◆02今日まで私はドレイだった-Ⅴ 岸辺にて
文字数 1,816文字
美しく透けるカラシリスが、その人の胸元で、川から吹くそよ風に揺れている。
ワンピースの上に、あの半透明の上着――カラシリス――をはおれるのは、身分の高い女性のしるしだと、母が言っていた。
王宮の方角から歩いてきた人影は、全部で四人。全員女だ。
カラシリスをまとっているのは、真ん中の女だけ。その人はきれいな石や硝子珠 をはめこんだ首飾りと、腕輪もつけている。カラシリスの下に着ているワンピースは、ひだがたくさん入っている豪華なものだ。
他の三人の女は、ただの生成りのワンピースで、籠や団扇 などの荷物をそれぞれ携えている。
高貴な女とその侍女たち。そう見て間違いないだろう。
あたしはパピルスの陰に身をひそめ、彼女たちに見とれていた。
侍女たちのワンピースは、飾り気はないものの生地にはつやがあり、あたしが身に巻きつけているぼろぼろの麻布とは、比べものにならないほど上質だ。
ドレイのあたしには一生、身にまとうことのできない服――この違いはなんなのだろう。エジプト人とヘブライ人に、そんな、格の違いがあるのだろうか。同じ人間じゃないのだろうか。
ねえ、天のあなた。同じはずの人間に、どうして、こんな残酷なことをなさるのですか。
侍女の一人が、川のほとりで敷物を広げた。
もう一人が「王女さま」と呼びかけて、その人の首飾りと腕輪とカラシリスをはずした。それから髪の結び目をほどいて、長い黒髪を垂 れさせた。
王女さま――ということは、ファラオの娘だ。
どうしよう、赤ちゃんの籠が見つかったら、その場で殺されてしまうかもしれない。
走り出て、籠を拾って逃げるべきか、あたしは迷った。
だけど、あたしはどこからどう見ても、ドレイのヘブライ人だから、そんなことしたらかえって目立つし、不審に思われるに決まっていて、追われてつかまって、赤ちゃんもろとも殺されるかも。
自分の膝が――左右の膝頭 がぶつかり合うほど――ふるえているのを、あたしは感じた。ふるえを止めようとしたけれど、他人の脚であるかのように、自由にならない。
侍女たちは、次に王女のワンピースを脱がせようととりかかった。どうやら王女は、これからナイル川で水浴びするつもりらしい。
彼女たちが川の浅瀬に入ったら、そのときこそ、赤ちゃんの籠を見つけてしまうかもしれない。
まずい――と、思った矢先。
「あの籠はなんでしょう」
王女が籠に気づいてしまった。そして、持ってくるよう侍女に命じた。
侍女の一人がサンダルを脱ぎ、衣のすそをまくって水に入り、葦をかきわけて籠に近づき、それを拾った。
そのとたん、赤ん坊の泣き声が響いた。
侍女は驚き、一瞬、籠を落としそうになりつつも、しっかりと抱え直して王女のもとへ運んできた。
王女のもとで籠のふたが開けられると、いっそう声高に赤ん坊は泣き喚 いた。
次の瞬間、あたしは目を疑った。
王女が赤ちゃんを抱き上げたのだ。ぎこちない手つきで、けれども、ためらいなく。そして、なんと、やわらかな笑みを浮かべてあやし始めた。
「これは、きっと、ヘブライ人の子です」
悲しげに眉根を寄せつつも、口元は笑んでいる。
もしかして、王女は赤ちゃんを不憫 に思ってくれている? そうだ、そうに違いないと、あたしは直感した。
「王女さま!」
気がつくと、あたしは叫び、全力で走り出していた。
侍女たちは顔色を変え、突進してくるあたしを制止しようと、王女の前に立ちふさがって腕や肩をつかんできた。
あたしは素直に足を止め、けれども王女を呼び続けた。
王女は彫りの深い顔立ちに、微笑をたたえてあたしを見た。
「なんでしょう、話してごらんなさい」
思慮深く、優しい声音だったので、あたしはどうにか、口を開いた。
「この子に、乳を飲ませる、ヘブライ人の乳母を、呼んでまいりましょうか」
そう言ってしまってから、最初に「おそれながら」をつけるべきだったと気づき、恥ずかしくなって縮こまった。
王女はしばし考えていた様子だったけれど、
「そうしておくれ」
短く、それだけを応えてくれて、あたしにはそれでじゅうぶんだった。
王女の口調は慈しみに満ちていて、まるであたしに、「余計なことは言わなくていい」と告げてくれているみたいだったから。
ワンピースの上に、あの半透明の上着――カラシリス――をはおれるのは、身分の高い女性のしるしだと、母が言っていた。
王宮の方角から歩いてきた人影は、全部で四人。全員女だ。
カラシリスをまとっているのは、真ん中の女だけ。その人はきれいな石や
他の三人の女は、ただの生成りのワンピースで、籠や
高貴な女とその侍女たち。そう見て間違いないだろう。
あたしはパピルスの陰に身をひそめ、彼女たちに見とれていた。
侍女たちのワンピースは、飾り気はないものの生地にはつやがあり、あたしが身に巻きつけているぼろぼろの麻布とは、比べものにならないほど上質だ。
ドレイのあたしには一生、身にまとうことのできない服――この違いはなんなのだろう。エジプト人とヘブライ人に、そんな、格の違いがあるのだろうか。同じ人間じゃないのだろうか。
ねえ、天のあなた。同じはずの人間に、どうして、こんな残酷なことをなさるのですか。
侍女の一人が、川のほとりで敷物を広げた。
もう一人が「王女さま」と呼びかけて、その人の首飾りと腕輪とカラシリスをはずした。それから髪の結び目をほどいて、長い黒髪を
王女さま――ということは、ファラオの娘だ。
どうしよう、赤ちゃんの籠が見つかったら、その場で殺されてしまうかもしれない。
走り出て、籠を拾って逃げるべきか、あたしは迷った。
だけど、あたしはどこからどう見ても、ドレイのヘブライ人だから、そんなことしたらかえって目立つし、不審に思われるに決まっていて、追われてつかまって、赤ちゃんもろとも殺されるかも。
自分の膝が――左右の
侍女たちは、次に王女のワンピースを脱がせようととりかかった。どうやら王女は、これからナイル川で水浴びするつもりらしい。
彼女たちが川の浅瀬に入ったら、そのときこそ、赤ちゃんの籠を見つけてしまうかもしれない。
まずい――と、思った矢先。
「あの籠はなんでしょう」
王女が籠に気づいてしまった。そして、持ってくるよう侍女に命じた。
侍女の一人がサンダルを脱ぎ、衣のすそをまくって水に入り、葦をかきわけて籠に近づき、それを拾った。
そのとたん、赤ん坊の泣き声が響いた。
侍女は驚き、一瞬、籠を落としそうになりつつも、しっかりと抱え直して王女のもとへ運んできた。
王女のもとで籠のふたが開けられると、いっそう声高に赤ん坊は泣き
次の瞬間、あたしは目を疑った。
王女が赤ちゃんを抱き上げたのだ。ぎこちない手つきで、けれども、ためらいなく。そして、なんと、やわらかな笑みを浮かべてあやし始めた。
「これは、きっと、ヘブライ人の子です」
悲しげに眉根を寄せつつも、口元は笑んでいる。
もしかして、王女は赤ちゃんを
「王女さま!」
気がつくと、あたしは叫び、全力で走り出していた。
侍女たちは顔色を変え、突進してくるあたしを制止しようと、王女の前に立ちふさがって腕や肩をつかんできた。
あたしは素直に足を止め、けれども王女を呼び続けた。
王女は彫りの深い顔立ちに、微笑をたたえてあたしを見た。
「なんでしょう、話してごらんなさい」
思慮深く、優しい声音だったので、あたしはどうにか、口を開いた。
「この子に、乳を飲ませる、ヘブライ人の乳母を、呼んでまいりましょうか」
そう言ってしまってから、最初に「おそれながら」をつけるべきだったと気づき、恥ずかしくなって縮こまった。
王女はしばし考えていた様子だったけれど、
「そうしておくれ」
短く、それだけを応えてくれて、あたしにはそれでじゅうぶんだった。
王女の口調は慈しみに満ちていて、まるであたしに、「余計なことは言わなくていい」と告げてくれているみたいだったから。