費は、市からの援助などもあり、随分負担が軽くなった。問題は、K子の絵だ。せっかく入った美術科だと言うのに、提出期日に間に合わせるためだけのテキトーな題材で絵の具を消費するのは、なんとも悲しい。それに、スマホにかじりつき、ゲームばかりしているK子にも腹がたった。
 案の定、最初のテストの点数は酷いものだった。

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