第1話 プロローグ 夢と現実

文字数 1,884文字

 「大人になったら何になりたいですか」
 5、6歳の子供にそう尋ねる。
 大抵の子は「サッカーせんしゅ!」「ケーキやさん!」等と目をキラキラさせて答えるだろう。今どきは「ユーチューバー」「こーむいん」といった答えも多い。
 公務員は安定の職種だ。目指すとなれば誰も文句は言えまい。ただ、無邪気な夢を見るのはこの年頃の子どもの特権ではないか。
 「たんけんか」良し。「うちゅうひこうし」然り。「ピアニスト」「がか」なんてのも微笑ましい。

 しかし、二十歳の娘に同じような質問をぶつけた時、正面切って
「画家」
と答えられたら、世の母親はどう反応するだろうか。
 彼女の場合、思わず口をついて出た言葉は
「そんな職業、無いから!」
だった。
 そして、平凡な親なら誰しもが持つ在り来たりの思考よろしく、次の様にまくし立てた。
①たとえ絵を描いて売れたとしても、それで生活を維持できる人はほんの一握りだ
②殆どの人は学校の先生だったり、絵の先生だったり、一定の収入を得る職業を別に持ってる
③バイトをしながら頑張っている人もいるだろうが、絵の上手い人は世の中ゴマンといる、これといった実績も無いのに画家になるだなんて、そんな大それたこと、、、云々

 それもそうだ。
 高校、大学と美術科に在籍し、油彩を描いてきた娘は、高校時代にこそ学生公募展に幾度となく入賞を果たし、意気揚々としていた。
 だが大学に入ってからは低迷した。
 自らのキャパを顧みず目いっぱい選択した一般科目のレポートは、容赦なく次々と提出期限が訪れ、その度に四苦八苦した。
 肝心の油彩は、もともとの遅筆と要領の悪さも相まって、授業の課題をこなすのに精いっぱい。入賞どころか出品さえろくに出来ていない。
「とにかく、自分に出来ることを考えて、確実に稼げる仕事を見つけ…」と、締めのフレーズに入った時、娘は彼女の方をキッと見返し
「画家になるの!」大きな声で言い放った。と同時にわっと泣き出したのだった。

 子供の頃から、親に言い返すことは殆ど無い子だった。弟と喧嘩すらしない。まして、大きな声など、聞いたことが無かった。部屋に侵入した虫に驚いた拍子に「うわっ!」という叫び声を発する程度だ。
 そんな、おだやかな子。
 
 娘をなだめようと、彼女は狼狽えながらも言葉を続けた。
「あのね、こういう事には、人脈とか、運とかも必要だし…」
「人脈も運も持ってる!」
声のトーンは全く衰えない。
 人脈?娘は友達が少く、人付き合いは限りなく無に近い。運?順風満帆とは決していえないこれまでの20年間。数々の辛い出来事を、娘は忘れたのだろうか。それとも、それを乗り越えた自分の運を信じての言葉なのだろうか。
 彼女は泣き続ける娘を前に、成すすべもなく呆然と立ちすくんでいた。

 彼女の友人が、息子がサッカー選手になると言ってきかない、とよく嘆いていた。
「全然勉強しないんだよ、サッカー選手になるから必要ないって」
 まだ子供のいなかった彼女は「男の子だね、可愛いものじゃない」と、のん気に返していた。息子さんが小学生のうちは。
 友人は一人息子に英才教育を施し、お受験を経て付属の小・中学校と進ませた。サッカーに入れ込む息子にいちおうの理解を示し協力はするものの、ピアノも習わせエリートコースへの軌道を確保していたのだ。
 だが受験期、息子さんが東北のスポーツ名門校に勝手に願書を出したあたりから事態は深刻化した。すったもんだの末、意志を貫いた息子さんは家を出てスポーツ高の寮に入ってしまった。それを聞いて、流石に彼女も驚いた。

 親が何を言っても、どうにもならないことがある。
 今になって彼女は、その時の友人の気持ちが分かるような気がした。娘が画家になりたいと言った今になって、やっと…。
 だが息子さんは才能のある仲間達と切磋琢磨するうち、自分の限界を思い知った。
そこからは猛烈に勉強して、東京の名門私立大学に合格してしまったのだ。今はチャッカリ母親と同じ放送業界で働いている。
 友人もさぞかしホッとしたことだろう。

 スポーツは就職に強い。体育会系で頑張った子供は、礼儀正しい上に敏捷で気が利く。打たれ強い。政治家だって以外にも空手とか野球とか、体育会系出身が多いのには驚かされる。
 けれど、絵はどうだろう。就職に強いと言えるだろうか。
 
 勉強が出来て絵や音楽も得意な子は沢山いる。本当に優秀な子は、サッカーだってバイオリンだって何だって出来るのだ。

 でも娘から絵を取ったら

 何が残るのだろう。

 だって、絵しか無かった。
 いつだって絵を描くことを支えにして、娘は生きてきたのだから。


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