第18話 涙の告白

文字数 1,993文字

 ADHDの姑の様子がおかしかった。
 今までは姑の問題行動に随分と悩まされてきた。止まらない余計過ぎる買い出し。目についた郵便物、請求書、子供の本や文房具を自分の部屋に持ち込む。キッチンやリビングの生活用品を並べ替える、等。
 外出のあと家に帰ると、部屋を掻き回された痕跡に嫌な気分になり、姑の持ち出した物を探さなければならなかった。尋ねても「知らない」としか言わないが、大抵は姑の部屋にあった。

 そんなことが、減ってきたのだ。

 姑はある日住所を忘れ、家に帰れなくなった。親切なタクシードライバーに送って貰い、それから自力での外出は無くなった。トイレにも行かず、紙パンツを履いて過ごし、一日中ぼんやりとテレビを見ている。お風呂は随分前から入らなくなり、デイサービスを利用していた。
 認知症が進行し、その無気力状態のせいでADHDの症状が薄らいだのだろうか。

 不思議なことかも知れないが、良かった、と思った。実際、やりたい放題のADHDは認知症よりも疲れる。
 発達障害と認知症の因果関係について、正確なところはよく分からない。

 K子は大学2年生になっていた。はじめの頃は、高校から持ち上がりのメンバー同士がグループで行動していたようだった。
大学構内は広い。K子は凄い方向音痴だ。教室移動の際、一人では心細いだろう。仲間がいれば安心だ。
 推薦枠で入学したのは皆、公募展入選の常連で、とても楽しそうだった。最近は話をきかない。何かあったのだろうか。
「あの人達は、教職取ってるから忙しいみたいで、あんまり一緒にならない」
 K子は教職課程に未練があった。私が反対して選択を諦めたのだ。教育実習はヘビーだ。本当に子供が好きでなければ務まらない。生徒全員の顔と名前を覚え、毎日日誌を書き、授業計画を練る。人の顔を覚えるのが苦手なK子にはむりな話だった。大学入学当初、先生にも釘を刺された。
「せっかく大学に入ったのだから、教職くらい取れ、と親御さんに言われた人、そんな動機で教職を取るのは止めて下さい。取るからには真剣に教師を目指すこと。うちの教職課程は厳しいです」
 教員採用率は学校のメンツに係る。軽い気持ちで選択し、軒並みリタイアされてはたまったものではない。
 それでなくともK子はレポートの提出に苦しんでいた。昔から作文は苦手だった。
専門分野でも芸術文化論、芸術メディア論、西洋美術史、日本美術史、と苦手な歴史関係が目白押しだ。
 よせばいいのに哲学、医学概論、日本国憲法まで選択していた。
「だって、ためになるでしょ」
 一般教養はほどほどにして、肝心の絵にかける時間をキープすべきだった。

 姑の認知症が酷くなり、義理の姉にも薦められて施設を探すことにした。
「中々空きが無いから、とにかく早いとこ申し込んでおくと良いわよ」
 アッサリした気質の義姉だった。有り難い。
 私の留守中に、その義姉から電話があった。K子が受けたが
「ごめん、何言ってんだか全然分かんなかった」と謝った。
 「大丈夫、大丈夫」私は笑った。
「あの人、おばあちゃんと同じで、いつも自分の言いたいことだけワーッて喋って、それで満足してるの。人の返事なんてどうでもいいのよ。大した話じゃ無いから気にしなくていいわ。」
 大事な用ならパパに直接言うでしょ、と言いかけて、ハッとなった。
 K子は、泣いていた。
 見る間に顔が赤くなり、涙がボロボロと溢れてきた。
「うちも、うちも同じだった…、面白いと思って自分一人で喋って、それで……それで突き放された」

 ある時大学で、いつものように居残りしてふざけていると、高校からのグループの友達の一人が振り返ってK子に言った。
「なんでついてくるの?」
その時初めて気付いた。自分は、疎まれている。K子には、加減が分からない。ふざけすぎて、相手が辟易している気配がまるで分からないのだ。

 私が、悪かった。

 伝えなければ。K子に、アスペルガー症候群のことを、きちんと伝えなければならない。
 傷つけたくなくて、ずっと隠していた。私も、忘れたかったのかもしれない。K子は頑張っている。大学だって入れた。中学の時、特別支援学級に編入するように言った先生に「うちの子は、大学生になったんです。絵では賞も取りました」と言ってやりたかった。成績はそこそこだが、この推薦枠の合格はK子が自分の努力で咲かせた花なのだ。
 でも、アスペルガーの根っこは、努力で変わる類いのものでは無かった。根からは絶えず茎が伸び、脇芽を出しては花を脅かす。
 雑草、と踏みつけたりしないで欲しい。大事に育てれば、花は咲く。この先、なんとかして実になるのを待ちたい。K子もじき二十歳の誕生日を迎える。もう、スマホを握りしめて震えていた少女では無いのだ。

 思い切って伝えよう。
 「あなたはアスペルガー症候群です」

 どうか、現実を受けとめ、前に進めますように。
 
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