第9話 影の薄いデッサン

文字数 1,979文字

 K子はアートスクールに通いだした。デッサンの勉強のためだ。授業料はさらに家計を圧迫したが、致し方ない。
 フレンチレストランやケーキショップが立ち並ぶ、小洒落た通りに面したビルの2階に、教室があった。近くには緑溢れる公園や美術館もあり、ロケーションは申し分ない。
 だが、新しい場所というのは、誰にでもよそよそしく感じられる。K子はそれが人一倍強い。私は見学を申し出ていた。「初回は見てても良いかな?」と持ち出すと、K子もホッとした表情を見せた。授業にも興味があった。最初の授業で提示されたモチーフは「縄」だ。

 西向きの広い教室は、土曜の午後の陽射しがたっぷりと差し込み、窓にはブラインドが下ろされている。無言で鉛筆を走らせる生徒達。
「友達が出来ればいいな」
私の淡い期待は、シャボン玉のように消え失せた。全くそんな空気ではない。
 「はい、終了」
先生の声が製作の終了を告げる。一瞬、ため息の合唱。生徒達は直ぐに立ち上がり、ガタガタと作品を並べ始める。白い紙に描かれた沢山の縄が教室の壁にズラリと並んだ。K子は、自分の作品を手にしたまま固まっていたが、派手なロングスカートの女性アシスタントがK子を促し、適当な場所を作ってくれた。中学より、まともな所のようだ。

「ん?」
私は目を疑った。K子のデッサンが見えない。いや、紙は画板ごと、ちゃんと先生が開けてくれた場所に置いてある。紙の中に描いてあるはずの、縄が見えないのだ。
 「薄すぎる…」
 K子はずっと、他の生徒達と同じように、紙の上に鉛筆を走らせていた。確かに描いてはいたのだ。でも、一時間以上かけて仕上げた作品は、幽霊のように存在感が無かった。
「イヤ、それじゃ幽霊に失礼。幽霊の方がまだ存在感が有る」心の中で訂正した。
 予想外の結果だ。きっとK子も青くなっているに違いない。このクラスの生徒達は中1から高2まで。小学生のクラスから通っている子も多いと聞く。実力の差を思い知らされた。

 デッサンには、立体の比率と、光と影の見極めが重要らしい。影を濃く表すことで光が際立つ。「面」に「線」は存在しない、私達の目は光と影によって立体を認知している、みたいなことをある先生が言っていた。
 K子はいつも、頭の中で拵えた異世界の住人ばかりを好んで描いていた。リアルの世界を直視していなかったのかも知れない。子供の絵画は、あらかたの形さえ描けば、色を丁寧に塗ることで見栄えが良くなる。けれども、デッサンには、剥き出しの画力が如実に現れるのだ。「私の娘は絵が上手い」と思っていたのは、自惚れだったのだろうか。

 ここで校長が登場した。
「校長」
 その先生は、自分のことをそう読んでいた。ロン毛にジーンズ、ストリートミュージシャンのような風貌だが、明らかに年齢不詳だ。
 校長は、その日の課題の考察、スクールでの製作に思うことをとりとめもなく語り、唐突に「これ描いたの、誰?」と作品の講評を始めた。その一枚一枚の、良い所、足りない所、事細かに分析した。「ここんとこは、もちっと何とかしたいと思って、迷って線を足してる時に終わっちゃったんでしょ」生徒は、ウンウンと頷く。描き手の気持ちを理解し、その成長度合いをも評価した。饒舌な、情熱的な先生であった。
 K子の初作品については、比較的影の薄い3作をまとめて「これとこれとこれも、今言った意味で押しが足りないね」と、バッサリ。
 名指しじゃなくて良かった。まだ講評を貰えるレベルに達していない。
 美術の先生は無口、と言う私のイメージは間違っていた。アーティストとは、こんなにも沢山の思いを抱き、作品と対峙しているものなのか。今さらながら、アートの奥深さを思い知らされる。

 帰り際、校長はK子と私に声をかけてくれた。
「K子ちゃん、どうだい?スクールの初日は。少しずつ慣れていけば良いさ。精進してな」と言って、ポンポンと肩を叩いた。K子の緊張は少しほぐれた様だ。有り難い。
「先生、ありがとうございました。あの、こんな調子で大丈夫でしょうか、皆さん上手で…」
 校長は、真面目な顔をしてこちらを向き直し「始めるには、中2が丁度いい頃合いなんですよ。中1じゃ、まだちょっと幼い。ものを見て、考えて、頭の中の像を平面に再現するって作業は、知的な発達も必要なんで」
 あれだけ話して、まだエネルギーが余っているらしい。その後、デッサン用鉛筆の種類、削り方、絵の具の種類について私達にレクチャー。受付にある画材売り場で、足りない道具を揃えることになった。ああ、また出費が…。壁に飾られたウォーホールのアートフレームを眺め、笑顔を作った。「ウエスは大丈夫?あ、これも用意しといた方が良いよ」紙製の使い捨てパレットも勧められた。
 そして最後にこう付け加えた。
「大事なのはこれから。不器用な子の方が案外伸びるもんです」
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