第20話 K子とお菓子工場

文字数 1,748文字

 初めて子供たちと一緒に行ったロードショーは「チャーリーとチョコレート工場」だった。
 私がネットで探したK子のアルバイト先は「ザルツブルクケーキワークス」
お菓子工場だ。人と会わないですむ、という訳にはいかないが接客業ではない。
 お菓子と工場のハッシュタグは必ずK子の心にヒットする。私は確信していた。

 話を持ちかけるとK子は、ちょっとニヤッとした。お菓子の焼ける甘い香り、バターと小麦粉、きらきらとしたグラニュー糖の優しい甘さを思い浮かべたに違いない。
「やってみようかな」
 良かった。善は急げ。人生初の自筆履歴書、鉛筆で丁寧に下書きし恐る恐るボールペンでなぞる。面接もクリアした。
 バイト初日、K子は頬を紅潮させて帰宅した。この顔は見たことがある。中学生の頃、家庭教師の先生と勉強した後の顔だ。いや、それとも、中学卒業間近、Fちゃんと一緒に学校から帰ってきた時の顔だろうか。
「疲れたでしょう」
「うん……仕事は、まだちょっと、…新しいバイトの子、可愛いいって言われた」
最小限の言葉しか発さないK子の話は、急に飛ぶ。嬉しそうだった。
 もはや大学でK子が会話をする相手は先生くらいだ。楽しいことがあるとK子は必ず報告するのに、最近では先生の話しか出ないのだ。
 それが、バイト先では色んな人に話しかけられ可愛いとまで言われた。気を良くしない訳がない。
 工場で働くのは予想通りおばさんが多いようだ。世話好きなおばさんがアレコレと教えてくれるのだろう。
「歳の近い学生ばかりの職場はまずい」私はそう思っていた。
「歳の近い人もいたよ」
「えっ?」
「よろしくねって言われた」
ひやりとした。いい人なら良いけど。
「工場の中、すごーい良い匂いなんだよ」
疲労に全身がとろけてしまいそうな様子だが、K子は何となく満足げだった。
 年末には慰労会が行われた。皆でボーリングをしてから宴会に及ぶという。ついに宴会初体験だ。
「お酒飲むなら、カクテル一杯にしときなさいね。あ、それとも酎ハイかな?ピーチとかグレープフルーツとか、今試してみる?」
「いい」
 何だか私の方がソワソワしている。ボーリング、というのが不安材料だが、所詮個人プレーだ。いくら下手でもバドミントンのような悲劇は起こらないだろう。
 結局お酒は飲まなかったようだが、K子は例のごとくほっぺたを赤くして帰ってきた。初めての慰労会は無事終わり、そこそこ楽しかったと見える。

 バイトでの体験は、始めのうち新鮮だった。だがK子の報告は次第に愚痴へと変わった。雑談が、耐えられないのだ。
 工場の衛生管理は厳しく仕事中は私語厳禁。上下の白衣にヘアキャップにマスク、フェイスシールドと完全防備。にもかかわらず、だ。
 「大学で油絵を描いている」という話を聞きつけ、休憩中に素人考えで絵の話を振ってくる人、工場で働く若い男とその男に恋心を抱く女子従業員、世話好きおばさん、周りは俗世間そのものの騒音で満ちていた。
「うちが黙ってるからかな、みんなだんだん指図するみたいな言い方になってきて…」
それも何となく分かる。大人しいK子相手に調子に乗っているのだ。
「そんなの、適当に聞き流したらいいよ、相手にすること無いって」
唯一感じの良かった歳の近い女性は、病気になり辞めてしまったと言う。
 結局K子は半年でお菓子工場のアルバイトを辞めた。直接の原因は、重い小麦粉の袋を持ち上げた時、軽いぎっくり腰になってしまったことだった。

「半年、まぁまぁじゃない」
ザルツブルクケーキワークスの訳ありココナツクッキーにサクッと齧りつき、私は熱い紅茶を飲んだ。市販されているクッキーとは段違いの美味しさだ。
 朝九時に工場の前で売り出される袋入りの格安訳ありクッキーは、5分後に完売となる。遅番の時にはバイトへのお裾分けもあった。
「また食べたいな、買いにいかない?」
「うちはもう行きたくない」
K子はジンジャークッキーをバリバリと食べ、ポケモンのマグカップからごくりと牛乳を流し込んだ。お菓子工場はすっかりイメージが悪くなってしまった。
 このアルバイトは、良い経験になるはずだった。重労働のアルバイトよりも、スキルを生かして就職し月給をもらえる方がずっと良い。K子はそう考えるようになるはずだったのだ。
 私の予定では。

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