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文字数 1,155文字

血を滴らせながら、イグネフェルは夜空を風に流された。
夜より暗い大地に、忘れ去られた人の家がある。
その家の戸は歪んでおり、ノックをすれば大きく(たわ)む。

お父さん、イグネフェルです。

ただいま戻りました。

盲目の老人は、眠らずに息子を待っていた。

闇を這う気配がし、閂が外れた。

誰が押さなくとも、戸は勝手に外に向かって開かれた。

蝶番(ちょうつがい)が壊れているのだ。

おお、イグネフェル! イグネフェルか!

心配していたぞ。

私はこの通り(とこ)で安らうこともできんでな。

心配をかけてごめんなさい。
ナーシュは両手を()べながら戸口から一歩踏み出して、イグネフェルに触れようとした。

お父さん、僕に触れないでください。

僕の手は血で汚れています。

血だと?

アグアを討ったのか?

はい。

昨夜は東の城塞のアグアを、今夜は南の城塞のクヴァを討ち取って参りました。

なんと、一人ならず二人まで! それもこの僅かな間に!

これぞ在りし日の英雄の姿ではないか。

お前は私の誇りだ。

……………………。

どこも壊れてはいないか。

傷ついたり、外れたり――

大丈夫です、お父さん。

それはよかった。入りなさい。外はひどい臭いだ。家の中もさほど変わりはせんがな。

それもこれも無能な魔女のせいだ。

家に入り、閂をかけても、汚泥の臭いを締め出せた気はしなかった。

暗闇、そここそは、父なる者の住処だった。

イグネフェルは手探りで椅子を探し当てる。

僕が行った二つの城塞は、ひどくおかしなところでした。

人間は司令官しかいませんでした。

兵士はみな紋様でした。

ふん。

奴らは人間として壊れておったのだ。

だからこそ世界を滅ぼす魔女のために戦ったのだがな。

英雄イグネフェルについて教えてください。

おお、我が息子についてなら語る言葉をいくつも持っているぞ!

彼こそは――

待ってください、お父さん。

僕は、イグネフェルのほうこそは人間として壊れていなかったのかを知りたいのです。

何を言い出すのだ?

僕はイグネフェルを憎む者に教えられました。

彼が知っているイグネフェルは……

……とても恐ろしく…………残酷で……

(たぶら)かされておるのだ! いかん!

やくたいもない魔女の手下どもが吹き込んだことだろう!

それはイグネフェルが真の英雄だったからこそだ。奴らにとってお前が脅威だからこそ――

イグネフェル!

しっかりしなさい!

お前は奴らの言うことに耳を貸してはならん!

世界の希望はお前の他にないのだ!

私の希望はお前しか――

老人は自分の唾で噎せこんだ。

………………
そうですか……。
(ヴィゼリーっていうあの人……あの人の様子は僕を誑かそうとはしていなかった。本当に僕を、イグネフェルを憎んでいるようだった)
咳がやみ、老人は痰壺に痰を吐き出した。

その音を聞きながら、イグネフェルは決意した。

(真実を知らないと)
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登場人物紹介

イグネフェル

本作主人公の紋様兵器。魔女を討伐するべく旅に出る。

涙を流す機能がない。

ヴィオレンタ

本作のヒロイン。

セレナル

『世界の涙の魔女』。

30年前の器継承戦争によって魔女の地位を継いだ。

ミクリラ

30年前に名を上げた英雄オーレリアの孫娘。

ナーシュ

イグネフェルの創り主。

30年前の器継承戦争で息子イグネフェルを失い、自身は顔面を奪われた。

ヴィゼリー

西の浮遊要塞の司令官。生ける紋様兵器。

リーセリー

ヴィゼリーが連れている紋様兵器。

オーレリア

30年前の器継承戦争の英雄。ミクリラの祖父。

アグア

東の浮遊要塞の司令官。

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